第三十一奇跡 帰る場所
「……筋肉さん?」
カヨナの唇から、その名前が零れた。
夕陽の残照を背負い、海面すれすれを飛んでくる紫色の人影。まだ顔までは見えない。けれど、分かる。
あの身体を知っている。そして何より――あんな馬鹿げたことを本気でやる人間を、カヨナは一人しか知らなかった。
「……馬鹿」
頬を伝った涙が、海風にさらわれていく。
どうしてここにいると分かったのか。どうやって人間が海の上を飛んでいるのか。そもそも、何故あんなにも紫色なのか。
何一つ分からない。
それでも、たった一つだけ分かることがあった。
筋肉さんが、アタシを追いかけてきてくれた。
「……っ」
胸の奥がいっぱいになった。
カヨナは船尾の手すりを両手で握り、身を乗り出す。黒いポニーテールが夕暮れの風を受け、大きく揺れた。
もう、我慢する理由なんてない。
「筋肉さーーーーん!! アタシはここにいるからーーーー!!」
当然、届くはずがない。相手は音速で飛んでいる。そもそも、人間が音速で飛んでいる時点で、届く届かない以前に考えるべきことが山ほどある。
だが、もうそんなことはどうでもよかった。
今度は伝えたかった。言えないまま離れてしまった自分の声を、今度こそ、この人へ。
「筋肉さん!!」
その瞬間だった。
ゾンネン・ブルーメの船内で、複数の警告音が重なった。
《周辺感情素子量――上昇》
航行制御盤の片隅で数値が跳ね、船内設備へ感情素子を供給する受信機が瞬間的な変動を検知する。
船員が表示を見た。
「何だ、これ……?」
供給網から流入したものではない。
海上。この船の周囲で、感情素子そのものが増えている。
感情生命体が感情を抱けば、感情素子は生まれる。嬉しい時も、悲しい時も、誰かを想った時も。この世界では当たり前のことだった。
だから機械は、ただそこに生まれたものを観測した。その意味までは知らない。
カヨナも知らない。ヒロも知らない。
二人には、そんなものを見る余裕などなかった。
紫色の男が近づいてくる。カヨナは叫ぶ。返事など聞こえない。
それでも、胸の奥へあの男の声が届いたような気がした。
――分かっている。
「……っ」
また涙が溢れた。でも、今度は拭わない。
ひまわりは太陽を追いかける。朝は東を向き、昼には空を見上げ、夕暮れには沈んでいく光を最後まで見送る。
なら、今日くらいは逆でもいい。
沈んでいくはずだった太陽が、一輪のひまわりを追いかけてきたっていいじゃないか。
カヨナは息を吸った。
「アタシは――!!」
黒いポニーテールが風に舞う。
「アタシはひまわり!!」
それは名前ではない。理屈でもない。ましてや、まだ告白なんかでもない。
ただ、この男と出会ってカヨナの中に生まれた、一つの答えだった。
そして同じ瞬間、海面すれすれを飛ぶ男も肺の奥から声を叩き出した。
「俺は太陽!!」
届くはずのない声と声が、夕暮れの海で重なった。
その瞬間、ゾンネン・ブルーメの感情素子受信機が再び大きく振れた。海風の中で、光とも塵ともつかない微かな煌めきが舞う。
科学は、それを観測した。
けれど、何故この二人なのか。何故、今なのか。そこまでは、まだ誰も知らない。
そんなことは二人にも関係なかった。
因果律も、合理性も、理屈も、今だけは二人の間へ入る余地などない。
「筋肉さん!!」
太陽が近づいてくる。
「こっちです!!」
ひまわりが手を伸ばす。
百メートル。
五十。
二十。
十。
五。
あと少し。
もう少しで、届く。
そして――。
シュゴワァァァァァァァァァァァァ!!!
「……」
通過。
「……」
カヨナの黒いポニーテールが衝撃波で盛大に後ろへ流れた。
乗客も、船員も黙っていた。
《周辺感情素子量――》
機械だけが何かを伝えようとしている。
誰も聞いていなかった。
カヨナは伸ばした手をそのままに、ゆっくりと顔だけを動かした。
紫色の飛翔体が、ゾンネン・ブルーメの反対側へものすごい勢いで遠ざかっていく。小さく、さらに小さく。
肩が震えた。
「……ふっ」
堪えようとした。
無理だった。
「ぷっ……あはっ!」
涙を流したまま、カヨナは吹き出した。
「あははははっ! やっぱり……そうなるよね!」
だって、ヒロなのだ。
音速で追いかけてきて、綺麗に船へ降り立って、二人が抱き合う。そんな普通の物語みたいなことを、この男ができるはずがない。
遠ざかる紫色の点を見ながら、カヨナは目尻の涙を指で拭った。
「……へんなひと」
その声には、もう寂しさはなかった。
◇
それから、ほんの僅かな時が流れた。
夕陽は水平線へ触れ、茜色の海にはゾンネン・ブルーメの白い航跡が長く伸びている。
そんな旅の終わりと始まりが入り混じる景色の中、一人の男が――何故か甲板に立っていた。
紫色の競泳ブーメラン。上半身は裸。ゴーグル。スイムキャップ。
先ほど音速でこの船を通過し、そのまま水平線の彼方へ消えた男である。
どうやって戻ってきたのか。どうやって着地したのか。そもそも何故、五体満足なのか。
申し訳ございません。
私、地の文 a.k.a.神の声にも分かりません。
ヒロは何事もなかったかのように腕を組んだ。
「何とか間に合った」
「普通は間に合ってませんよ」
