第十九話 この娘なら……安らぎを与えられるかもしれない
夕刻。
ヴァルディア公爵家の広い食堂には、長い晩餐用のテーブルが静かに置かれていた。
そのテーブルの両端に、二人の女性が座っている。
片方は、エレノア・ヴァルディア。
もう片方は――リリアだった。
広い食堂には、かすかな食器の音だけが響いている。
二人の間には、しばし静かな間が流れた。
やがて、使用人が近づき、ワインを注ぐ。
赤い液体がグラスの中で揺れる。
その静寂を、エレノアが穏やかに破った。
「さて」
ゆっくりとワイングラスを持ち上げる。
「あなたは、アルヴィンにとって……どんな存在なのかしら?」
リリアの背筋が、わずかに伸びた。
エレノアは落ち着いた口調で続ける。
「今回のゴブリン騒動で、家に居られなくなった人は大勢いるわ」
グラスを軽く揺らす。
「でも、なぜあなたはその中で、アルヴィンに選ばれたのか」
そして、少しだけ笑った。
「あの子はね」
「家に、誰かを私的に連れて帰ったことがないのよ?」
リリアの目がわずかに見開かれる。
「何が言いたいか、わかる?」
エレノアは静かに言った。
「ゴブリン騒動は、アルヴィンにとって、
あなたが特別であることを示したきっかけに過ぎないってこと」
リリアは一瞬、言葉を失った。
なぜなら――
アルヴィンから、そんな話を聞いたことは一度もない。
彼の気持ちも知らない。
そもそも、まともに会話をした回数だって少ないのだ。
ただ。
彼が自分を大切にしてくれている。
それは、なんとなく分かる。
けれど――
それすら、自分の思い込みかもしれない。
(アルヴィン様に大事にされています)
もしそんなことを言って、違っていたら。
それはアルヴィンに対しても、エレノアに対しても失礼になる。
リリアはゆっくり口を開いた。
「あの……」
「アルヴィン様が私をどう思っているのかは、分かりません」
エレノアは黙って聞いている。
「私のお店にアルヴィン様が来られたのは、二、三回ほどです」
「そのうち一度は、私が倒れそうになっていた時で…
そのとき、アルヴィン様は私を介抱してくださいました」
リリアは少し思い出すように言った。
「そして最近……ゴブリン騒ぎの時に駆けつけてくださって」
「そのぐらいのことしか、事実としてお話できることはありません」
エレノアは、グラスを傾けながら思った。
――自分がアルヴィンの妻になるだとか。
――特別な関係だとか。
そういう話は、まったくしないのね。
ヴァルディア家を利用するつもりでもなさそう。
欲望のためにアルヴィンへ近づいたわけでもない。
むしろ。
アルヴィンの気持ちについて、私に誤解を与えないことを重視している。
つまり――
アルヴィンの立場を考えて答えている。
それとも、誠実に振る舞っているだけ?
……あるいは。
そう見せかけている?
(でも、何のために?)
エレノアは微笑み、話を続けた。
「そう」
「じゃあ」
「あなたは、アルヴィンのことをどう思っているのかしら?」
リリアが少し身を固くする。
「アルヴィンの気持ちは分からなくても」
「あなたの気持ちは、あなたが分かっているでしょう?」
リリアは思った。
(そんなこと聞くなんて……)
いくら社交界の頂点とはいえ、不躾ではないだろうか。
だが、相手はエレノア。
何も答えないわけにはいかない。
それに――
エレノアは、アルヴィンとともにヴァルディア家を守る人でもある。
当主である最重要人物アルヴィンと一緒にいる自分のことを気にするのは、
当然なのかもしれない。
リリアは静かに言った。
「あの……」
「私も二、三回お会いしただけなので、まだ何とも言えません」
そして、少し考える。
「ただ……」
エレノアが繰り返した。
「ただ?」
リリアは言った。
「失礼な表現だったらすみません」
「アルヴィン様は“冷徹の騎士”と呼ばれているそうですが……」
「私には、そうは見えませんでした」
エレノアの眉がわずかに動く。
「むしろ……」
リリアは言葉を探しながら続けた。
「自分の気持ちを表現するのに苦労されているというか」
「お立場もあるのかもしれませんが……」
「一つ一つの言葉や行動には、ちゃんと意味があって」
「その中には……思いやりもあって」
エレノアは小さく相槌を打った。
「へえ……」
そして思う。
――言い当てているわ。
その通りよ。
あの子をそう育てたのは、私。
考えていることを相手に悟らせてはいけない。
感情を見せてはいけない。
ヴァルディア家の当主として。
そう教えた。
そのせいで。
自分の気持ちを隠す癖がつき。
自分の気持ちを理解するのも。
表現するのも。
