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陸海軍協力な世界

艦上襲撃機“影楔(えいけつ)”

作者: 仲村千夏

 重たい扉が閉じられ、内側から錠が降ろされた。


 昭和十五年初夏。横須賀、海軍航空技術廠。

 窓はすべて遮光幕で覆われ、外の光も、音も遮断されている。ここで話される内容は、艦隊司令長官の執務室よりもさらに秘匿性が高かった。


 長机を挟む形で、海軍と陸軍の制服が向き合っている。

 軍令部、航空本部、技術廠、そして陸軍航空本部――これほどの顔触れが一堂に会するのは、極めて異例のことだった。


 だが、それだけ状況は切迫していた。


「改めて通達する」


 軍令部の将官が、低く、しかしはっきりとした声で告げる。


「陸軍より正式要請のあった『航空支援用空母』二隻の建造は、先ほど大本営により承認された。すでに基本設計の作業に入っている」


 室内の空気が、わずかに揺れる。


「よって――それに搭載する航空機も、即刻検討を開始する。今回の会議の目的はひとつ。新たな“艦上襲撃機”の設計を、正式に立ち上げることにある」


 誰も口を挟まなかった。

 ただ、静かに資料をめくる音だけが響く。


 机の上には、欧州戦線で撮影された戦車や要塞の航空写真が並べられていた。コンクリートで固められたトーチカ、網のように広がる塹壕陣地、装甲に覆われた機動部隊。


 それらは、来るべき戦いが「空と海」だけでは終わらないことを、何よりも雄弁に物語っていた。


 陸軍側の代表が、静かに切り出す。


「我々が求めているのは、単なる攻撃機ではありません」


 指先が、一枚の写真を叩く。

 そこには、上空から撮影された戦車隊が写っていた。


「上陸作戦において、最大の脅威は機動する敵装甲部隊です。砲兵では追いつけない。爆撃では間に合わない。我々には、即応性を持った打撃力が必要なのです」


「それが、空母から出撃する襲撃機だと?」


 海軍の参謀が問い返す。


「そうです。海から発進し、陸へ踏み込み、敵の要所を直接叩く機体。制空や爆撃の“ついで”ではなく、最初から地上戦を想定した航空機です」


 沈黙が流れる。


 海軍にとって航空機とは、本来「艦隊決戦のための存在」だった。

 だが今、それは大きく役割を変えようとしている。


 ひとりの若い技術士官が、声をあげた。


「……つまり、それは」


 全員の視線が向く。


「空母航空隊の中に、“突撃のための尖兵”を作る、ということですね」


 陸軍代表は、静かに頷いた。


「ええ。上陸部隊が踏み出す前に、防御線に穴を穿つ楔です。影のように忍び寄り、急所を貫く刃。――そういう機体が、我々には必要です」


 その言葉に、海軍の技師たちの目つきが変わる。


 それは、すでに「飛行機」ではなかった。

 ひとつの兵器思想だった。


「では、その刃に相応しい名を考えなければなりませんな」


 誰かの呟きに、数名が小さく頷いた。


 若い技官が、静かに口を開く。


「仮の呼称ですが……

 私は、この機体を——」


 一瞬の間。


「『影楔えいけつ』と呼びたいと思います」


 空気が凍りついたかのように静まり返る。


 だが次の瞬間。

 誰からともなく、ゆっくりと頷きが広がっていった。


「……悪くない」

「いや、むしろ的確だ」

「影から来て、楔のように打ち込まれる、か」


 軍令部の将官が、低く言った。


「では、本日よりこの計画の正式仮称を『影楔』とする」


 卓上に置かれた書類に、朱色の印が押される。


 乾いた音が、密室に響いた。


 その瞬間、まだ図面の上にしか存在しなかった一機の襲撃機は、

 日本陸海軍共同の、実在する計画兵器となったのだった。


 会議室の空気は、再び緊張で張り詰めていた。

 前回の会議で「影楔」の構想は承認され、今回は具体的な設計と性能要求を決める段階である。軍令部、航空本部、陸海軍技術廠、陸軍航空本部の代表が机を囲む。


「まず、搭載母艦について確認する」


 海軍技術廠の主任技師が前に出て言う。


「今回の空母は、陸軍要求による航空支援用空母です。甲板長は120メートル前後、発艦はカタパルト補助あり。着艦フックも標準装備とする。艦載機としての運用制限はこれでよろしいですね?」


