第二茶番 十年越しの追跡者
三人の男たちは、思いのほか話し上手だった。
必要以上に素性を尋ねてくることもなく、旅先でありがちな詮索もない。当たり障りのない話題に、ときおりくだらない冗談を混ぜてくる。
距離の取り方が上手いのだ。
最初こそ多少の警戒を残していたカヨナも、いつしか自然に笑っていた。
「でも、不思議ですよね」
男の一人が、ふと口にする。
「なんていうのかな。帰ってきた感じがするんですよ」
カヨナの指が止まった。
「この街?」
「そう。昔、住んでたわけじゃないんですけどね」
ほんの一瞬、黙る。
それは先ほど、自分が夜の街を歩きながら感じたものとよく似ていた。
知らないはずなのに、懐かしい。
覚えていないはずなのに、帰ってきたような気がする。
「……分かるかも」
カヨナの頬が、ふわりと緩んだ。
だからこそ。
その瞬間に起きた小さな変化を、彼女は見逃さなかった。
三人の視線が交わる。
ほんの一瞬。
言葉もない。
頷きさえしない。
ただ、それだけだった。
(……ん?)
胸の奥に、小さな棘が刺さる。
「はい、どうぞ」
男の一人が、新しいグラスを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
カヨナは笑顔のまま受け取り、口元へ運ぶ。
そして――止まった。
酒の香り。
その奥に、ほんの僅かに混じる異質な匂い。
「……」
もう一度、鼻先で確かめる。
薬品。
極めて微量。
普通なら酒の香りに紛れてしまうほどのものだった。
けれど。
カヨナの身体は、その匂いを知っていた。
泥の匂い。
血の匂い。
肌を刺すような緊張。
息を殺し、相手の一挙手一投足を窺う感覚。
そして、戦場で嗅いだ薬品の残り香。
断片だけが脳裏を掠め、霧の向こうへ消えていく。
記憶はない。
それでも、身体だけは覚えている。
――眠らせる薬。
カヨナはグラスを卓へ戻した。
「ごめんなさい」
にこっ。
先ほどまでと変わらない、愛嬌のある笑顔。
「ちょっと、お手洗い」
三人も笑った。
カヨナも笑った。
ただし。
互いの目だけは、笑っていなかった。
◇
店を出ても、カヨナは走らなかった。
振り返らず、普段と変わらない歩調で大通りへ出る。角を一つ曲がり、さらにもう一つ。
そこで初めて、そっと背後を確認した。
「……」
いる。
先ほどの三人。
少し距離を空けながら、こちらへ歩いてくる。
「やっぱりぃぃぃ……」
できれば気のせいであってほしかった。
どうやら、そう都合よくはいかないらしい。
目が合った。
男の一人が通信機を取り出す。
「対象確認。追跡を開始する」
「あわわ……」
完全に狙われている。
「なんなのもう!!」
カヨナは踵を返した。
そして――走った。
◇
夜の繁華街を、群青色の外套が駆け抜ける。
背後から三つの足音。
タッ。
タッ。
タッ。
速い。
しかも一定。
「しつこいぃぃぃ……!」
カヨナは人混みへ飛び込んだ。
前を横切る親子連れ。その進行方向を読むように背後へ滑り込み、ふらつく酔客の肩が進路へ入るより先に半歩だけ軸をずらす。
考えてはいない。
どの隙間を抜ければいいのか。
どこへ足を置けば速度を殺さず曲がれるのか。
身体が勝手に知っている。
本人は大慌てなのに、足運びにはほとんど無駄がなかった。
それでも。
三つの足音は離れない。
タッ。
タッ。
タッ。
「……?」
カヨナの眉が寄った。
この間合いを、知っている。
そんなはずはない。
この気配を、知っている。
そんなはずはない。
なのに――。
胸の奥が、また温かい。
追われているというのに。
どうしてか、その足音が。
懐かしい。
◇
少し後方。
追跡者の一人――鴉壱が通信機へ手を伸ばした。
「こちら鴉壱。筆頭、聞こえますか」
