五話 暗闇の中で
二十二時前、アメリアはマリアの庭園に来ていた。
たとえ王宮の敷地内であっても、各主の許可なく立ち入ることは許されない。
だが、庭園の門番に声をかけたとき、彼らはまるであらかじめ知らされていたかのように通してくれた。
前日にマリアとお茶を飲んだ場所に腰を下ろし、アメリアはテティを待ちながら、シーリーンとの会話を思い返していた。
――結局、彼女と話しても前世の記憶が蘇ることはなかった。
それでも、今世も変わらない彼女と接していると、うっかり自分が“カリナ”のように振る舞ってしまいそうで、少し怖くなった。
アメリアの身体に宿ってから、カリナとして親しくしていた相手と再会したのは、上司だったローラくらいだ。
それ以外の人々には、常に「アメリア王女」として接してきた。
ヴァルクたちのようにアメリアをよく知らない者たちの前では、多少素の自分が出ても構わなかった。
だが、かつて仕えていた本物の王女をよく知るシーリーンの前では、そうはいかない。
親しくしすぎれば、カリナとしての自分が露見しかねない。
自分が本物の王女ではないと気づかれることはないはず。
それでも、アメリア王女としての評判を損なうわけにはいかなかった。
ふと時計を見ると、すでに二十二時を過ぎていた。
見張りの様子から、テティはもう到着していると思っていたが、いつまで経っても姿を見せない。
不安になったアメリアは、庭園の中を探すことにした。
灯りのない庭園では、月明かりだけが頼りだ。
迷路のように入り組んだ垣根の影を覗き込んだそのとき――
そこに、細い足が横たわっているのが見えた。
「テティ!」
駆け寄ったアメリアは、垣根の陰に倒れている彼女の身体を抱き起こした。
ぐったりと力の抜けた身体。
顔は真っ青で、唇の色まで失われている。
「テティ、どうしたの……?」
呼びかけても返事はない。
だが、手を握るとまだ温もりがあった。脈も――しっかりと感じる。
(よかった……生きてる)
安堵の息が漏れる。
次の瞬間、アメリアははっと顔を上げた。
「誰か、門番を――」
声を張り上げようとしたそのとき――
背後から伸びた手が、彼女の口を覆った。
薬品の匂いが鼻を刺した、その瞬間――
視界がぐらりと揺れ、世界が暗転した。
「あ……」と声を出そうとしたが、喉から音は出ない。
全身の力が抜け、アメリアの身体は地面に崩れ落ちた。
月明かりが遠のいていく。
意識は、深い闇の底へと沈んでいった――。
***
目を覚ましたとき、アメリアは暗闇の中にいた。
何も見えない――けれど、身体がゆっくりと、上下に揺れている。
(……揺れてる? どうして?)
ぼんやりとした意識のまま、身を動かそうとする。
だが、腕も脚もびくりとも動かない。息を吸おうとした瞬間、胸を圧迫する縄の感触に気づいた。
(縛られてる……?)
少しずつ、現実が形を持ちはじめる。
自分は簀巻きにされたまま、誰か――男の腕に担がれている。
そのことを理解したとき、背筋に冷たいものが走った。
アメリアはすぐに息を殺した。
――気づかれてはいけない。
男の肩に担がれた身体に力を入れないように気をつけながら、そっと目だけを動かす。
暗闇に慣れはじめた視界の中で、ぼんやりと別の影が浮かび上がった。
もう一人、男がいる。
そしてその男もまた、同じように簀巻きにした“何か”を担いでいた。
(……誰? まさか、テティ?)
冷たい予感が胸を締めつける。
「はああ、おもっ……この女は置いて行っても良くないか?」
「ダメだ。少しでも王女が消えたことがわからないようにしないと。
それに――この道を通ったことは絶対に気づかれるなと言われているだろう。」
「はあ、王女ひとりなら交代で運べたからもっと早く移動できたものを……」
「ぐだぐだ言うな。あと少しで外に出る。
待ち合わせの場所までは荷台で運べるんだから、もう少しの辛抱だ。」
――この道?
視界に見えるのは、煉瓦造りの舗装された道。
だが、男たちの声と靴の音が反響して聞こえることから、おそらく地下道なのだと気づいた。
(どこなの……? 王宮に、外へ通じる地下道なんてあった?)
どのくらい眠っていたのだろう。
どれほどの時間を失い、城からどれだけ離れているのか――見当もつかなかった。
舗装された道が終わると、空気が湿っぽく変わった。
岩の間をくぐり抜け、狭い洞穴のような場所を進む。
背中の岩肌に衣が擦れ、時折小石が足元で転がる音がした。
やがて、外気の冷たさが肌に触れる。
次の瞬間、どさりと地面に放り出された。
荒い息を整えながら、男たちは背後の小さな穴を塞ぎ始める。
岩や木の枝を詰め、外からは見えぬよう念入りに。
「これで見つかりゃしねぇな」
ひとりが笑い、もうひとりが荷車を引き寄せた。
二人は簀巻きのアメリアとテティを順に乗せ、上から麻布を被せる。
光が遮られ、世界がまた闇に閉ざされた。
車輪の軋む音と、土を踏みしめる靴音だけが響く。
***
どれほど時間が経ったのかわからない。
荷車は時折止まり、誰かの声が遠くで交わされる。
やがて、空気が変わった。草の匂い、そして、焚き火の煙。
麻布の外から、重い声が響く。
「ここに依頼の品がある。王女と侍女だ。」
「侍女? 侍女など依頼にはなかったはずだが。」
「気づかれないようにするのに連れてくるしかなかった。このまま持ってけ。」
「……それなら追加料金をやる。その荷台に侍女を乗せたまま、我々と逆方向に行け。
しばらく進んだら荷台は捨てていい。女も――好きにしろ。」
「ああ? こっちは早く金を貰ってとんずらしたいんだ。」
「ったく、これだけやる。どうだ?」
「ちっ、仕方ねぇ。いいか、少し進むだけだぞ。こっちも危ない橋を渡ってるんだ。」
「よし。……じゃあ、王女を見せろ。」
麻布が剥がれた。アメリアは必死に目を瞑った。
「そっちが王女だ。髪色を見たらわかるだろう?」
ざらりとした手が頬を這った。ぞっとする悪寒が体を走る。
「間違いないな。よし、そっちの馬車へ乗せろ。」
再び男に担がれ、今度は馬車の荷台へと放り込まれた。
その瞬間、鈍い衝撃が身体を打つ。
(どこへ……連れていく気なの……?)
馬車の中には、確かに自分以外の“誰か”の気配がした。
微かな呼吸の音。衣擦れの音。
誰なのか、確認することもできない。
ただ、暗闇の向こうで、何かがゆっくりと身じろぎした。
そして――車輪が軋みを上げて動き出す。
闇の中で、アメリアは祈るように目を閉じた。




