二十六話 マリア
馬車の扉が開くと、まずシーリーンとテティが軽やかに地面へ降り立った。
そのあとに続こうとしたアメリアの前へ、ヴァルクがすっと手を差し出す。
その手を取って外へ降りると、二人は待ち構えていた人物――フィリップ・モリスの前に並んだ。
「やあ、久しぶりだね。長旅ご苦労さま。
今日はゆっくりしていってくれ」
いつも通り意気揚々と告げるフィリップ。
この二年、アメリアは彼と王宮で顔を合わせる機会が少なくなかった――いや、むしろ“敢えて”彼の訪問時を狙って会いに行っていた。
ダリオンとふたりきりにさせないために。
そのおかげか、この数ヶ月はほとんど王宮へ姿を見せなくなった。
「フィリップ殿、歓迎いただき感謝いたします。モリス公爵にもご挨拶申し上げたいのですが……」
ヴァルクが丁寧に礼を述べると、フィリップは爽やかに微笑んだ。
「ありがたい申し出だが……父はここ数年、体調を崩して伏せっていてね。
実質、この地を取り仕切っているのは僕なのだよ。
気兼ねせず滞在してくれ」
「……もうずいぶん長く床に伏せっていらっしゃいますが、大丈夫なのでしょうか?」
アメリアが問うと、フィリップは少し肩をすくめる。
「ああ、命に関わる病ではないよ。
それより――久しぶりに会えて嬉しいよ。
最近、王宮に顔を出していなかったから、寂しかったかい?」
その瞳は、まるでヴァルクに挑むようにアメリアを見つめてくる。
けれど、アメリアは知っていた。
その眼差しは決して“自分”を見てはいないのだと。
「それなら良かったですわ。
フィリップがいらっしゃらなくても、王宮は至って平和ですもの。……ね、お義姉さま?」
「えっ、ああ……。でも、ダリオンは寂しがっているわ。落ち着いたらまた遊びにいらして」
突然話を振られ、マリアは一瞬目を泳がせながらも言葉を繋いだ。
「そうだね。ダリオンにも会わないと……。
さあ、客室を案内しよう。
――騎士の方々には宿舎へ案内するように」
フィリップの指示を受けた侍従は、ガルドたち騎士団員を連れてその場を去った。
アメリアたちはフィリップに先導され、公爵の城へと向かう。
白亜の城――そう称されるモリス公爵家の居城は、まるで物語に出てくる宮殿のように美しい造りだった。
その壮麗さに、シーリーンは思わず感嘆の声を上げる。
代々王家に仕える忠臣とはいえ、公爵家の城がここまで華やかなのは、もはや王族と遜色がないほどだった。
アメリアがあてがわれた客室に到着すると、護衛のシンシアたちは翌日の作戦会議のため、すぐに部屋を後にした。
部屋ではシーリーンが必要な物だけを手際よく荷解きし、アメリアは手持ち無沙汰に室内を歩き回る。
「何か手伝いましょうか?」
「とんでもございません! アメリア様はゆっくりお休みくださいませ」
ぴしゃりと遮られ、仕方なく部屋の中を見て回っていると――コンコン、と小さなノック音が響く。
扉を開けると、マリアが立っていた。
「アメリアもお暇かと思いまして……よろしければ、公爵邸をご案内しますわ」
「えっ、本当?! ぜひ――」
「お待ちください!」
シーリーンの鋭い声に、アメリアは驚いて振り返った。
「今は護衛の者たちが外しております。部屋の中でお話しくださいませ」
「でも、せっかくだし……」
「護衛から、なにがあっても部屋から出さないよう申しつけられております」
シーリーンの一歩も譲らぬ姿勢に、アメリアは観念し、マリアを部屋へ招いてお茶を淹れることにした。
シーリーンが温かい紅茶を淹れると、その香りが部屋に立ちこめ、アメリアは穏やかに問いかけた。
「結婚以来の帰省だと伺いましたが……久しぶりの故郷はいかがですか?」
マリアは一瞬だけ表情を固め、曖昧に微笑んだ。
「え、ああ……そうね。ここは、変わらないわ……」
その返答には、触れてほしくない気配がわずかに滲んでいた。
アメリアは一拍の間を置き、静かに続けた。
「……お兄様と、何かあったのですか?」
「え……?」
マリアは驚いたように瞬きをし、カップの中へ視線を落とす。
「立ち入ったことを聞いてごめんなさい。でも……辛そうに見えたので…
もし、私にできることがあればと思うのですが」
マリアは少しのあいだ迷い、ふとシーリーンのほうへ目を向けた。
それに気づいたシーリーンはそっと立ち上がる。
「寝室の準備をしてまいります」
そう言って隣室へ移動し、扉が静かに閉まる。
マリアはゆっくりと息をついた。
「……アメリアの侍女は、本当に気が利くのね」
そう言うマリアの声は、どこか心の準備を整えているようだった。
しばしの沈黙ののち、彼女は絞り出すように告げた。
「……実はね、私……子どもができないみたいなの」
アメリアは息を呑んだが、あえて言葉を挟まない。
マリアは続ける。
「いろいろ調べてもらったけれど、原因ははっきりしなくて。
それで、思い切ってダリオンに相談したの。
“もしかすると、子どもができないかもしれない”って」
震える声。
握るカップの指先も、微かに震えていた。
「そしたら彼は……“子どもはいなくてもいい。君といられたらそれで十分だ”って」
「……お兄様らしいですわ」
アメリアが優しく言うと、マリアは苦しげに首を振った。
「彼は優しいの……本当に。
でもね……私は、早く子どもが欲しいの。
彼の……本当の家族になりたい。
王家にとっても、後継ぎは必要でしょう?
なのにダリオンは、“望まなくていい”って」
マリアはぎゅっと唇を噛みしめる。
「その言葉が……嬉しいはずなのに、どうしようもなく苦しいの。
まるで“諦めてもいい”って言われてしまったみたいで……
それから、彼とどう向き合えばいいのか分からなくなってしまったの」
アメリアはそっとマリアの手を包み込んだ。
「マリア……ダリオンはあなたを本当に大切に思っているのです。
子どもがいようといまいと、あなたが王家の一員であることは変わりません」
アメリアは優しく微笑んだ。
「でも……女性として、母になりたい気持ちもわかります。
治療を受けるなら、ダリオンと“ともに”受けてください。
一人で抱え込む必要なんて、どこにもありませんわ」
その言葉に、マリアの瞳に光るものが浮かんだ。
こぼれ落ちそうな涙を必死に堪えながら、小さく頷く。
作り物の影など、一つもないように見える――けれど。
アメリアはそっとマリアの手を包み込みながら、胸の奥で静かに思う。
――彼女を、信じてもいいのだろうか。
この涙も、この苦しみも、どうか本心であってほしい。
彼女は嘘をつくような人ではないと……そう、信じたい。
それでも小さな疑念は、消えてはくれなかった。
アメリアはその想いを胸の深くに押し込み、マリアの手をもう一度優しく握り返した。




