第10話:外典の生き方
【1】
フォーンシティ下層に、薄い朝光が差し込んだ。
崖の合間に吊られた橋はきしみ、上層から落ちた灰が淡く降り積もる。
鉄骨の隙間を縫って、子供達が水の少ない噴水の周りで遊び、
露天の屋台ではスープにパンを浸して売る女達が、声を張り上げていた。
――ここでは、生きることそのものが闘いだ。
アインが肩の槍を軽く叩き、あくびを噛み殺す。
「下層は今日もいつも通りだな。
で、消えた人間の目撃情報は?」
カズヤは手元のメモをめくりながら答える。
「三日前。下層の市場で“父親が突然いなくなった”ってやつだ。
夜、橋を渡る姿を見たって証言もある」
アインが皮肉めいた笑みを浮かべる。
「夜に橋渡り?
この街じゃ死にたい奴か、何か隠してる奴だな」
⸻
【2】
崖沿いを進むと、薄暗いトンネルの先に境界の通路が現れた。
そこは上層と下層を隔てるため、監視とフェンスで厳しく仕切られている。
アインが奥を指し示す。
「一応案内しといてやる。この辺は上層との境目だ」
通路の陰を覗くと、煤けたマントの女がひとり立っていた。
手の小さな包みをぎゅっと握り、フェンス越しの向こう側――
日の当たる上層にいる少年を見つめている。
「……エル。元気にしてる?」
少年が振り向く。
小綺麗な服を着た、整った顔立ち。
正典の子。世界に“記録される”側の存在。
「ママ……!」
「来てくれてありがとうね…ごめんね。
ほら、好きだったパン。
焼くときに、焦がしちゃったけど……」
包みがフェンスを越えて転がる。
ちょうどその時、上層の監視兵が通りかかり、少年は慌てて包みを隠した。
女は微笑む。
「いいの。食べるだけでいい。
……それだけで、お母さんは生きていけるよ」
風が吹き抜け、女の姿は闇の中に消えた。
子供はうつむいたまま、日の当たる通りの方へ戻って行った。
アインが暗い声で呟く。
「外典の親と、正典の子か。
離れ離れでも……ちょっとでも、良い暮らしをさせたいってわけか」
カズヤは黙っていた。
拳が少しだけ震えていた。
⸻
【3】
午後。
二人は市場を抜け、路地裏の古い橋へ向かっていた。
消えた父親の住まいはこの近くだ。
熱気と食べ物の匂いが入り混じる路地で、アインがふと立ち止まる。
「おい、見ろ」
指さす先――
影に沈む場所で、屈強な男が痩せた商人を殴りつけていた。
「…っごふ…っっか、金…もうな……。
勘弁し…くだ…ぃ…」
商人はすでに何度も殴られていたようで、まともに声も出せていない。
目や腕は大きく腫れ上がり、口の端からは血が垂れている。
脅している男の腕には濃い刺青――カラスの紋。
保護の名目で金を巻き上げる常套手段。
アインは唇を歪め、低く吐き捨てるように言った。
「あの刺青、下層を牛耳ってる連中だ」
カズヤが一歩踏み出す。
「……ああいう奴らが一番許せねえ」
アインが腕で制す。
「待て。仲間が潜んでるはずだ。囲まれるぞ」
「知らねえ。見捨てる理由になんねえだろ」
カズヤは止まらなかった。
「おい」
「あ?」と男が反応するより早く、
カズヤは背後から腕を掴み、足を払って地面に叩き伏せた。
「そんなクソみてえな真似して、楽しいかよ」
カズヤは倒れた男を見下ろし、冷たい声で言い放った。
すると、倒れた男は歪んだ笑みを浮かべる。
「…っ…へへ、てめえ、“馬鹿なことをしたな”」
路地の暗がりから人影がうごめき、一斉に男達が現れた。
粗暴な顔つきの連中が、カズヤを囲む。
最も大柄なリーダー格の男が、唸るように声を上げる。
「おい…クソガキィ!!