「そうか?」
「筋肉さんは普通じゃありません」
「いや。普通だ」
「普通じゃないです」
「普通だ」
「普通じゃありません」
「普通だ」
「普通じゃ――」
二人の目が合った。
どちらからともなく、笑った。
理由なんてどうでもよかった。
もう一度会えた。もう一度話せた。もう一度、互いの声を聞けた。
それだけで十分だった。
海風が吹き、カヨナの黒いポニーテールが夕陽の中でさらりと揺れた。
ヒロは目の前の女性を見る。
このために来た。
命令するためではない。説得するためでもない。カヨナが何を選ぶかは、カヨナが決めればいい。
だから、自分が伝えることは一つだけだった。
「カヨナ」
「はい」
「帰ろう」
カヨナの瞳が揺れた。
短い言葉だった。理由も説明もない。
けれど、その一言のために、この男は港まで走り、船に間に合わず、紫色の競泳パンツを履き、尻を蹴られ、音速を超え、一度通過して、それでも戻ってきた。
ヒロは続けた。
「一緒に」
「……」
――帰りたい。
カヨナは、その言葉を胸の中で繰り返した。
旅は好きだ。まだ見たことのない景色を見たい。知らない土地へ行って、知らない人に出会いたい。その気持ちは今も変わっていない。
けれど、旅をすることと、帰る場所を持つことは、きっと同じではない。
ユウカがいる。ホシがいる。ゆかりがいる。そして、この人がいる。
場所ではなく、帰りたい人たちがいるところ。
それを「帰る場所」と呼んでも、いいのかもしれない。
「……はい」
一粒だけ涙が零れた。それでもカヨナは笑っていた。
「帰ります」
ヒロも笑った。
「そうか」
「はい。それと」
「何だ」
「また夕凪に行きたいです」
「そうだな」
「今度は、もっといっぱい食べます」
「まだ食うのか」
「食べます」
「そうか」
「はい」
二人はまた笑った。
その向こうで、夕陽がゆっくりと海へ沈んでいく。街では夕暮れを知らせるように灯りが点き始めていた。
人々が今日一日、笑い、怒り、泣き、誰かを想いながら生み出した感情素子が社会供給網を巡り、街灯を灯し、交通を動かし、家々へ明かりを届けていく。
奇跡のあとにも、世界はいつも通り動いている。
感情で。
人が生きている証で。
今日という一日が終わろうとしていた。
けれど二人にとって、これは何かが終わる夕暮れではない。
同じ場所へ帰るための、最初の夕暮れだった。
――バタバタバタバタバタバタ!!
「……?」
「……?」
激しいローター音が、その余韻を粉砕した。
一機のヘリコプターが夕陽の残る空から接近してくる。開いた扉から、誰かが身を乗り出した。
「迎えに来ましたよーーーー!! 陽主様ーーー!! カヨナさーーーん!!」
ユウカだった。
満面の笑みで手を振っている。
「……」
ヒロはヘリを見る。
自分の紫色のブーメランを見る。
遥か彼方の港を見る。
「……最初からヘリで来ればよかった」
「はい」
カヨナは笑顔で頷いた。
「そうですね」
◇
その頃。
夕陽がほとんど沈んだ港では、狂迅丸が変わらぬ威容を誇っていた。
荷台では、ゆかりが牛肉弁当を食べている。隣ではホシが静かに箸を進めていた。
「……ん?」
ゆかりが空を見る。一機のヘリが遠ざかっていく。
「あれ、姫のヘリだよな?」
「あぁ」
箸が止まった。
「おーーーい!! 筋肉ォォォォォ!! 置いてくなァァァァァ!! 牛肉奢るって言っただろォォォォォ!!」
届かない。
ホシは箸を止めた。
狂迅丸を見る。
海を見る。
ヘリを見る。
大型ダンプで爆走した。
警察に追われた。
競泳パンツになった。
尻を蹴った。
尻を叩いて音速を超えた。
船を通過した。
何故か戻った。
最後はヘリで帰るらしい。
「……俺らは一体」
一拍。
「何を見せられていたんだ」
誰も答えなかった。
◇
ヘリの窓から、カヨナは遠ざかるゾンネン・ブルーメを見ていた。
あの船に乗った時、自分は一人で次の土地へ向かうつもりだった。次の太陽を探すつもりだった。
旅をやめたわけではない。世界は広い。いつかまた、知らない場所へ向かう日も来るだろう。
それでも今は、帰りたい。
隣にはヒロ。向かいにはユウカ。帰ればホシがいる。ゆかりもいる。たぶん、物凄く怒っている。
「……ふふっ」
小さく笑った。
窓の向こうで、最後の夕陽が水平線へ沈んだ。夜が来る。街には明かりが灯る。
それでもカヨナは、もう次の太陽を探そうとは思わなかった。
見つけたから。
自分が顔を向けていたいと思える太陽を。
そして、太陽もまた、一輪のひまわりを見つけた。
奇跡とは、人が音速を超えることではない。海の上を飛ぶことでもない。ましてや、紫色の競泳パンツで水平線の彼方から生還することでもない。
一人で歩いてきた誰かに、帰りたい場所ができること。誰かと一緒に、明日へ帰りたいと思えること。
それは世界から見れば、きっとありふれた出来事なのだろう。
けれど、誰かと出会うことで、その人の世界は変わる。
帰る場所が、一つ増える。
会いたい人が、一人増える。
明日が、少しだけ楽しみになる。
それくらいのことを、私たちは――奇跡と呼んでもいいのかもしれない。
太陽とひまわりの物語は――ここから始まる。




