第1話-3:世界が泣く声
【1】
突如、背後へ落ちた声は刃のように冷たかった。
カズヤは反射でアマネを庇い、振り返る。
雨を弾く黒い外套。闇から現れた青年が名乗った。
「監査局第七部隊・隊長――セイル・オーウェルだ」
濡れた金髪。
翡翠の眼が、こちらを値踏みするように光る。
その後ろから部隊が影のように広がった。
「その娘は我々の“保護”対象だ。
君は外典――本来なら即時排除だが、娘を引き渡せば目を瞑る」
アマネが小さく震えた。
カズヤは前へ出る。
「何が“保護”だ。それでこいつは救われんのかよ」
セイルは眉ひとつ動かさない。
「知らん。上の命令だ。
正典の正義に従い、任務を遂行する」
「正義だぁ? 誰を救う正義だ!」
雨音が膨れ上がる中、セイルは小さく息を吐いた。
「攻撃開始――外典を排除しろ」
水溜まりが弾け、黒影が飛びかかった。
⸻
【2】
剣がぶつかり、エーテルの光が夜を裂く。
カズヤはダン仕込みの剣技で応じた。
踏み込み、はじき、返す。
雨で滑る足場をものともせず、敵の懐へ潜る。
隊員の間合いを逆手に取り、二手三手と崩していく。
影が一人、また一人と下がり、倒れていった。
だが、数は剣を鈍らせる。
背後からの刃、横合いの突き。
避けるだけで体力が削られていく。
アマネは瓦礫の陰で息を潜めるしかなかった。
その時。
「〈理水の残響〉を、ここに綴る――」
セイルの剣紋が光り、周囲の雨水が刃へ集束した。
水の線が生き物のように形を変え――“弾けた”。
一直線に走った水の刃が、カズヤの頬をかすめる。
即座にもう一撃。
回避した先でまるで狙いを再調整するように、一度だけ小さく角度を変え、死角から肩口へ飛び込んでくる。
三撃目。
雨粒に混ざって軌道が見えにくいまま、カズヤの足元へ滑り込むように突き刺さった。
水の打撃と、繊維を裂くような鋭い痛みが同時に走る。
「っ……ぐ……!」
カズヤの膝がついに沈んだ。
セイルは冷たい眼で見下ろす。
「腕は悪くない。だが、残響を使わないな。
まあ、忌まわしい外典の記憶を受け入れられないだけだろうが」
残響を行使するとは、己に刻まれた記憶と向き合うことだ。
彼、セイル・オーウェルが宿す記憶は〈理水〉。
――正典の記憶。
水は理性・秩序の象徴として世界を形作ってきた。
その記憶に向き合い、エーテルから水の記憶を書き起こすことで、周囲の水を規律へ組み上げ制御下に置く。
セイルの言う通りだった。
カズヤはまだ、自分の残響に向き合えていない。
それは――世界の悲鳴だったから。
⸻
【3】
水を纏ったセイルの剣閃。
水が打ち、爆ぜ、カズヤの全身に着々と痛みを刻んでいく。
「所詮は外典。記録される価値もない」
腹の立つ言い草。だが言い返す気力もない。
ふと、瓦礫の陰で震えるアマネと目が合った。
今にも泣き出しそうな瞳。
あの子は悪くない。
真面目に生きてきただけだ。
それなのに、なぜこんな現実を突きつけられるのか。
守れると思った。
救えると思った。
――なのに、こんな顔をさせている。
怒りが胸の奥で燃えた。
外典というだけで切り捨てる世界を許せない。
花をもらって優しく微笑む少女を追い込む、そんな世界が許せない。
向き合いたくなかった残響が、再び胸の奥で軋む。
触れれば壊れると分かっていた力。
だが――止まらない。
聞こえてきたのは耳を裂く悲鳴。
災厄の瞬間。
⸻
【4】
それは、世界が一度死んだ日の記憶。
数百年前、未曾有の嵐が世界を襲い、街も人も存在ごと白く消えた災厄。
後に人々は、その災厄を 《白蝕》 と呼ぶ。