俺らの商売に口出すならぶっ殺すぞ!」
アインは肩を竦め、やる気なさげにカズヤへ声をかけた。
「手伝い、いるか?」
「いらねえ。見てろ」
カズヤは周囲を見渡し、詰め寄る敵の数を確かめると、
ゆっくりと腰の剣に手をかけた。
その指先に、微かに黒い残響が滲む。
⸻
【4】
男達が一斉に襲いかかった。
鉄棒が唸り、刃が閃く。
だがカズヤの体は一歩も退かず、風を裂くように剣が動く。
一撃、二撃と火花が散り、砂埃が舞い、呻き声が上がる。
――明白な実力差。
部下が全員地面に転がるまで、一分も掛からなかった。
「おい。てめえもさっさと来いよ」
カズヤが剣を振り抜いて息を吐き、リーダー格の男を挑発する。
「ぶっ殺すッ!!」
唸りを上げてリーダー格の男が突っ込んできた。
カズヤは反射的に剣で受けた――
が、想定外の衝撃で肘が悲鳴を上げた。
刃がめり込み、腕が押し潰されるように沈む。
「……っ!重っ…!」
刃には禍々しい紋が走っていた。
「〈重罪の残響〉――罪を重ねるほど威力が《《重くなる》》。
てめえみたいなヒョロガキじゃ受け止めきれねぇ!」
砂が割れ、足元の石畳が沈む。
男の一撃は、まるで巨岩を叩きつけるような質量だった。
受けることをやめ、カズヤは避けに徹して隙を伺う。
その様子を見ていたアインは、カズヤの背に声を投げる。
「残響を使ってる相手に、
武器だけで挑んでもキリがねぇぞ。
……そろそろ残響の力をちゃんと使ってみろよ」
カズヤは攻撃を避けながら答える。
「だから簡単に言うなって!」
「そりゃあ簡単じゃねぇさ。でもコツはある。
――記憶を一度に全部見るな。コンパクトにやれ。
“傷”に優しく、小さく、端に触れるようにしろ」
「……傷…?」
アインの言葉は抽象的で、理屈ではまるで掴めなかった。
だが――ぼんやりとイメージだけはできる。
カズヤは荒い息を吐きながら、迫る斬撃を紙一重で避ける。
耳の奥では、あの記憶の断片――
叫び声と、鼓膜を裂くような風の音が蘇る。
胸の奥で暴れる災厄の記憶に、静かに手を伸ばす。
アインの言葉に従い、ゆっくりと。
意識が持っていかれないように。
巻き上がる感情を癒してやるように。
痛みを、憎しみでも怒りでもなく、優しさで包み。
――救いの手を差し伸べる。
掌に風が集まり、剣先に微かな光が灯る。
炎ではなく火を。
嵐ではなく――風を。
「〈災厄の残響〉――風をここに綴る」
目を見開いた瞬間、カズヤは地を蹴った。
軽い。
身体が、剣が、風に乗る。
男の巨大な刃が振り下ろされた瞬間、相手の懐に滑り込んだ。
刃が風の力で押し戻される。
男は強烈な風に耐えられず、バランスを崩した。
そのまま風が舞い、男を次々と裂いていく。
刃は風に呑まれ、遠くへと吹き飛ばされていった。
「――ぶっ飛べ!!」
風の剣閃。
空気が爆ぜ、衝撃が走る。
リーダー格の男は、逆巻く風の衝撃に吹き飛ばされ、
背後の壁に叩きつけられるとそのまま気を失った。
舞い上がる砂煙の中で、カズヤは剣を静かに下ろす。
風が止み、残響の波が鎮まっていく。
アインが笑う。
「ははっ。上等じゃねぇか」
カズヤは深く息を吐いた。
「はぁ…はぁ…。ああ、初めて“綴れた”」
手の中に残る微かな風のぬくもりが、まだ消えずに残っていた。




