22 「ご・・・」
ダークな展開です。
フック船長の手。
高い木の上に実る南国の果物みたい。
いつも眺めていた。熟しきって落ちてくるのを。
でも、もうすぐ、尻尾の力で、触れそうなところまできていた。
鰐の鼻息が、あの人の手に触れるほど近づいて。
鰐の尻尾に血が滲んで。
バスドラムが鼓膜をつんざいて。
海に打ちつけられた尻尾が一番大きな音を破裂させた時、
ワニコの体は高く高く翔び、
ついに、船の欄干の上、巨大な鰐がひょいと顔を出す。
ワニコの目と、フック船長の恐怖に潤んだ目が合うのと同時だった。
船長の手は、じゃっくり、と挟まれる。
ワニコの出刃包丁のような牙のならぶ顎で。
ワニコは、帽子の下の、船長の大きな目と、小さく開かれた口を見た。
そしてワニコは、ああ、この顔だ、としみじみ思ったという。忘れかけていた、思い描けなかった、懐かしい顔がすぐそこにあった。
ワニコは、船長の瞳のなかに星を探すが、今は電源の切れたスクリーンみたいに、瞳は何も映していない。ただ、陶酔した鰐が一匹見えるだけだった。最凶な瞬間に、最高に幸せを感じている鰐が。
「ご…」
永遠のような一瞬、お互いにみつめあったあと、ワニコは獣を倒す鰐の習性で、獲物を咥えたまま体を半回転させ、ぐりんと回った。しまった、と思ったがもう遅い。
船長の手は、潰れてねじれて砕けて千切れる。繋がった体の一部だけじゃない、お互いの背骨までも爆発して消し飛ぶような衝撃が体を巡る。
船長は耐え切れなくて、叫んでいた、と思う。
ワニコは口を食いしばっていた、と思う。
でも”どちらかが”、確かに言ったのだ。理由はわからない。なのに、はっきり聞こえた。降ってきたみたいに、しっかりとこの言葉が届いた。
「ごめんなさい」
フック船長の声だったのだろうか。
想像することもできないような酷いことが自身に起きると、人はそのことを自分のせいだと思いこむ。それが混乱をおさめる一番てっとりばやい合理的な思考だから。
それとも、ワニコの心の声だったのだろうか。
ワニコは、天を仰いだまま墜ちていった。
船長の手、禁断の果実だけを、くわえたまま。
海に吸い込まれる寸前、船長が倒れるのがみえる。
水面を背でぶちぬいて、海に飲みこまれたら、太陽が白く、世界は青い。口から湧きでる赤黒い水泡が上昇し、空へ帰ろうとする。
沈み続けているのに、ふわふわと浮かんでいる気がした。
ごろごろする手を舌で感じていたら、暗い炎が体を焼き尽くしていった。
気分の高まりの内に、その手をぐっと飲み込む。何も考えなかった。もしも少しでも考えていたら、もっと酷いことをしていただろう。
狭い喉を押し広げて、船長の手がゆっくりゆっくりワニコの奥へ滑り込んできた。
瞬間的な血の沸騰、
羽が、ぶわっと生えて、翔びたつような高揚。
そして、幕引き。
電撃のような快楽、そのあとの暗転、そして何の予兆もなくやって来た後悔は、体にべっとりとはりつき、重たく、冷たい。ずっしりのしかかられて、身動きがとれず、ワニコの自由はこの時に完全に消えた。
真っ黒な海の底まで墜ちて、眠り続けていられたらよかった、とワニコは思ったという。
でも、ワニコのもう一つの心臓は時を刻み続けたから、それから5年間、ワニコにとって、今度は謝るためだけに海賊船を追いかける日々が始まったのだった。