第8話:灰が積もる街の底で
【1】
峡谷の赤土を風が削り、舞い上がった砂塵が街灯の光をぼやかしていた。
崖の壁面にへばりつくように、いくつもの層が積み重なる街――フォーンシティ。
夜のフォーンシティは、昼よりもずっと騒がしい。
上層は光に溢れ、
人々の話し声と笑い声、怒号と銅貨の触れ合う音が絶えない。
香辛料と油の匂いが混じる屋台が並び、
仕事帰りの男達が酒と料理に舌鼓を打つ。
旅芸人が笛を吹き、商人達が色とりどりの織物やガラクタを道端に広げている。
鉄骨と赤煉瓦で組まれた建物群が、
喧噪を押し上げるように立ち並んでいた。
――その一方で、下層はまるで別世界。
崩れかけた橋桁の下、ろくに整備もされていない細い路地が続く。
作物もろくに育たない、痩せた土壌。
住人達の顔にはいつも影が差している。
諦めと慣れがこびりついたような表情。
外典、孤児、犯罪者、逃亡者。
あるいは、正典でありながら生活に追い詰められた者達。
彼らはこの街の影として、上層の繁栄を静かに支えていた。
ここでは、誰も他人を詮索しない。
出自も残響も、聞かないのが礼儀。
カズヤとアマネは、
アインの案内で下層のさらに奥――
峡谷の底に穿たれた、古い採掘坑跡へ足を踏み入れていた。
一歩、二歩と進むごとに、空気がひやりと冷たくなる。
岩の隙間から水滴が落ちる音が、ぽつ、ぽつ、と響いた。
上層の喧噪は遠ざかり、代わりに機械の駆動音と蒸気の唸りが耳に届く。
「……ここが、拠点?」
アマネが小声で尋ねる。
アインは振り返らず、軽く顎だけ動かした。
「そうだ。表だってたら、何かと動きづらいからな」
しばらく進むと、道の突き当たりに無骨な鉄扉が現れた。
アインがその扉を、コン、コン、コンと三度叩く。
内側から金属が擦れる音が聞こえた。
いくつものロックが外れる重たい音。
わずかな隙間から蒸気が噴き出し、油と鉄の匂いがカズヤ達の鼻をつく。
開かれた扉の向こうには、青白い照明に照らされた鉄の通路が続いていた。
壁一面に走る配線、吊るされた工具。
見慣れない装置の数々。
アインが肩越しに笑う。
「ようこそ――世間を騒がす問題児ども。歓迎するぜ」
フォーンシティの底で。
綴られない者達の物語が、静かに動き出していた。
⸻
【2】
鉄の通路を抜けると、湿った金属と油の匂いが一気に濃くなった。
天井から吊るされたランプが、赤橙の光を不規則に明滅させている。
その明滅の下――
壁一面に古びた記録機材と端末が積み上げられていた。
複雑に絡み合った配線は一本の太いケーブルとなり、奥の鉄扉へと吸い込まれている。
アインがその扉の前で軽くノックした。
「おーい、カムイ。戻ったぞー」
中からの返事はない。
一拍置き、アインは肩をすくめる。
「……入るからなー」
ガチャ、と遠慮のない音を立てて扉を開けた。
中は、さっきよりもさらに薄暗い。
部屋の中央。
山のように積まれた機械の前で、
一人の女性が椅子にうずくまるように座り、モニターを睨んでいた。
乱れた黒髪。
油で黒く染まった袖口。
「カムイー、聞こえてるか?例の奴ら、連れてきたぞ」
アインが声を張る。
しかし彼女――カムイは、こちらを一度も振り向かない。
……はずだったが、数秒後。
バッと椅子から立ち上がると、小さく呟いた。
「……やっば。
分かったかもしんないっす……!」
そのまま壁際の端末へ駆け寄り、
工具を掴んで装置の一部を手早くいじり始める。
スイッチが入り、駆動音が高まる。
暗かったモニターが次々と点灯した。
アインが額を押さえてぼやく。
「おーい。
せっかく連れて来たんだから挨拶くらい…」
カムイは手を止めずに、即答した。
「そっちは今どうでもいいっす」
カズヤとアマネは、視線を合わせて固まる。
(ど、どうでも?)