 陸軍参謀が頷く。


「はい。陸戦部隊支援のため、離着艦性能の妥協は最小限にしたい」


「では、機体性能案から始める」


 若手技師が資料を開く。図面には細身の単発機の輪郭、中央下方に37ミリ砲、後方に旋回機銃が描かれていた。


「主発動機は単発1900馬力級。重量増加を考慮しても、短距離発進可能です。翼長は折畳可能、収納性を確保」


「37ミリ砲の搭載方法だが」


 陸軍側が問いかける。


「コクピット下、機体中央に配置します。プロペラ軸線は射線通過を考慮して設計済み。弾倉はボックス型5発入り、観測員が機上で交換可能」


 海軍技師が眉をひそめる。


「発射時の反動で機体が傾く懸念は?」


「機体強度は主翼と胴体補強で対応可能。実測試験で補正舵を含めた安定性を確認します」


「副武装と防御は?」


「主翼内20ミリ機関砲×2、後方旋回用13ミリ機銃×1。コクピット周辺、燃料タンク、発動機周囲には防弾装甲を配置」


「爆装は?」


 陸軍参謀が早口に聞く。


「250キロ爆弾を2発まで。ロケット弾は4〜6発搭載可能。500キロ爆弾は搭載不可」


「戦車に対して37ミリ砲で十分か?」


「理論上、戦車の上面装甲なら撃破可能。急降下や背後攻撃により、天蓋や砲塔下を貫通する設計です」


 静かに頷く海軍技師。航空母艦からの運用という制約を考慮すると、攻撃性能を確実にするためには、この低空・後方狙いが最も合理的だった。


「搭乗員は2名で確定か?」


「はい。操縦士と観測・砲装填員。弾薬交換も観測員が担当します」


「では、実用搭載数は?」


「通常運用で25発、重装備時は35発まで搭載可能」


 会議室の空気が、少しだけ緩む。


 若手技術士官が、図面上に指を置く。


「この構成なら、空母からの発進も安定性は確保でき、攻撃精度も保証されます。戦車の背後への侵入、陣地破壊、上陸作戦の突破口として十分でしょう」


 参謀たちは黙って資料を見つめる。

 誰もが理解していた。この小さな機体が、戦場に穴を開ける尖兵になることを。


 軍令部将官が、ゆっくりと口を開いた。


「よろしい。これで基本性能と装備を確定する。次は試作機の設計に入れ」


 その言葉に、全員が頷く。机上の図面は、もう単なる紙ではなかった。

 戦場を変える『影楔』の胎動である。


 決定の言葉は重く、だが静かに室内へ落ちた。


 その瞬間、全員が“前へ進む”覚悟を固めた――はずだった。


 だが、会議は、終わらなかった。


 海軍航空本部の中佐が、ゆっくりと手を挙げた。


「一つ、確認を」


 室内の視線が集まる。


「この機体の思想は理解した。しかし……あえて言う。この機体は――危険すぎる」


 誰かが息を呑んだ。


「速度、防御、火力……すべてを攻撃に振っている。だが、搭乗員の生存性はどうなる?」


 若手技師が反論しかけたが、主任技師が静かに制した。


「答えなさい」


「……生存性は、“極めて低い”と想定します」


 言葉は、はっきりと出た。


 それは、逃げではなかった。計算結果だった。


「だが、それは――」


 今度は陸軍側が声を上げた。


「搭乗員は訓練された兵士だ。だが“消耗品”ではない。我々は特攻機を求めているわけではないぞ」


 空気が張りつめる。


 藤堂技師が、はっきりと口を開いた。


「これは特攻機ではありません。帰るための機体です。ただし、“生きて帰る保証のある機体”ではないというだけです」


「違いがあるか?」


「あります」


 藤堂の声が、少しだけ強くなった。


「この機体は、生き延びられる“可能性”を、速度で買います」


 黒板に、新たな数値が書き込まれる。


「最大速度:時速六百二十キロ想定。急降下時は七百を超える。迎撃戦闘機ですら接近が困難な速度域です」


「だが、引き起こしは?」


「高度三百での強制引き起こし。G制限は操縦士に過酷ですが、機体は持ちます」


 沈黙。


 数名の士官が、顔をしかめていた。


「つまり……操縦士は、命懸けの急降下を強いられる」


「そうです。しかし、それは“全員が死ぬ任務”ではない。ただ“強い覚悟が必要な任務”です」


