二話 不穏な影
ヴァルクが王都を発って二日が過ぎた。
翌日は、王や兄王子たちへの報告があった。ノルディアでの生活、鉱山の成果、そして旅の道中の出来事まで。
それが終わると、今度は婚約の儀の準備に追われる日々が始まった。
婚約の儀――それはロキア王族に古くから伝わる神聖な儀式である。
王族とその伴侶となる者が、互いに血の契約を交わすのだ。
神の御前で永久の服従と忠誠を誓い、左手の薬指に小さな傷をつけ、互いの血をひとつの聖杯に落とし掲げる。
それが、ロキアにおける「結びの証」とされていた。
この儀式の起こりは、建国の王にまで遡るという。
王がこの地を征服したとき、先の領主にはひとりの娘がいた。
娘は絶世の美貌を持ちながらも気高く、王にこう言った。
――「我に服従するなら、あなたの妻となりましょう」と。
王は微笑んで答えた。
――「ならばお前も、我に服従せよ」。
こうして互いの血を交わす誓いの儀が生まれたのだという。
以来、ロキアは建国から今日まで、一夫一妻の誓いを貫いている。
ヴァルクは前日まで戻れない。
その間、アメリアは儀式の手順を叩き込み、衣装の準備、祝宴の段取り――
気づけば予定表は一日も空いていなかった。
それなのに――。
「いやぁ、お会いできて良かった! 元気そうで安心したよ、アメリア。」
馴れ馴れしく話しかけてきたのは、フィリップ・モリス。アメリアの元婚約者候補のひとりだ。
衣装の採寸を終え、兄嫁マリアに誘われて庭園でお茶をしていると、まるで待ち構えていたかのようにこの男が現れたのだった。
「どうしてあなたがここにいらっしゃるのかしら? ここはマリアお義姉様の庭園ですわよ。」
「いやいや、アメリアは知らなかったかな? マリアは僕の従姉妹なんだ。
それに君の兄上――ダリオンとは親友でもある。」
マリアに視線を向けると、彼女は気まずそうに目を背けた。
最初から、フィリップと引き合わせるために呼ばれたのだと気づく。
マリアとの関係は、特別なものではなかったはずだ。
唯一、テティを侍女としてノルディアに同行させた件で少し親しくなったが、
――あれも彼女の思惑のうちだったのかもしれない。
自分によく尽くしてくれた侍女の顔が脳裏をよぎる。
その善意を信じ、無防備に招きに応じた自分の浅はかさが悔やまれた。
「ああ、そうでしたね。すっかり忘れておりましたわ。
それで、私に何のご用かしら?」
「はぁ、相変わらず素っ気ないね。子どもの頃はよく僕の後をカモの子どものようについて来て離れなかったのに。」
「そんな昔の話をされても困りますわ。子どもなんて皆、年上の子に遊んでもらいたくて付きまとうものですもの。」
「なるほど。じゃあ今は、誰の後を追いかけてるのかな?」
軽口のように言いながらも、その眼差しには探るような光が宿っていた。
アメリアは微笑みだけを返す。
「王都に戻ってからは、忙しくて誰の後を追う暇もございませんの。」
「ふふ、そうかな。
ストーン伯爵とは、ノルディアでずいぶんと親しくなったと聞いているよ。
で……事実はどうなんだい?」
「噂とは便利なものですわね。
真実も虚構も、聞く人の都合で形を変えるのですから。」
アメリアは穏やかに紅茶を口に運び、にこりと笑ってみせた。
その態度に、フィリップの笑みがわずかに引きつる。
「なるほど……ストーン伯爵は女に興味がない堅物だと聞いていたが、やはりあなたの美しさには屈するしかなかったか。」
「ずいぶん下世話ですわね。
あなたの取り巻きの女性たちは、さぞ苦労していることでしょう。」
「ふっ、確かに僕を慕う女性は多い。
だが、あなたが私を選べば――彼女たちには涙を拭いて身を引いてもらうしかなかったのだがね。」
アメリアは露骨に嫌悪の色を浮かべ、睨みつけた。
フィリップはその反応さえ愉しむように、完璧な微笑みを浮かべる。
「……そういえば、婚約の儀は親族以外は立ち入れないと聞いたけど、その後の祝宴には招かれているんだ。
楽しみにしているよ。」
