十六話 血の聖杯
婚約の儀を前日に控えたこの日、アメリアとヴァルクは儀式の予行に臨んでいた。
最初は予行なしで本番に挑む予定だったことを思えば、この数日で随分と準備が整ったものだ。
「では、血の聖杯に代わりまして、おふたりにはこちらの杯に注いだワインを交互に飲んでいただきます」
司祭の前に置かれたグラスは、青いガラスに金の細工が織り交ぜられ、ステンドガラス越しの光を受けて温かな輝きを放っていた。
ヴァルクからアメリアへと杯が渡される。
覗き込むと、まるで血のように赤黒いワインが揺れていた。
「はあ……」
漏れた溜め息に、ヴァルクが小首を傾げる。
「どうした?」
「いえ、ただ……不思議な儀式だなと」
「まったくだな。そもそも結婚するのだから、永遠を誓うも同然だというのに」
「ゴホンッ! その点は再三ご説明しているかと思いますが!」
雑談めいた会話に、司祭は露骨に眉を吊り上げる。
「もちろんですわ、司祭様。これは初代国王陛下と妃が、互いの忠誠を示すためになされた……素晴らしい儀式でして」
「そんなものをしなければ信じ合えなかったということか」
(ヴァルク……思ってても言わないでよ……!)
宥めたつもりが横から油を注がれ、アメリアは背中に冷や汗を感じた。
「だが、これをしないなら結婚は承諾せんと王に言われてしまった。
……どうする?」
涼しい顔で問うヴァルクに、アメリアは呆気にとられる。
「え? 今さら……」
(またその話に戻るの?!)
完全に顔に出てしまったらしい。
ヴァルクは満足げに口角を上げ、アメリアの頭を軽く撫でた。
「俺はこの婚約を確かなものにしたい。だから、さっさと終わらせてしまおう」
試すような態度に一瞬むっとしたが、アメリアは思い直す。
彼はもう、王女ではなく“アメリア”として接しているのだ。
なにより――彼の心を掴んだ、という確信が胸を温かくした。
ヴァルクは、どんなことがあっても裏切らない。
その安心と、まだ言葉にできない複雑な想いが胸の奥に渦巻くまま、ふたりは予行を終えた。
そして久しぶりに、完全に二人きりの時間を手に入れる。
「体調はどうだ?」
「もうすっかり元気よ。……全然顔を出さなかったけど、アレクサンダーの尋問はうまくいっていないの?」
「いや……あいつは何でもペラペラと話してくれている」
思いがけない返事に、アメリアは目を見張る。
「もともと、婚約者が決まったあの日に、奴に接触してきた人間がいたらしい」
「えっ、もう黒幕に迫っているの!?」
驚きの声が大きく響き、アメリアは慌てて口を押さえた。
「いや……そうでもない。接触した下級貴族はすでに死んでいた」
「え……?じゃあその人もまた誰かの指示で……」
「アレクサンダーは『アメリア王女を手に入れる方法を教えてやる』と言われ、その口車に乗ったそうだ」
「誰かもわからない相手の言葉を信用したの? し、信じられない……」
アメリアを手に入れたい一心か、ただの博打か――
どれほど追い詰められていたのかが、嫌でも浮かび上がる。
ヴァルクは低く息をついた。
「あまりに軽率だろう? だが、嘘を言っているようには見えない」
「……彼は、国から疎まれているように話していたわ」
「おそらくな。向こうでも色々と問題を起こしていた。それを承知で、婚約者候補として我が国へ送りつけてきたのだから……ユーラシアもいい度胸だよ。
今回の件についても、“そちらの処分に従う。いかなる結果も受け入れる”とだけだ」
ユーラシアにとって、王位継承権もなく、素行の悪い王子は厄介な存在――。
けれどもし、彼がまともに扱われていたなら。
そんな淡い思いが胸をかすめる。
「彼には……正しいことを教えてくれる人はいなかったのかしら」
「どうだろうな。ユーラシアの現王は狡猾だが、愚かではない。
アレクサンダーの母親は妾で、あいつを産んだあと“正妃以外の子に継承権は与えない”と言われ、精神を病み……最後には自ら命を絶ったらしい」
「まぁ……」
「アレクサンダーは、多くの女性を……母親と同じ姿にしたそうだ」
その言葉で、あの声が脳裏に蘇る。
『僕はね……君の骨が好きなんだ』
「うっ……」
胃が逆流するような感覚に襲われ、アメリアは慌てて口元を押さえた。
ヴァルクは真っ青になり、背中を優しくさすった。
「すまない、こんな話をするべきじゃなかった……」
「いえ……私が聞いたのですもの。大丈夫よ」
思い出すのも苦しい。
前世のアメリア王女の痛みで胸を締めつけるようだ。
それでも――今は少しでも手がかりを得たい。
ヴァルクは少しだけ視線をそらし、言葉を選んだ。
「……そういえば、ひとつ。聞き忘れていたことがあったんだ」
「え?」
アメリアは瞬きをする。何の話だろう、と首を傾げた。
「忘れたのか?」
ヴァルクは苦笑に似た表情を浮かべる。
「――あの日…返事を聞かせてくれた日、話が途中だったろ?
帰ったら続きを聞かないととずっと思っていた」
アメリアは一瞬、息をのみかけた。同時に城で彼に結婚すると宣言し、見送った日のことを思い出した。
そう、とても大事なことを言わければいけなかった。




