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受刑者お仕事日記『永遠に0』

作者: ともなん


俺は今、『ゼロせん』で戦っている。


『ゼロせん』で突っ込むとロクなことにならない。それどころかかなりの辛い目に合う。といっても第二次世界大戦の話ではない。


これはれっきとした令和の話だ。


俺は令和4年の春に窃盗の容疑で逮捕された。食うに困ってのことだ。柿ピーと第三のビール、締めに食うカップ麺を誰にも見られないようにエコバッグに入れた。会計を通さずに店を出たところで店員に捕まり、警察を呼ばれた。

弁当持ちだったから必死に「他で買ったものだ」と抗ったが、防犯カメラにはっきりと映った自分の姿に黙らざるを得なかった。弁当持ちとは、過去に執行猶予の判決を受けて、その猶予中に再度捕まった者のことで、W執行猶予など今時ありえないから、起訴されれば裁判後に刑務所行きということになる。まだ今回の判決は出ていないが、求刑一年なら量刑相場で懲役8月というところだろう。1年6月の弁当持ちだから、すなわち合計2年2月の懲役刑になる。


『ゼロせん』の話に戻そう。俺は食うに困っていた。つまり俺には金が無かった。そう、持ち金0円で刑事施設に入った奴を『ゼロ銭で来た』と揶揄するのである。

ゼロ銭で留置所に入ると、精神、特にプライドが大きく削られる。ここからはゼロ銭で来た奴を便宜上ゼロ銭と呼ぶ。留置所での生活には洗面道具と着替えが必要だが、ゼロ銭はこれらが買えないため、借りる必要がある。

警察署にはゼロ銭のためにそれらが準備されている。それより大変なのは、切手、便箋、封筒が買えないことだ。これらは借りることができない。よって外部と連絡が取れない。唯一連絡を取ることができる弁護士は何もしてはくれない。

ゼロ銭でない者たちは、外部交通によって、金銭や着替え、本などの差入れを受けられる。彼らはその領置金で自弁の食事を取ったり、ジュースを飲んだり、お菓子を買って食べたりできる。私たちゼロ銭はそれを指を咥えて見ているしかない。黒飴の一つでも、恵んでもらえたら、それ以上を望むべくもないのである。


逮捕されて16日後、俺は起訴された。現在の裁判制度では起訴イコール有罪だ。奇跡的に無罪になるものは、ドラマでは99.9と言っていたが、実際には10000件に2件しかない。

起訴されて公判日が決まると、拘置所に移送される。拘置所では初めに手紙セットが売っているが、ゼロ銭にはもちろん買えない。弁護士への連絡が週一回FAXを送ることでできるのみだ。

拘置所は服装が割と自由なので、冷暖房完備の中、皆Tシャツとハーフパンツで過ごす。しかしゼロ銭は青緑色の舎房着を切るしかない。留置所では週一回だった洗濯も、週二回になるので下着は4枚持っているとうまくまわせるが、ゼロ銭には関係ない。なぜなら繰り返しになるが、私物を差入れてもらうことも、購入することもできないから、支給された白一色のトランクスを履くしかない。逮捕時に履いていたパンツは一ヶ月の間に、俺に溜まったストレスのように汚れていたため、廃棄した。

ゼロ銭だが財布は持っていた。自身の持ち物は預かられている免許とマイナンバーカードだけ。プライドはとうに削られて残っていない。

拘置所では、買える物の種類が格段に増える。日用品、お菓子など食品、文房具、新聞、雑誌や単行本、コーヒーなどの飲料などである。週三回の風呂の際に他の舎房が見えるが、皆本を数十冊、お菓子を種類毎に、それこそ店を営業するように並べている。それを見て羨ましい気持ちと自らをこの境遇に置いた何かが憎い気持ちが、風呂の度にない交ぜになる。

花粉の時期は鼻をかむのに、官物のちり紙をもらうのだが、質が悪く鼻が痛くなる。貰える量も少ないため、手鼻をかんだ方がましだ。私物の柔らかなちり紙を受け取っている向かいの舎房の奴が憎い。

「コーヒー、開缶報知器」の放送も、朝の願い事でもらえるバーコード式の購入願箋も、ゼロ銭には必要ない。ただで借りることができる官本と、全舎房に流れるラジオだけがゼロ銭の楽しみである。