はぁ、というため息。
アインが二人に苦笑を向けた。
「悪いな。
見てのとおりの機械バカだ。気にすんな」
アマネが首を傾げる。
「機械バカ……?」
「今はこんな所にいるが、
元々は大書院で天才技師って呼ばれてたらしい」
その間も、カムイはモニターを覗き込みながらぶつぶつと呟き続けている。
「……やっぱ波形ずれてる……けど残滓は出てないんすよね……なんでだろ……」
完全に自分の世界に入り込んでいるようだった。
アインは深いため息をつき、肩をすくめる。
「……寝る気ねえな、ありゃ。
お前らは空いてる部屋で休め。飯も好きなもん食って良い。
長旅だったんだろ」
カズヤは頷き、アマネの背中を軽く押した。
アマネも小さく頷き、通路の奥へと消えていった。
カズヤは少しアインの方を見て、短く言った。
「……ありがとな。借りは、ちゃんと返す」
「気にすんな。さっきの詫びだ」
アインはそう言って背中で見送り、手を振った。
⸻
【3】
同じ頃――。
セントラル・ドミナ。白金の尖塔、《筆聖院》。
沈みかけた陽の残光を受け、塔の周囲には無数の光の線が天蓋のように張り巡らされていた。
筆聖グレース・ユルスナールは、高窓の前に静かに立っていた。
白い手袋をはめた指先。
視線の先には、遥か南――リムランドの方角。
背後の扉がそっと開く。
書類を抱えた秘書官が一礼し、息を整えてから口を開いた。
「ユルスナール卿」
「……いかがでしたか?」
グレースの問いに、秘書官はわずかに表情を曇らせた。
「ご懸念の通りです。
大書院内部でも監査局でも――保守派と強硬派で意見が割れています。
例の綴士、アマネ・チャペックの処遇について」
グレースは目を閉じ、小さく息を吐いた。
「まったく、彼らも変わりませんね」
「一部の強硬派からはすでに、
“今回の事態はユルスナール卿の怠慢によるもの”とする糾弾案も出ています」
「……今回の責任を全て私に押し付け、
筆聖の座から引きずり下ろす――そういう筋書きでしょう」
秘書官は黙り込む。その沈黙が肯定の代わりだった。
グレースは静かに言葉を継ぐ。
「……“七綴り”が原因である可能性が高い以上、
曖昧なまま断を下すのは、正典にふさわしい行いではありません。
記録とは、あくまで事実に基づくべきものですから」
彼女はゆっくりと振り返り、秘書官を見た。
「……“もう一方”の件は?」
「はい。監査局からの報告によれば――
アマネ・チャペックと、外典の男カズヤ・ミロク。
両名は先ほど、フォーンシティへ入ったとのことです」
「そうですか。
……観測を続けさせなさい。セイル隊長にもそのように命を」
秘書官が少しだけ迷いを滲ませる。
「よろしいのですか?彼女は――」
「ええ。彼女は世界にとって“異物”です。
いずれ、排除は避けられないでしょう」
グレースは言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「ですが同時に、私達のあずかり知らぬ事象。
彼女が世界にどう干渉し、どのような結果が生まれるのか。
それを見届け、記録しなければ――後世は何も学べません」
その声は柔らかく、それでいて揺らぎがなかった。
秘書官が小さく頷く。
「“存在の綴り”への調査申請ですが、先ほど正式に承認されました。
セイル・オーウェル隊長の元、筆聖直轄の調査隊を編成中です。
数日以内には“綴り層”への降下が可能かと」
グレースは再び窓の外――瞬く光の群れへと視線を向ける。
「私も同行します」
「……筆聖ご自身が?」
「綴りへの直接接触は、筆聖である私でなければ許可されません。
それに――」
彼女はそっと夜空へ手を伸ばした。
「筆聖とは、ただ命じる者ではなく、人々を正しい記録へ導く者。
この目で確かめなければ、何も綴る資格などありません」
窓の向こう、無数の光が静かに瞬いている。
「どうか――世界が、正しき綴りへと導かれますように」
光の帳を撫でるように、夜風が吹き抜けた。
塔の灯りがひとつ、静かに消えた。




