三十三話 依頼人
一瞬、過去の恐怖が頭を掠めた。
けれど抱き止められた体温と、耳元に落ちた気配で、相手が自分を傷つける者ではないとすぐにわかった。
「大丈夫だ。落ち着いて」
低く、よく知る声。振り返らずともヴァルクだとわかる。
アメリアはゆっくり頷き、彼がそっと口元から手を離した。触れれば触れ合いそうな距離に心臓が跳ねる。それでも、ジオとマリアへ向けられた真剣な眼差しを見て気を張り直した。
「だから、そんなこと私は知らないと言っているじゃないですか?」
マリアの声には、怒りよりも困惑が濃かった。
「知らない? 知らないはずないだろう!」
「……知らないものは知りません」
ジオが手にしていた紙を突き出す。
「これは、あんたの書簡じゃないか!」
「……これは……」
「俺が二年前に依頼されたものだ。
アメリア王女と氷狼騎士団の一行を襲撃するように書かれている。
そして、この印章――第二王子妃の紋章印だろう?」
紙を見た瞬間、マリアの顔がみるみる青ざめた。
「たしかにこれは……結婚後に国王より賜った私の印章です。
でも! 本当に依頼した覚えはありません。
そもそも私は山の民の存在なんて、アメリアがあなた達を王宮に入れるまで知りませんでした!」
「あんたの話が信用できると思うか?」
「それは……」
マリアが依頼主?
そんなはず――。
ヴァルクの腕が緩んだ瞬間、アメリアは飛び出した。
「マリア! 本当なの?」
「なっ、お前! 何してんだ!」
ジオが驚いた声を上げる。アメリアはマリアの腕にしがみついた。
「悪いな、少し聞いてしまった……」
ため息とともにヴァルクも姿を現す。
「ねえ、どうしてなの? マリアは私やヴァルクを貶めたいの?
それとも……誰かにさせられてるの?」
マリアの腕を引くと、彼女は躊躇いながら首を振った。
「信じてください。本当に私は知らないのです!
たしかにあれは……私のものです。でもアメリアを襲うなど……依頼するわけがありません!」
「もしマリア殿が嘘を言っていないのなら、誰かが印章を偽造したか……無断で使用したことになります。
その“誰か”に心当たりは?」
ヴァルクはアメリアをそっと引き寄せて間に入り、立つだけで放たれる威圧感に、マリアは一歩後ずさった。
「印章は……私とダリオンだけが持つ鍵で開けられる金庫にあります。
王宮の第二王子妃としての公務室の金庫です」
「ですが……その金庫の鍵は、私たちの寝室に保管されています。その場所を知っている者なら……」
「つまり、あなた方の寝室に出入りできる者であれば、鍵を盗み、印章を使い、また戻すこともできる、ということですね」
「……はい。申し訳ありません」
「私に謝られても困りますが……この件は国王にもダリオン王子にも報告させていただきます」
項垂れるマリアを見て、アメリアは小さく息を吐いた。
少なくとも、彼女自身が自分たちを狙ったわけではない――そう思いたかった。
「マリア殿、あなたが我々の味方であるのなら――協力してくださいますか?」
「は、はい! もちろんです!」
「それが……ご自身の母親を貶めることになったとしても、ですか?」
「え……」
「ヴァルク!」
アメリアが思わず制したが、ヴァルクの視線は一瞬たりともマリアから外れなかった。
まるで彼女の呼吸ひとつさえ見逃すまいとするように。
「母が……何かしたのですか?」
マリアの声は震えていた。
「まだ断定はできません。
ですが我々はモリス伯爵に会い……あなたの母上の温室を、この目で確かめたいのです」
「……温室を、ですか」
マリアは小さく息を呑んだ。その反応を、ヴァルクは逃さない。
「明日、我々は公爵邸へ向かいます。
男爵夫人が公爵邸へ行くのを遅らせることはできますか?」
「……父に頼んでみます。数日なら留められるかと……」
「助かります。では明日、あなたも我々とともに公爵邸へ向かいましょう」
「……はい」
マリアはその場に立ち尽くしたまま、ぎゅっと手を握りしめた。
その横顔には、疑いと恐怖、そして覚悟が入り混じっていた。
「ったく! お前ら、あとでこの女に嵌められても知らねぇからな!」
ジオはぶつぶつと文句を言いながら背を向けた。
だが、これまで依頼主を明かさなかった彼が、自ら真意を確かめようとしていたことに、アメリアは胸が温かくなる。
「ありがとう、ジオ」
そう声をかけると、ジオは一瞬だけこちらを見て、小さくつぶやいた。
「……今はお前が雇い主だからな」
そう言って歩き去った。
***
翌日、アメリアたちは男爵邸をあとにした。
馬車の中で、アメリアはできる限りいつもの調子を保とうと努めた。
「そういえばテティ、こないだは驚いたわよね?
まさかメルディ卿がいるなんて」
「えっ、あ……はい。相変わらずリンク様は素敵でございましたね」
「リンク?」
シーリーンが尋ねたので、アメリアは“私を探しに来てくれた騎士よ”と説明した。
するとシーリーンは「ああ、あの方ですね」と思い出したように頷く。
「テティさんは、あの方と親しいのですか?」
「い、いえ! 親しいなんてとんでもないです!
ただ、ノルディアに行ったときにアメリア様の護衛をしてくださったので……」
「またノルディアの話なのですね……。
――アメリア様! お輿入れの時は、ぜひ私をお供に連れて行ってくださいませ!」
「ええ? 私はシーリーンが来てくれるなら嬉しいけど……いいの?
王都と違って流行りものもないし、冬は極寒だし……」
「かまいません!
氷狼騎士団もおりますし、なにより――アメリア様のお側にいる方がずっと楽しいですわ!」
シーリーンが弾む声で言う。
その言葉に、アメリアは自然と頬がゆるんだ。
一瞬だけ、前世のシーリーンが結婚して遠くへ引っ越していった日のことが脳裏をかすめる。
彼女を再び遠いノルディアへ連れて行くことが、果たして正しいのか――。
それでも、「一緒に行きたい」という彼女の言葉はアメリアの胸に温かく染みた。
そんなアメリアとシーリーンのやり取りを見て、マリアは微笑みながら言った。
「私とテティも、輿入れの時にそんなやりとりをしましたわ」
だが――そのすぐ横で、テティがどんな表情をしているのか、その時のアメリアは、まったく気づいていなかった。




