十話 与えられたのは…
シンシアと別れたあと、ヴァルクは小隊を連れて、いちばん近くの村へ降りた。
貸し切った宿は古びた造りだったが、隅々まで掃き清められ、温厚そうな老夫婦が営んでいた。
アメリアの身分は明かされなかったが、ボロボロの衣服を見た女将は、「娘のお古だけど」と言って、清潔な服や靴を用意してくれた。
湯浴みを済ませ、ベッドに横たわると――この一日がまるで夢だったように思えた。
昨日の昼間は、花を摘んでいただけなのに。
目を閉じると、ローラやシーリーンの顔が浮かんだ。
(きっと、心配しているだろうな……)
コンコン。
扉がノックされる音がした。
「どうぞ」と答えると、ヴァルクが盆を持って入ってきた。
「わざわざヴァルクが持ってきてくれたんですね?」
「ここには侍女がいないからな。役不足かもしれないが、我慢してくれ。」
彼はベッドの隣の椅子に腰を下ろすと、匙でスープを掬った。
「え……?」
ヴァルクは一瞬、不思議そうに彼女を見てから、思い出したようにスプーンに優しく息を吹きかけた。
「もしかして……食べさせてくれるつもりですか?」
「……な、何か変だったか? 病人にはこうすると、さっき奥方に聞いたのだが。」
その不器用な仕草に、アメリアは思わず吹き出してしまった。
「い、いえ……ごめんなさい。まさかヴァルクに世話してもらえる日が来るとは思わなくて。」
「……食べないのか?」
どこか不満げな顔をする彼に、慌てて首を振る。
「い、いただきます!」
匙を口に含むと、山羊のミルクの香りがふわりと広がり、優しい温もりが喉の奥に落ちていった。
「ん……!」
「熱かったか?」
「美味しい!!」
呆気にとられたヴァルクに、満面の笑みを向ける。
「ふふっ、とても美味しいです。」
「そ、そうか。もっと食べた方がいい。……ゆっくりな。」
人生で、こんなふうに誰かに世話を焼かれることがあるなんて――。
まるで子どもに戻ったような時間が、一口ごとに胸の奥へと染み込んでいく。
(どうしよう……こんなにも、嬉しいなんて)
長い人生を経て、愛情を受けるということが、
こんなにも温かいものだったと――そのとき、初めて気づいた。
カリナだった頃、幼い子どもたちが病に伏せたとき、同じようにスープを口に運んでやった。
あの子たちに向けた想いは、何にも代えがたい宝物のような愛情だった。
――そんなふうに「与える側」だった自分に、
今度はその愛が向けられている。
それがただ、嬉しかった。
「部屋の外で見張りをしている。何かあれば、すぐ声をかけろ。」
食べ終わったスープを片づけながら、ヴァルクがそう言った。
アメリアは布団の中に潜り込み、小さく「はい」と答える。
ヴァルクが灯りを落とし、扉が閉まると、部屋に静寂が満ちた。
目を閉じた途端――あの夜の闇が蘇る。
暗闇の中、靴音と男の息遣いが響き渡る地下道。
乱暴に揺れる馬車。
腕を掴まれた痛み。
そして、アレクサンダーの常軌を逸した瞳。
胸の奥が締めつけられ、息が苦しくなる。
体が勝手に震え始めた。
「……ぅうっ……」
部屋の扉を見つめた。外にはヴァルクがいる。
「ヴァルク……」
声を絞り出すと、すぐに扉が開いた。
ヴァルクが駆け寄り、心配そうに彼女を見下ろす。
「どうした?」
「ごめんなさい……なんだか、息苦しくなって……」
アメリアは視線を逸らしながら、それでも勇気を振り絞って口を開いた。
「……あの……隣に、いてもらえませんか?」
ヴァルクは一瞬、言葉を失ったように黙り込んだ。
その沈黙のあいだに、外から夜風が入り、蝋燭の炎が小さく揺れる。
「それは……」
「お願い! 一人になると、またあの男が来るような気がするの!」
アメリアの懇願する瞳を見て、やがて彼は無言で椅子を引き寄せ、ベッドのそばに腰を下ろした。
そっとアメリアの手を握る。
「眠るまで、そばにいよう。」
その言葉に、アメリアの胸の奥で張りつめていた糸がふっと緩む。
温かい手の感触が伝わり、恐怖が少しずつ溶けていった。
(ああ……この人の手は、ずっと、あたたかい……)
ヴァルクの指先が、静かに彼女の指を包む。
やがてアメリアのまぶたはゆっくりと閉じ、穏やかな寝息が部屋に満ちた。
ヴァルクはその手を離さぬまま、静かに夜の闇を見つめていた。
アメリアの寝息は穏やかで、さっきまでの怯えはもうどこにもない。
「どうしてお前は、俺なんかを信用できるんだ。」
小さな声が、夜気の中に消えていく。
返事はない。
彼女はただ、安らかな寝顔のまま、静かに呼吸を続けている。
ヴァルクは小さく息を吐き、握った手にもう一度力を込めた。
窓の外では、遠くで夜鳥の声がした。
その声を聞きながら、額にそっと口づける。
ただ――静かに眠れることを祈って。