苦手になってしまった。
そんなあの子を――
数回しか会っていないこの娘が、言い当てている。
エレノアはゆっくり言った。
「そう」
「では…これから、アルヴィンに望むことはあるかしら?」
「あるいは、ヴァルディア家には?あなたの希望はある?」
リリアは、迷いなく答えた。
澄んだ目だった。
「いいえ。何もありません」
エレノアが少し驚く。
「私は食堂の娘です」
「店の修理が終わったら、店に戻ります」
「そこが私の居場所ですから」
「修理が終わるまで、ここに置いていただけるだけで感謝しています」
少し困ったように笑う。
「お礼もできませんが……」
「奥方様をお呼びすることができるほど格式は、私の店にはございませんし…」
エレノアは少し首を傾げた。そして穏やかな声で言った。
「あら」
「私をあなたのお店に招待してくれるの?」
「え!?」
リリアは慌てる。
「い、いえ! ……いや、いえではなく!」
「もちろん歓迎いたしますが…」
「奥方様のような高貴なお方に来ていただくようなお店では……」
エレノアは小さく笑った。
「そう」
「そうかもしれないわね」
エレノアの"そうかもしれないわね"には嫌味は全くなかった。
むしろ、寂しそうですらあった。優しい表情でそう語ったのだ。
彼女は自由に行きたいところに行けるわけではない。
それがヴァルディア家の元公爵夫人という立場であった。
そして静かに言った。
「あなたと話せて…良かった。
どうぞゆっくりしていってね」
そして、ふと表情を柔らかくする。
「そうだわ」
「ひとつ謝らないといけないことがあるの」
リリアがきょとんとする。
「謝ること……?」
(な、なんだろう……)
エレノアはさらりと言った。
「使用人の顔をすべて覚えていると言ったでしょう?」
「――あれは嘘よ」
リリアは固まった。
「えっ!?」
「そ、そうだったんですか!?」
「たくさんいらっしゃいますもんね……」
(ガーン……)
(私、騙されたんだ……)
(あの時のジイの顔は“騙されて本当のこと言っちゃダメ”って意味だったのかな……)
エレノアは思った。
――不思議な子。
アルヴィンのことはあんなに理解しているのに。
私の嘘には気づかなかった。
いや。
疑うという発想がないのね。
ジイやアルヴィンが気に入るのも分かる。
社交界は、疑うことから始まる世界。
私とはまるで違う。
(この娘なら……)
(あの子に安らぎを与えられるかもしれない)
そのときだった。
「母上!」
食堂の扉が勢いよく開く。
現れたのは――アルヴィンだった。
「これはどういうことですか!」
鋭い声だった。
「リリアは私の客人です」
「勝手に彼女と食事をするなんて……!」
明らかに怒っている。
エレノアは平然としていた。
「あなたのお客様は、ヴァルディア家のお客様」
「当然、私もおもてなしをしないと」
「そうでしょう?」
アルヴィンは苦い顔をする。
「……くっ」
エレノアは楽しそうに言った。
「あなたが、この家で」
「私との晩餐の席に現れるなんて」
「何年ぶりかしら?」
「珍しいこともあるものね…
あなたも席についたらどうかしら?
三人で話でもしましょう」
リリアが慌てて言う。
「あ、あの……アルヴィン様」
「奥方様は、ディナーに招いてくださっただけです」
「そんなに怒ることでは……」
アルヴィンは短く言った。
「行こう、リリア」
「え?」
「でも……まだお食事の途中……」
アルヴィンはエレノアを強く見る。
「いいんだ」
「母上」
「よろしいですね?」
エレノアは肩をすくめた。
「別に取って食べるわけじゃないのに」
そして優しい穏やかな表情で続けた。
「そんなにリリアさんが大事なのね…」
「あなたも席について――」
そこまで言いかけたとき。
アルヴィンが遮る。
アルヴィンには優しさも穏やかさもその時はなかった。
「母上」
低い声だった。
「よろしいですね?」
エレノアは少しだけ笑った。
「あなたがこの家の当主よ」
「この家では、あなたはいつでも自由」
アルヴィンは頷く。
「行こう」
そう言って、リリアの手を取った。
そのまま食堂を後にする。
リリアは振り返る。
「あ……あの……」
エレノアはそこに座っていた。
少し寂しそうで。
それでも――
どこか優しい目をしているようにも見えた。
リリアは思った。
(アルヴィン様……)
(お母様と、何かあったのかな……)
少なくとも。
エレノアは、冷酷な人には見えなかった。
特に――
アルヴィンと話している時は優しく、穏やかな表情だった。
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