 誰かが小さく嗤った。


「言い方の問題だな」


 だが、誰も否定はしなかった。


 次に、別の懸念が提示された。


「問題は装備だ。三七ミリ砲は理論上可能だが、量産性はどうする。こんな特殊機体、工場で本当に回せるのか?」


「容易ではありません」


「ならば中止すべきだ、今のうちに」


 陸海、再び対立の気配。


 場の空気が、徐々にきしみ始める。


 そのとき――


 技術廠の年配技監が、静かに言った。


「諸君、もう一度確認しよう。我々はいま、“常識的な兵器”を作っているのではない」


 その声は低く、だが、よく通った。


「これは、敵の想定を裏切る機体だ。敵の編成、敵の防御、敵の常識、その“隙間”に打ち込む“楔”だ」


 皆が黙った。


「影楔」という名称が、再び意識に浮かぶ。


「常識的な安全性を求めれば、この機体の意味は消える」


(……だが、それは正しいのか?)


 誰もが、その問いを胸に抱いていた。


 しかし、この時点で“止める”という選択は、すでになくなっていた。


 軍令部の書記が、新たな書類を配り始める。


「影楔、試作一号機の製造が、本日付で承認されました」


 それは“決定”だった。


 誰にも、もう覆せない決定。


「担当は第一航空技術工廠」


「発動機の提供は中島」


「試験飛行は……三か月以内に開始」


 空気が凍りつく。


 三か月――あまりにも短い。


 だが、誰も反論しなかった。


 最後に、陸軍参謀がぽつりと口にした。


「……この機体の最初の搭乗員は、誰がやる?」


 視線が交差する。


 誰も名を口にしない。

 だが、全員が知っていた。


 “腕”があるだけでは足りない。

 必要なのは――覚悟だ。


 そして同時に。


 この機体は、きっと、

 優れた操縦士を選ぶのではなく、

 試すのだということも。


 窓の外で、風が木を揺らした。


 図面の角が、わずかにめくれた。


 そこに描かれた細身の機体は、まるで矢のようだった。


 標的は、すでに、地図の上にある――。


 翌朝、横須賀の技術廠は静まり返っていた。


 昨日の会議で決定された「影楔」試作一号機の設計図が、すでに工廠の作業場に置かれている。

 細身の胴体、コクピット下の三七ミリ砲、折畳翼の輪郭――紙の上の線が、空気の中で現実の重みを帯びていた。


 主任技師の手で、図面が慎重に広げられる。


「これが……影楔か」


 若手技師が小さく呟く。

 その声には、緊張と期待、そして薄い恐怖が混ざっていた。


 陸軍参謀も黙って頷く。

 昨日の議論での覚悟、設計思想、速度と火力、搭乗員の危険性――すべてが、この一枚の図面に凝縮されている。


「試作は三か月以内に完了、飛行試験もその後すぐだ」


 海軍技術廠の将校が、厳かに告げる。


 誰も口を挟まない。

 口を挟む意味もなかった。


 試作一号機は、すでに“戦場を切り開く尖兵”として、静かに息を潜めている。


 その瞬間、室内に一つの模型が置かれた。

 小型の機体模型に、手書きで「影楔」と書かれている。


 若手技師の目が輝く。


「……この名に、すべてを託すんですね」


 陸軍代表が微かに微笑む。


「我々が描いた戦術、思想、その全てを、この機体に託す」


 藤堂技師が、指を模型に添える。


「速度で守り、砲で穿ち、爆弾で穴を開ける。敵は何も気づかぬうちに、楔が入り込む」


 風が工廠の窓をかすめる。

 机上の図面がわずかに揺れ、影のように線が重なった。


 それは、未来の戦場の片鱗を、確かに示していた。


 誰も言わなかったが、皆が知っていた。

 この機体は、単なる航空機ではない。


 “影から突き刺さる刃”

 ――そう呼ぶに相応しい存在なのだと。


 そして、技術者も将官も参謀も、皆が小さく息を吐いた。

 希望と不安、誇りと恐怖が混ざる中、影楔は静かに、しかし確かに生まれたのだった。

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