正直ゼロ銭であることが、これほど精神を削るとは思ってもみなかった。持つ者と持たざる者の差をこれほど思い知らされるとは思ってもみなかった。もはやプライドなど残っていない。しかしながら、これはまだゼロ銭が受ける仕打ちの始まりでしかなかった。どん底はまだ先だったのである。


裁判で判決が出てから14日間は、上訴期間なので控訴できるが、俺はしなかった。求刑1年に対して裁判官が出すことができる最低刑は6月だが、俺の判決は懲役7月だったからだ。「これ以上まかることはない」看守が言った。「ずいぶんまかりましたね」裁判所の待機所でいっしょだった奴に言われた。情状酌量など無かったから、ひょっとすると弁当持ちで刑が長くなることを避けたのかもしれない。

起訴されて被疑者から被告人になったように、今度は被告人から受刑者になった。これを赤落ちという。被疑者や被告人は犯人ではないので、お菓子などを自由に食べられるが、受刑者はイコール犯人であるから、その罪を償うための罰を受けなければならない。公共の福祉に反したのだから、権利は保証されず行動には制限がかかり、扱いは大きく変わるのだ。よくテレビで『容疑者』だの『被告』だのと報道されるが、それらは全てテレビ独自の用語だ。容疑者Xは正しくは被疑者Xだし、ルビー被告は刑事裁判では被告人のルビーが正しい。中三で習うのに間違えている人間が多いのはテレビや小説のせいだ。


受刑者は作業をしなければならない、と法律で定められているそうだ。俺は厚紙を折って紙袋を作った。いたずら書きをする奴がいるらしく、筆記用具を回収するのだが「持っていない」と言うと『大型』と呼ばれている、おそらく同じ受刑者だろう、奴に鼻で笑われた。赤落ち初日に行われた知能テストのようなものの時は鉛筆を貸与してもらった。2日ほど働くと、どうやら『大型』だけじゃなく『小型』もいるらしいことがわかった。進撃の巨人なら『超大型』がいるが、ここにはいないらしい。

次の日は、別室に連れていかれ刑務所の希望を取られた。裁判所で「どこが良い」、「あそこはダメ」など聞いていたので、寒さの苦手な俺は「北海道ならどこでもいい」と答えた。逆のように思うかもしれないが、青森以北は暖房がきいていて、建物が断熱構造になっているため暖かいのだそうだ。東北や関東や名古屋以西の刑務所はすこぶる評判が悪いからできれば行きたくない、そう思っていたら、一週間後に俺が移送された先は、飛行機に乗る必要のない北関東の民間刑務所だった。


実を言えば、今までと違って刑務所には『ゼロ銭』では行っていない。作業には作業報奨金が出るからだ。拘置所で一週間働いて得た金は50円足らず、日給7.7円だ。ただし報奨金は半分しか使えないと決められている。25円では切手一枚すら買えない。舎場でならチロルチョコかうまい棒を買えるかもしれないが。

借り物のパンツの上に、私服を着て、靴を履いて、腰縄と手錠をされて、車で刑務所へと向かった。

民間刑務所、社会復帰促進センターとはいかなる場所かというと、塀がない。それだけだ。あとは同衆に聞いたところでは、「普通の刑務所と変わらない」とのことだ。最早何が普通なのか分からない。

朝は6時40分音楽が流れて起床、朝の点検、朝食。

主食は米麦飯で、おかずはふりかけや味噌と味噌汁。「しまった、味噌が被ってしまった」とゴローなら言いそうだ。納豆が好きな俺は二日に一回出るパック納豆は楽しみだが、甘いきな粉ははじめ何なのか分からなかった。ご飯にまぶして食べるのだそうだ。マカロニきな粉なるものも夕食に出る。また生卵が衛生面から出せないからなのか、たまごソースなるものが出る。刑務所ではよく定番なのだそうだ。味噌汁は高血圧に配慮されていて薄かった。

その後工場へ行進して出役、作業、運動の時間もある。昼になったら食堂で昼食。その後少し作業をしてから浴場へ。風呂は週三回、15分でヒゲを手早く剃って体を洗わなければならない。居室へ戻り、夕方の点検。毎回、番号を馬鹿みたいにでかい声で言う奴がいて失笑。夕食後、テレビを見て21時に就寝。以上が一日の流れだ。土日祝は休みだ。土曜の午前に映画を観ることができる。