『聞こえている』
「対象を確認しました」
前方を走る長い黒髪。
群青色の外套。
腰には紫色の鞘。
十年という歳月が流れている。
それでも、見間違えるはずがない。
「間違いありません」
一拍。
「カヨナ・ワダツミです」
――沈黙。
通信は繋がっている。
それなのに、向こうから声が返ってこない。
やがて、小さく息を吐く音が聞こえた。
『……そうか』
普段とは違う、穏やかな声だった。
『本当に、生きていたか』
もう一度、微かな吐息。
それが安堵だったのか、十年間張り詰めていた何かが解けた音だったのか。
三人には分からない。
ただ。
『ありがとう』
その一言に込められたものだけは、十分すぎるほど伝わった。
十年。
その人は、探し続けていた。
どこへ消えたのかも分からない。
生きているのかさえ分からない。
それでも、やめなかった。
誰よりも彼女を探していたのは――あの人だった。
しばしの沈黙のあと、声がいつもの調子へ戻る。
『引き続き追跡しろ』
「了解」
『だが――絶対に傷付けるな』
声に強さが宿る。
『これは命令だ』
「了解」
通信が切れた。
三人はしばらく無言で走り続けた。
やがて、一人がぼそりと呟く。
「……聞いたか?」
「あぁ」
「初めて聞いた」
「何を?」
僅かな笑い。
「筆頭が礼を言うところ」
ほんの少しだけ、三人の空気が柔らかくなった。
その視線の先では、カヨナが人と人との隙間を縫い、誰にもぶつからず走り続けている。
「この動き……」
一人の口元が緩む。
「懐かしいな」
「あぁ。十年前と変わらない」
「いや」
もう一人が笑った。
「むしろ速くなってる」
三人もまた、懐かしそうに笑っていた。
獲物を見る顔ではない。
ましてや、敵を見る顔でもなかった。
◇
そんなことなど知る由もなく。
「しつこいぃぃぃ……!」
当のカヨナは必死である。
そのとき、前方に細い路地が見えた。
大通りから外れ、人影もない。
「あそこ!」
迷わず飛び込む。
これなら撒ける。
そう思った数秒後。
「……え?」
カヨナの足が止まった。
目の前には、高い石壁。
左右には建物。
その先へ続く道は――ない。
「うそでしょ……」
見事な行き止まりである。
先ほどまで人混みを読み切り、追跡者三人を相手に華麗な逃走劇を繰り広げていた女性と同一人物とは思えない。
夜風が、長いポニーテールを揺らした。
その背後から。
タッ。
タッ。
タッ。
三つの足音。
「参ったなぁ……」
カヨナは頭を掻きながら振り返った。
路地の入口。
暗がりから三人の男が姿を現す。
逃げ場はない。
それでも、不思議と怖くなかった。
むしろ。
目の前の三人を見ていると、胸の奥へあの温かさが戻ってくる。
忘れてしまった名前が、もう少しで出てきそうな。
そんな、もどかしさ。
やはり――懐かしい。
「ねぇ」
カヨナは少しだけ首を傾けた。
「私に何の用?」
返事はない。
三人の立ち位置を見る。
重心。
間隔。
こちらとの距離。
カヨナの瞳から、柔らかな色が消えていった。
――全員、強い。
一人が静かに刀へ手を添える。
「……」
カヨナも小さく息を吐き、腰へ右手を伸ばした。
指先が、紫色の柄へ触れる。
カチリ。
鯉口の鳴る音が、路地へ響いた。
三人も構える。
誰も抜かない。
誰も動かない。
揺れる行灯の明かりの中、次に誰かが指一本でも動かせば、すべてが始まる。
そんな張り詰めた空気の中で。
カヨナの肩から、ふっと力が抜けた。
「仕方ないか」
困ったように笑う。
「久しぶりの葦原界観光だったんだけどなぁ」
少し垂れた目尻。
愛嬌のある、可愛らしい笑顔。
けれど。
刀へ添えられた右手だけは、微動だにしない。
そして――。
それが、戦闘開始の合図となった。