「それは光栄ですわ。ぜひ楽しい夜になりますように。」
「楽しみにしているよ、アメリア。」
そう言い残して、フィリップは軽く礼をして去っていった。
その背を見送りながら、アメリアはカップをそっと置く。
薄い紅茶の水面が、かすかに揺れた。
「ごめんなさい、アメリア。
フィリップが――どうしてもあなたに直接お祝いを申し上げたいと言うものだから…。」
「お義姉様……彼とは親しくしているのですか?」
「えっ、ええ……ダリオンと仲が良いから王宮にはよく顔を出すわ。
それに……実は、私たちを取り持ってくれたのが彼なのよ。」
「そうなのですか?」
「……いつだったかしら。
モリス家の領地にダリオンが狩り遊びに来ていて、王子をもてなすためにと親戚の若い女性は皆駆り出されたのだけど……
フィリップは、なぜか一番目立たない私にダリオンの世話をさせたの。
それがきっかけで、ダリオンは何かと私に気を配ってくれるようになって……
結婚も、本来ならカリオン王子を差し置いてすべきではないと思っていたのだけれど……」
そこまで話すと、マリアは考え込むように黙り込んだ。
第二王子の妃で、地方貴族の娘。
モリス公爵の妹の嫁ぎ先の娘であり、フィリップの従姉妹にあたる。
ダリオン王子はフィリップ・モリスの友人なだけあって、派手で愛想もよく、侍女たちの間でも評判だった。
その彼が「すぐにでも結婚したい」と連れてきたのがマリアで、一時王宮内は騒然となった。
当時まだ二十歳を過ぎたばかりのダリオンに王は良い顔をしなかったが、結局は結婚を赦し、婚約の儀と式をほぼ同時期に終えたのだ。
マリアは素朴な女性だが、ダリオンを惹きつける何かがあるのだろう。
その時、背後から軽やかな足音が聞こえた。
振り向くと、第二王子ダリオンの姿があった。
「マリア! 今戻ったよ!」
笑みを浮かべたダリオンは、陽光を受けて光る銀髪を指先でかき上げながら、庭園の入り口に足を踏み入れた。
「ダリオン……今日はずいぶん早いですね。」
「アメリアが来ていると聞いたからね。
昨日のノルディアでの話を、ぜひマリアにも聞かせてあげてほしくて急いだんだよ。」
「ええ、それなら、ぜひお兄様も一緒に。」
マリアが手を挙げると、すぐにダリオンの椅子と飲み物が用意された。
「そういえば、ヴァルク殿は今は稽古ですの?」
「それが――カリオンの尻拭いをさせられてるんだよ。」
その一言に、アメリアは小さく目を瞬かせた。
マリアが「まあ」と声を上げかけたのを、ダリオンは手で制した。
「兄上のことを悪く言うなって顔だな。違う違う、事実を言っただけさ。
領地争いの調停を任されたのに、結局まとめきれずに放り出したんだ。
そのあとを引き受けたのがヴァルク――つまり君の婚約者ってわけだ。」
「……カリオン兄様が……そんなことを?」
「知らなかったのか? まあ、王も表立っては言わないからね。」
ダリオンは肩をすくめ、薄く笑った。
その笑みには、どこか冷ややかな響きがあった。
アメリアはその笑みの奥に、兄カリオンへの明確な敵意を感じ取った。
王族同士でも、兄弟の間に深い溝がある――
それを、初めて実感した瞬間だった。
マリアは隣で気まずそうに微笑みながら、そっとダリオンの手を取った。
「ダリオン、もうそのあたりで……ね?」
しかしダリオンは軽く笑って肩をすくめ、
「心配するなよ。俺はただ、事実を伝えただけだ。」
そう言って、何事もなかったように紅茶に口をつけた。
秋の光が差し込む中、アメリアは胸の奥に重い影を感じていた。
これまで、前世で城が落ちたのは貴族の内乱が原因だと思っていた。
だけど、あの城には王族がいたのだ。
王……そして、カリオン第一王子とダリオン第二王子。
もし、王族同士の内乱があったとしたら――。
ノルディアへ向かう途中で襲われた狼の件も、ロキア王国の内部の者の仕業だろうと言われた。
思ったよりも身近に、大きな火種が潜んでいるのかもしれない。
すべてが、彼女の知らないところで静かに動いている気がした。