最初の二週間は行動訓練で、警備隊に回れ右や右へ習えの練習を延々とさせられる。これはまだいい。その後は行進の練習。これがきつい。

「出来るのか出来ないのかどっちなんだッ?」

「出来ません!!」

そう言って、懲罰房に連れていかれる奴が続出するぐらいだ。警察や自衛隊の学校より軍隊の訓練レベルだと思ってもらえれば想像はたやすいだろう。そう、ここでは刑務官たちが上官、俺たちは部下だ。上官の命令には絶対服従だ。足が筋肉痛だろうが障害持ちだろうが、「左、左、左右」の号令に合わせて、足を大きく上げて、手の指先を揃えて大きく振って延々と行進しなければならない。毎回汗だくになるし、息も切れる。

訓練以外の就労時間は、皆作業台について5cm四方の紙で鶴を折る。延々と何十匹も折り続けるので、さしづめ折り鶴工場だ。工場の正面中央にいる工場担当の職員、通称オヤジの目が常に光っているから、無断離席はもちろんのこと、わき見や交談をすると注意指導を受ける。

うちの今のオヤジはまだ優しい方だからいいが、酷いオヤジ、特にうちの副担当などは一度マークした奴は絶対に仕留める。マークされた奴はちょっと顔を上げただけで注意指導を受け、口ごたえしようものなら、担当抗弁であげられる。あげられた奴の行先は懲罰房だ。懲罰審査会にかけられた後、何日座るかが決まる。俺の場合は10日だった。そう、来た早々おれは新入工場のオヤジにマークされ、あげられ、懲罰を受けた。一日7時間食事以外は、扉の方を向いて、正座または安座をし続けるのを10日間だ。頻繁に見回りに来るから、手を抜けないのである。この場合は主に足だが。

懲罰が明けたところを、今の工場のオヤジに拾ってもらった。もうこの工場に来て二ヶ月。作業にも慣れた。等工も上がって報奨金も月700円になったことで、350円まで使えるので日用品も揃ってきた。ただ、下着はパンツ一枚1500円だし、運動靴はもっと高いから、それらは官物のままだ。おれも他の奴のようにカラフルなトランクスやボクサーを履きたいが、それは無理だ。俺はゼロ銭ではなくなったが、刑務所の中で困窮しているからだ。

一番困っていることは『類』に関することだ。類は、半年に一回上がるチャンスが来る、いわば階級みたいなものだ。今、俺は懲罰明けなので最低の5類で白バッジだ。月一回お菓子を食べられる3類まであと少なくとも一年。平静を装ってはいるが、毎月のお菓子の通達を皆が談笑しながら眺める中、その輪に入れない俺はいまにも気が狂いそうだった。あと2年もここにいるなんて耐えられない。だが監視カメラをかいくぐったり、どこかに仕込まれているGPSを無効化したりといった小説のようなことは、俺にはできない。

雑誌でも買えば気が紛れるかもしれないが、300円代で買える雑誌などない。せいぜいテレビをトイレの方に向けて、アイドルをおかずに自慰行為にふけるぐらいしかない。女芸人に切り替わった瞬間に達することが分かっているのに。その内に、女なら誰でもいい状態になり、自暴自棄になっていた。ストレスが体を蝕んでいき、遂には体調を崩しがちになった。


俺は今病棟で生活している。

何を食べても吐いてしまうのだ。『拒食症』だろうと刑務所に来る医者に言われた。固形物は無理だし、点滴も刑務所では不可能なので、ラコールというジュースよりももっと甘い、缶入りの栄養剤をもらって飲んでいる。これは色んな味があって飽きなくていい。俺はバナナ味とチョコ味が好きで、イチゴ味は嫌いなのだが、最初にもらったエンシュアよりは美味いので我慢している。

早く病棟から出て工場に戻りたいが、栄養剤ではフラフラで作業もままならないため、治るまでは病棟に居なければならないのだろう。困ったことに病棟ではテレビが見られない。官本も借りることができない。そして作業をしなくていい代わりに報奨金もない。つまり使える金もゼロ、俺は再びゼロ銭になったのだ。生きるのに必要なカロリーを摂取するだけで、あとは寝ているか横になっているかしかない。生活も、何もないゼロ生活だ。

結局丸三ヶ月間ゼロ生活は続いた。重湯から五分粥になって、今は普通の飯が食えるようになった。体重は20kgも落ちた。同衆たちやオヤジや工場、そして居室が懐かしく思えた。同衆からこっそりグラビアアイドルの切り抜きをもらって、見回りにバレないように飾ってあったものが剥がされて小机の上に置かれていた。いない間に総検が入ったのだろう。歯を見せる不自然な笑顔のアイドルが「おかえり」と言っているように思えた。