白き嵐が貪るように全てを飲み込み、押し流していったという。
――その記憶が、一人の青年の中で今再び書き起こされる。
耳の奥で、悲鳴が重なる。
男の怒号、女の絶叫、家畜の悲鳴、砕け散る屋根。
大地が軋む。
建物が音もなく崩れ、屋根が消え。
家が、家族が、友が、色を奪われるように――白に溶けていく。
世界そのものが壊れる断末魔。
それがカズヤの胸の奥で、叫び声が重なり合う。
――あの日、助けられなかった者達の声。
風が逆巻き、雨が止む。
セイルはその異変に顔をしかめた。
「……なんだ、これは…」
視線の先。
カズヤの周囲から噴き上がるエーテルの奔流が渦を巻いていた。
剣に宿った光が白く震える。
頬を伝う涙は、痛み、世界の涙。
震え滲み出した声で、唱える。
「……世界が泣く声を……聞かせてやる」
〈災厄の残響〉――。
⸻
【5】
白い嵐が爆ぜた。
風が刃となり、瓦礫が舞い上がる。
音が消え、触れたものを切り裂き、存在ごとさらっていく。
隊員達は悲鳴を上げる間もなく、白の奔流へ呑み込まれる。
セイルの外套が裂け、その身ごと白の渦へと溶けていった。
敵影は消えた。
だが――嵐はまだ、止まらない。
暴走。それは災厄そのものだった。
中心でカズヤは膝をつき、泣いていた。
「……ぅ………ぁ…」
怒り、恐怖、絶望。
“世界のトラウマ”と呼ぶほかないその記憶が、今まさに彼の心を砕こうとしていた。
その光景を、アマネは見ていた。
暴風の中へ一歩踏み込むと、風が肌を裂き、視界が白に溶けた。
それでも――進む。
「……カズヤ…さん……」
彼の言っていた言葉が、耳の奥で甦る。
“誰かひとりでも、ほんの少しでも手を伸ばしてくれたら、人は救われる”。
辛さを優しさに変えられる人。
助けることに喜びを感じられる人。
その人の心が今、壊れようとしている。
そんな終わりになってほしくない。
報われてほしい。
風を裂くように腕を伸ばし、彼の手を掴む。
かすかな温もり。
しかしその奥にあるのは、消え去りそうなほど脆い震え。
アマネは涙を浮かべながら語りかける。
「……私も、あなたに手を差し伸べる。
――私にも分けて。一緒に、向き合うから」
「アマ……ネ……」
その瞬間、アマネの胸の奥で何かが開いた。
残響があったはずの空白。
そこへ痛みが流れ込み、悲しみが沈む。
まるで欠けた記憶を縫うように、光が二人を包んだ。
嵐の輪郭がほどけ、耳を裂く音が消え。
残ったのは、雨上がりの夜の静けさだけだった。
⸻
【6】
しばらくして。
瓦礫の中からセイルが立ち上がる。
黒い外套は裂け、全身泥と血にまみれている。
視界には更地。
「〈災厄の残響〉だと……。外典そのものだ……」
怒りとも恐怖ともつかぬ声が漏れた。
「人々を傷つけ、世界を壊してきた忌まわしい記憶……許せん」
セイルは部下を救護させ、一時撤退を命じる。
濡れた靴音が遠ざかり、静寂が戻った。
その頃。
焚き火の広場ではダンが煙草を咥え、遠くを見つめていた。
「……とんでもねぇ嵐が来たときは、さすがに肝が冷えたが。
あのガキ、やりやがったな」
ふっと笑う。
雲の切れ間に、淡い光の渦がわずかに残っている。
「ちゃんと救えよ、カズヤ」
その呟きは煙に溶け、夜空へ昇っていった。
***
遠く――。
朝日を抜けて、二つの足音。
導くように、少し前を歩く青年。
導かれるように、一歩一歩を確かめながら進む少女。
足跡が、濡れた土に新しい線を描いていく。
新しい記録の始まりを告げるように、焚き火の灰が舞い上がり、優しい風が吹いた。




