#5 カレー作りを教えることになった
「待って! 行かないで!」
叫びと共に、ガバっと身体を起こす。
どこからともなく聞こえてきた鳥のさえずりで、夜が明けたことを悟る。
ゆっくりと息を吐き出し、顔を横に向けると、天窓から眩しい光が注がれていた。
大欠伸を一つして、脳に酸素が取り込む。頭が冴えてきた。
いつもと同様、悪夢からの目覚めだから、寝覚めは悪いけれど。
「……とりあえず、まずは鍋を片付けねえと」
鍋の中に残った汁を流しに流し、米ぬかを振りかける。米ぬかが鍋に残った汁気を吸い取るまで、いったん放置。
水瓶に入れてある水を桶に移し、鍋にかけた米ぬかがしっとりしてきたら、鍋を桶の中に入れて濯ぐ。最後に布切れで鍋を拭いて適当な場所に干す。これで鍋の処理は終わりだ。
食器洗い用の石鹸を使った方がもっと手早く綺麗になるらしいけど、わたしにとっては少々贅沢な代物なので使ったことはない。実際、米ぬかでどうにかなってるし。
今の洗い物で水瓶内の水が半分を切った。そろそろ補充しないと。
長屋の住民たち用の共同井戸に行き、持参した桶に水を汲み入れる。これを水瓶がいっぱいになるまでやらなくてはならない。部屋と井戸を二往復し、三往復目に入ろうとしたところで、不意に声をかけられた。
「葉ちゃん! おはよう!」
振り向くと、信子が立っていた。
リボンでぴょこんと左側にまとめられた髪が風に揺れている。使い古されているもののよく手入れされていて、決して見ずぼらしく感じることはない薄手の着物を身につけていた。一方のわたしはというと、昨日クビになったカフェーの給仕服姿のままだ。しかも、この格好で寝ていたこともあり、だいぶしわまみれだ。なんというか、自分の雑さを痛感する。昔は結構きちんとしていたはずなのに。
「葉ちゃんは今からお仕事?」
「あー……いや、今日はアレだ。お休みだ」
「お仕事の服着てるのに?」
「着替えずに寝ちまって、そのままなんだ」
わたしが問題を起こしがちで川崎でも数件仕事をクビになっていることは、すでに信子も知っている。わたしの噂を聞いた信子の母が、信子にわたしとの付き合いを考え直させるために話したらしい。
だから、別に昨日カフェーをクビになったことを正直に話しても良かったのだけれど、思わず見栄を張ってしまった。他の奴相手にはそんなことは一切ないのだが、信子相手には、妙に懐いてくれているからなのか、つい格好つけたくなってしまうことが多々ある。
……いや、クビにされたことを隠すことが恰好つけになっているのかと問われると、よく考えたら全然格好つけにはなっていない気もするけど。
「本当!? 葉ちゃん、今日、お仕事お休みなの!?」
信子が目を輝かせた。
「それじゃあさ、お願いがあるんだけど……」
「お願い?」
「うん。のぶにお料理を教えて欲しいの。今日、のぶも学校お休みだし」
「料理を教えてって……あんた、普段からご飯作ってるでしょ。今更、わたしが教えるようなことなんて無いと思うけど」
毎晩、夕飯時に仕事から帰ってくると、いつも美味しそうな匂いが信子たちの部屋から漂っていた。信子の料理そのものを直接目にしたことはないけれど、香りだけでもなかなかの腕前があることは予想できた。
「確かにのぶは毎日ご飯を作っているけど、お母さんに教わったことがあるものしか作れないし」
「別にそれでいいだろ」
「違うの。今回は作りたいものがあるの。カレーを作りたいの」
言いながら、信子が一歩近づいてきた。
「カレー?」
「うん。この間、葉ちゃん、カレーを作ったでしょ? 匂いしてたもん」
「ああ。まあ、確かに作ったかもな」
「それでね。その日、お母さんとお話した時にね、お母さんも一回ライスカレーとか食べてみたいって言ってたの。食べたことないんだって。だから、お母さんのためにのぶがライスカレーを作ってあげたいと思ってね。葉ちゃんに教えてほしくて、葉ちゃんがお休みになるのを待っていたの」
お母さんのために、ライスカレーを作りたい。
わたしは、信子の気持ちが少しだけ分かった。
昔、わたしも、お姉ちゃんのために、と似たようなことを考えていたから。
でも――。
「悪いけど、その期待には応えられない」
「そんな……」
わたしの言葉に、信子の顔が一気に曇った。心苦しい。
「わたし、料理が下手なんだよ」
「そんなはずないよ。あの日のカレーの匂いも美味しそうだったし。それに、いつも葉ちゃんのお家からするご飯の匂いだって……」
「いや、本当に下手なんだ。わたしはここ数年、自分で作った料理を美味しいと感じた事がない」
わたしは信子の言葉を遮った。信子が何と言おうと、わたしの料理が美味しくないのは事実なのだから。
信子は黙り込んだ。気まずさを感じ、わたしも信子から顔を背けて空を仰ぐ。
雲の流れがやけにゆっくりに感じた。
どんよりとした視線を感じ、再び信子に向き直る。
信子の目が少し潤んでいた。そんな信子の顔を見たら、心に何かが引っかかるような感じがしてきた。心の中で舌打ちする。
「……ああもうわかった」
「えっ……?」
わたしの観念したような言葉に、信子の顔が一気に明るくなった。曇りの日に、雲から太陽が出てきた時みたいに。
「作り方だけは教えてやる。ただし、あくまで作り方だけだ」
「どういうこと?」
「味の調整は自分でどうにかしろ。本当にわたしの料理は美味しくないからな」
「わかった! ありがとう、葉ちゃん!」
「でも、その前に水の補充を済ませてからだ。悪いけど、手伝ってくれねえか?」
「うん! 任せて!」
信子の手も借りて水瓶の中を満杯にした後、わたしは給仕服から私服の継ぎ接ぎだらけの着物に着替えた。
信子の着物と違って見た目は小汚いけれど、わたしが持っている服はだいたいどれも似たような状態なのでどうしようもない。街中をクビになった店の給仕服を着てうろつくわけにもいかないし。
こうして、わたし達はカレーの材料を買いに長屋を出た。




