二十一話 新たな幕開け
時は流れ、いつのまにか婚約の儀から二年近くの月日が経っていた。
初夏の陽気が忍び寄る頃、アメリアはじわりと肌にまとわりつく暑さにうんざりした様子で庭を眺めていた。蜜蜂が忙しなく飛び交い、小さな色とりどりの花が風に揺れている。
――カラン。
氷の溶ける音に気づいてテーブルへ視線を向ける。すっかり薄まってしまった赤いジュースを見て、またため息がこぼれそうになった。
「ずいぶんつまらなそうな顔をしているな」
「ストーン伯爵から、また連絡が途絶えたのか?」
顔を上げれば、そこにはふたりの兄王子が立っていた。
談笑しながら、当然のようにアメリアの向かいへ腰を下ろす。
「…お兄様たちは随分楽しそうですね?」
「実は兄上にマリアの肖像画を描いていただいてね。その仕上がりを、さっき見てきたところだ」
「五百号の肖像画を描くのは初めてだったから、思いのほか時間がかかってしまってね」
「兄上の絵は、いずれ発表したらどうかと話しているんだ。アメリアはどう思う?」
二年前は冷戦状態だったふたりだが、その雪解けのきっかけを作ったのは紛れもなくアメリアだった。
それを理解しているからこそ、三人は毎月必ず顔を合わせる時間を作るようになった。
「お兄様の絵を……それは……」
「兄上が王位を継ぎたくないのなら、絵を公にすることで父上にも伝わると思わないか?」
ダリオンが嬉しそうに語るが、カリオンは苦笑した。
「そう簡単にはいかないさ。そもそも……ダリオン。お前は王位を継ぐ気があるのか?」
「僕が? いや……それは……」
歯切れの悪い弟に、兄は静かに言葉を重ねる。
「お前に王位への執着がないのはわかっている。昔は、ひょっとして望んでいるのかとも思ったが……違うのなら、私が継ぐのが一番だろう」
カリオンは、王子としての覚悟を胸に定めていた。
アメリアが二人の溝を埋めるため互いを知ろうと働きかけてすぐに分かったこと――
ダリオンは王位など望んでおらず、ただ兄を深く慕っていただけだ。
彼が誤った行動に出ていた理由は明白だ。
相談相手が、よりにもよってフィリップ・モリスだったからである。
幼なじみで友人、さらに妻の従兄弟という立場を利用し、ダリオンとカリオンの仲にひびが入るよう巧みに誘導していた。
アメリアは二人の関係を修復したのち、次にダリオンの相談相手がフィリップではなくカリオンになるよう環境を整えた。
すると、それは驚くほどたやすかった。
ダリオンにとってカリオンは、昔から“偉大な兄”だったからだ。
やがてダリオンは兄の芸術への情熱にも理解を示すようになり――
ついには「兄上がもっと自由になれないだろうか」と思うほどになっていった。
アメリアは思う。
正直、王位はカリオンが継ぐ以外ないだろう。
ダリオンは優しい青年だが、あまりに素直で人に影響されやすい。
もし彼が王となれば、フィリップをはじめとした貴族たちが群がる未来は容易に想像できた。
その点、カリオンは政務そのものに興味は薄いが、冷静に周りを見定める能力がある。
決して国民に無用な負担を強いる王にはならないだろう。
それでもほんの少し考えてしまう。
前世でヴァルクが作った国――王族がいない、国民が君主を選ぶ世界。
もしこのふたりのどちらも王位を継がなかったら、同じような世界が訪れるのだろうか。
けれど、そうなったら……本物のアメリア王女はどうなるのだろう。
私は…このままアメリアのままでいられるのか……。
「それで? アメリアはどうして機嫌が悪いのかな?」
声をかけられ、意識が現実に戻る。
「アメリアの考えていることなど決まっていますよ。ストーン伯爵だろう? 今はどちらにおられるんだ?」
「……さあ。彼の居場所を私に聞かないでいただきたいものです」
アメリアの静かな怒りを感じ、二人は押し黙った。
「本当にヴァルクはとても忙しいんです。婚約の儀のあと、アレクサンダー王子の死の理由がわからないまま、すぐにユーラシアへ行き同盟維持のために働きかけ、その後はノルディアへ戻ったと思ったら鉱山や道路工事の問題で忙しく、その上国内の領土問題も勃発してまたどこかへ行かれて……。
手紙を書いてはいるものの、お返事が来たこと……ありましたかしら?
王都に参られたことも……そういえば国王に呼び出されて何度か参ったこともありましたわねぇ。私には顔すら見せず、すぐに戻られましたけれど。新年の挨拶では、壇上から顔を眺めた程度でしたかしら?」
饒舌に語るアメリアに、カリオンとダリオンは顔を見合わせた。
この二年、ヴァルクはまるで婚約者などいなかったかのように働き詰めだ。
最初の頃は恋文のような手紙を毎週のように送っていたが、途中で――こんなことをしている暇はないのだ、と悟った。
返事が来るかどうかも分からないまま、ただ待つ行為は自分の役目ではないと気付いた。
そうして悶々とした気持ちを抱えながらも、領主の妻として学ぶべき仕事や兄弟の仲を深めるための時間へと費やしていった。
忙しさに身を委ねれば、ヴァルクを思い出す時間は自然と減った。
それでもふいに胸を刺すように彼を思い出し、立ち止まってしまう瞬間がある。
アメリアがふっと視線を落とし、薄まったジュースの表面に映る空をぼんやり眺めていたその時――
「アメリア!」
息を切らしたシンシアが、庭への扉を勢いよく開けて飛び込んできた。
「ど、どうしたのシンシア?」
氷狼騎士団第二部隊隊長――護衛として王都に残った彼女の奔放さには城に住まう人々も皆すっかり慣れてしまった。こうやって王族だけで過ごしているところに踏み込んだとしても誰も止めることはない。
彼女には王女として振る舞う必要もなく、心の疲れを癒してくれる大事な存在でもある。
シンシアは胸に手を当て、興奮を抑えきれない声で告げた。
「さっき早馬が知らせてきた!
ヴァルクが……王都へ向かっているそうだ!」
その一言に、アメリアの心臓が大きく跳ねた。
薄まった赤いジュースも、庭に揺れる花々も、世界の輪郭が一瞬で鮮やかになる。
兄たちは驚きと安堵の入り混じった表情でアメリアを見つめたが、アメリア自身は言葉を失っていた。
初夏の風が静かに吹き抜ける。
――婚約期間は、残り一年。
胸の奥で眠っていた感情がざわりと揺れ、アメリアは知らず息を呑んだ。
静かな日常が終わりを告げた気がした。
これから訪れるのは――嵐。




