玉の輿を狙う悪役ヒロインは不在です。だって私が欲しいのは王子じゃないから
貴族学園でもっとも華やかな場所である講堂。
そこに三年生が集まる卒業式後のパーティー。
シャンデリアが燦然と光るその中心で、ヒロイン然としたピンクの髪を可愛らしく結いあげた私は、興奮に小さく身を震わせていた。
「アンズリー公爵令嬢リリディアによるマシー男爵令嬢ピエニへの数々の嫌がらせ、断じて見過ごせない!」
第二王子ラッセル殿下の声が、堂々と響き渡る。彼が指さしているのは、つややかな黒髪のリリディア様。彼女こそいわゆる「悪役令嬢」として、今日、断罪を受けるお方。
そしてラッセル殿下が庇ってくださろうとしているのが、私ことマシー男爵令嬢ピエニだ。
「第二王子殿下にお尋ねいたします。私がピエニ嬢に嫌がらせをしたという証拠はあるのでしょうか」
私はぶるっと身体を震わせた。それをラッセル殿下が「大丈夫だから、ピエニ」と抱きしめてくれる。
「ピエニが具体的な証言をして、書面にも記録を残している。これだ」
《教科書を破られた》
《食事にガラスの破片を混ぜられた》
《トイレに閉じ込められて、テストを受けられなかった》
《階段の踊り場から突き落とされそうになった》
「陰湿な嫌がらせを繰り返す君は、私の妻にふさわしくない!今日限りで婚約は破棄する!」
殿下の怒声に、周囲の生徒たちは一斉にどよめいた。婚約破棄だなんて、ロマンス小説で読んだことはあっても、自分が実際の現場に立ち会えるだなんて思っていなかっただろうから。
「嘘でしょ?リリディア様との婚約を破棄して、殿下はどうするおつもり?」
「まさかあの謎の男爵令嬢と婚約なんて、しないわよね?隣国の男爵令嬢よ?」
「しかも、ただただあざとくて、殿下にべったりくっついているしか能がない子じゃない」
完璧。周囲のささやきまで、まるで役者を雇ったかのように、すべて台本通り。
リリディア様は黙ったまま、手にした扇子で口元を隠した。
ただの一言も言い訳せず、優雅に「殿下の御心は理解いたしました」とだけ告げて、くるりと背を向ける。
背を向ける瞬間、彼女の青い目と私の赤い目が、一瞬だけ合う。青い瞳が、わずかに笑った気がした。
まるで「仕上げを頼んだわよ」と言うように。
ーーー
リリディア様が退場したあと、私はラッセル殿下に抱き寄せられた。
「ピエニ、もう終わった。もうリリディアのことは心配いらない。彼女が何をしてきても、俺が守ってやるからな」
いいえ、まだ終わっていません。リリディア様が望まれているように、仕上げをしないとね。だから言ってください。
小さな唇をほんの少し開き、赤い瞳で熱っぽく殿下を見つめると、彼は私の前で跪く。誰がどう見てもプロポーズの姿勢。婚約破棄の興奮も冷めやらぬ生徒たちが、熱い視線を私たちに注いでいる。
「玉の輿を狙う悪役ピンク髪ヒロイン」がついに目的を果たす。悪役令嬢を退場させた身分の低い男爵令嬢の、成り上がり恋愛劇のクライマックス。
さあ見せ場よ、ピエニ。
「ピエニ、君を心から愛してる。俺と結婚してくれ」
私が涙を一筋流して「はい」と答え、私たち二人が抱き合うのだと、誰もが思っている。
けれど。
「できません」
「…え?」
殿下が間抜けな声を上げる。私は自分に向かって差し出された彼の手を、ぴっと払いのけた。
「王子と男爵令嬢が結婚なんて、できるわけないじゃないですか」
「そ、そんな…!」
ざわめきが広がる。
「それに、感情に振り回されて公爵家のご令嬢との婚約を破棄するような王族と結婚なんて、したくもありません」
私は「そうですよね、ご令嬢方?」と周囲を見回す。生徒たちは目を見開き、誰もが言葉を失っている。
「こんな人と結婚したって、お先真っ暗じゃないですか。それに正直、私と結婚したところでまた浮気するでしょ」
殿下の顔はみるみる赤くなり、怒りと動揺で震え出す。
「ピエニ、俺を侮辱する気なのか…!」
「いいえ。ただ、一国民、一女性として当然の感情をお伝えしているだけですよ」
彼はゆっくりと立ち上がった。
「今までのこと…すべて嘘だったのか。俺を愛していると…」
私は満面の笑みで答える。
「ええ、プライドばっかり高くて口先だけのあなたのことなんて、好きになるはずないじゃないですか。それにリリディア様が私をいじめたっていうのも嘘。あんな高潔で優しい方が、いじめなんてするわけありません」
そしてもう一つ、真実を。
「それにそもそも、マシー男爵ピエニなんて存在すらしませんよ」
そう、玉の輿を狙う悪役ヒロインなんて、最初からいないの。
立ち上がったはずのラッセル殿下は、崩れ落ちた。
「わかります?あなたは身元もわからない女の言葉に踊らされて、婚約破棄まで突っ走ってしまった大馬鹿者だってこと」
笑みが意地悪くなってしまうのを、抑えきれない。
「国王陛下から、どんなお叱りが待ってるでしょうね?」
私は彼に背を向けて、自分がいるべき場所へと帰る。
ただ真っすぐに出口へと向かう自分の足音だけが聞こえた。
ーーー
マシー男爵令嬢ピエニなんて存在しない。
私は孤児院で虐待を受けていたところをリリディア様に助けられ、公爵邸で下働きをしていた、苗字もないただのピエニ。
リリディア様は同い年の私のことを気にかけてくれて、文字や計算を教えてくれ、メイドに格上げしてくれた。そして私はいつも彼女の髪を梳き、紅茶を淹れ、ときにはちょっとした愚痴まで聞いた。
誰よりも気高くて、優しくて、まじめで、勉強熱心で。国のことや民のこと、私には思いもつかないようなことをいつも考えていて。
ラッセル殿下のことなんて本当は好きじゃないのに、婚約者だからと尽くして、ちゃらんぽらんな王子を必死でフォローして。
ラッセル殿下が貴族学園の女子生徒に色目を使ったり浮気したりしてるってわかっても、「気位が高くて口うるさくて、話していると疲れる」と言われても、折れないで。
どれだけ悲しくて悔しくて泣いても、諦めないで。
誰よりも立派で美しくて努力を重ねてきた彼女が苦しむ姿を見ていると、心が千切れそうに痛かった。
「リリディア様、ラッセル殿下との婚約をなかったことにはできないんですか?」
「考えたこともないわ」
リリディア様は諦めていた。だけど私はもう、リリディア様の涙は見ていられなかった。
だからメイドの先輩が夢中になっていた小説を参考に、「身分の低い令嬢と恋に落ち、真実の愛に目覚めた王子が、恋人をいじめた悪役令嬢に婚約破棄を突きつける」というシナリオを考えた。
「ピエニ、うまくいくとは思えないけれど」
「絶対成功させてみせますから。リリディア様には幸せになっていただきたいんです。あのクソ王子の隣で、リリディア様が幸せになれるとは思えません」
「私が努力すれば、彼も改心するかも…」
「どれだけリリディア様が苦労すればあいつは改心するんですか?改心したところで、完全に信じられますか?リリディア様はいつも不安でいなきゃいけないじゃないですか」
私の言葉にリリディア様が小さく頷いてくれたのが、この「ざまぁ計画」の始まりだった。
私はリリディア様からもらったお小遣いで、男爵令嬢の身分を用意。外貨稼ぎのために簡単に爵位を売ってくれる隣国で助かった。
そして貴族学園に編入し、ラッセル殿下の理想通りの「健気で可愛くてちょっとドジっ子で、ひたすらに殿下をよいしょする庶民派令嬢」を演じた。
優秀すぎるリリディア様に勝手に劣等感を募らせていた彼の自尊心をくすぐって、彼の気持ちが自分に傾いてきたのを感じたら、「リリディア様にいじめられている」と嘘の情報を教える。
殿下は「健気で正直で可愛い、俺のピエニ」を簡単に信じ、裏を取りもせずに、リリディア様を悪役だと思い込んだ。
愚かすぎる。そんな王子に、リリディア様は絶対に渡さない。
ーーー
学園の建物の外に出ると、公爵家の馬車が待ってくれていた。月明かりに照らされて、黒塗りの車体が静かに光っている。
「リリディア様、中は終わりました」
「ご苦労様。帰りましょうか」
「はい!」
馬車の中でリリディア様と向かい合って、彼女の目から感情を読み取ろうとしてみる。口は扇子で隠れていて見えないから。
「ピエニ、そんなに見つめてどうしたの?」
「リリディア様が今…幸せかどうか、それが気になって」
リリディア様はそっと扇子を閉じ、にっこり笑って、私の頬に手を添える。
「幸せよ。あなたのおかげ」
たったそれだけ。たったそれだけの短い言葉と彼女の手の感触で、私の胸は歓喜に震えた。
心の底から「ああ、私はこの言葉を聞くために生きているんだ」と思うと同時に、心の奥から熱いものが芽を出した気がした。
ーーー
その後のことは、いたって順調に進んだ。
リリディア様から事情を聞いたアンズリー公爵は、「公爵令嬢への侮辱」と「虚偽の証言を根拠とした婚約破棄」について問題提起した。
確実な証拠もないまま高位貴族を断罪し、公爵家との縁を一方的に切り捨てたことは、大きな政治的損失につながる。つまり彼は王族としての資質に欠ける、と。
「真実を見抜けなかった愚かな第二王子」の話はあっという間に国中に広がり、国王夫妻はせめてもの親心で、彼を噂の届かない遠くの国に婿入りさせた。
私にもお咎めがあると覚悟していたけど、公爵様もラッセル殿下のことは良く思っていなかったらしく、むしろ褒められてしまい、国王夫妻からも守ってもらえた。
貴族学園を卒業し、かつ婚約者のいなくなったリリディア様は、今、公爵邸で勉強を続けながらのんびりと過ごされている。
私はその傍らで紅茶を淹れ、書類を整え、そしてときどき一緒に笑う。
戸惑いを感じるほどに、私が望んだように、幸せな世界が整っていく。
…だから。
この幸福に割り込んでくる男がいるとしたら、私は許さない。
いくらでも同じことを繰り返して、リリディア様を守り続ける。そして、ずっと私のそばにいていただくのだ。
だって私が欲しいのは…
私の視線の先で、リリディア様が音も立てずにティーカップを置いて、私に微笑みかけてくれる。それだけで私の心に喜びが満ちていく。
「ピエニが淹れてくれる紅茶が一番ね」
「ふふ、じゃあこれからずっと私の紅茶しか飲まないでくださいね、リリディア様」
「あらあら、ピエニは難しいことを言うのね」
「でも、難しいと思っていた婚約破棄ができたじゃないですか」
だからきっと、私の願いはまた叶う。
「そうね」
彼女はまた微笑んでくれる。彼女の微笑みは、私だけのものだ。