工場に戻ってすぐに更生保護施設から『受け入れ可』の通知がきた。まだ1年半もあるのに気が早いと思ったが、そうでもないらしい。初犯であるおれは4ピン、4分の1、つまり半年近いの仮釈放がもらえるだろうとのことだ。そうだとすれば、あと1年ということになる。折り返し地点まで来て、この生暖かい地獄の生活のゴールが見えた気がした。

そして、二回目のお盆休みが終わった直後に、オヤジから「本面な、来週までにこれを書いておけ」と紙を渡された。パロールというらしいその紙には、出所後どのようにして自立していくかを書かなければいけない、よってそれを考えなくてはならなかった。刑務所程度の仕事ならできるが、舎場に紙袋を作る仕事があるとは思えなかった。これまでロクに仕事もせずにブラブラしていた俺にできる仕事などあるのだろうか、分からなかったがパロールには『出てから探したい』と書いた。

二度目の運動会が終わって数日後、工場に金線が来た。制服に金色の線が入っている役職者は、手に赤いファイルを持っていた。

「本面だ」

いよいよ出所が近いことを、その知らせが告げていた。冬の訪れにはまだ少し早い暑いぐらいの日だった。


本面が終わった、それは仮釈放が決まったことを意味する。ただし、いつ出られるかは人によってまちまちだ。だからとにかく気が落ち着かなかった。毎週水曜日の朝になると「今週でアガリだろうか」とオヤジから声がかかるのを心待ちにしては、何もなく落胆して、工場で溜息をつくのだった。

結局、運動の時よく話をしていた衛生係の予想通り、声がかかったのは本面が終わって8週目だった。年末年始が絡んでくるこの時期は、10週目や12週目(なぜか偶数が多い)だと可能性が薄いため、8週目なら今年最後の仮釈放される組に入り、それを過ぎれば次は年明けになる。正月は全員にお菓子やコーヒーが出る他、カップ麺のそばやおせち風の折り詰め、餅ではなく白玉が入った汁粉や白米の飯などが振る舞われたり、年越しまで起きていることができたりするので、年越しを刑務所で過ごしてもいい、と思っていたが、同衆から「娑婆だと好きなお菓子や食べ物が好きなだけ食えるんだから、早いに越したことはないよ」と言われていた。だから年越し前に出られることになって良かった。ラーメンを食っている夢やタバコを吸っている夢を幾度となく見たが、ようやく夢が現実になる日が近づいてきた。


荷物を整理して、釈前房に行ったところ、各工場から俺を含めて10人が集められていた。このメンバーで二週間を共に過ごして、12月第三週に出所するのだ。釈前は開放区で、午前は掃除の後風呂、午後は教養ビデオや出所の心構えなどのビデオ視聴、夕方以降は集会室でテレビを見ながら談笑したり、独居に篭って方々に手紙を書いたり読書などをする、わりと自由な場所だった。皆が皆、出たら何を食べたい、帰りはどこに寄って帰るなど帰りのスケジュールを決めるのに余念がなかった。それが決まった後はテレビにK-POPの子や女優が映ると

「どの子がいい」

「好みが被ってるから一緒にキャバクラ行けねえ」

「おれはおっぱいさえあれば誰でもいい」

などと懲役病を発動させていた。刑務所に来て初めて楽しいと思う二週間だった。同じ釜の飯を食った仲間であり、同じ地獄から共に抜け出すチームだった。何人かと禁止されている連絡先の交換をした。雑記帳に姓と名を分けて書き、連絡先は企業に偽装したところバレなかった。バレて消させられていた方が幸せだったということをこの時はまだ知らずにいた。


そして出所する水曜日の朝が来た。皆よく眠れなかったようで、4時には皆支度を完了させていた。朝飯は全員が食べなかった。

「これから食べたいものを食べるのに、なぜ米麦飯と納豆を食べなければならないのか」

と誰かが言い出したからだ。

持って出る物と捨てていく物、返却する物の整理は終わっていたので、帰住旅費と報奨金の精算をした後に、JRの半券、冬物の服を貰った。俺は春に捕まったため、冬に出所するのを見かねてのことだろう。

最後は仮釈放式だ。仮釈放を認める旨が書かれた紙と、仮釈放中の遵守事項がかかれた紙、保護観察所と保護会の地図をもらい、バスで駅まで送ってもらった。

駅前のコンビニでタバコとライターを買って一服したら、久しぶりのニコチンで脳が驚いてクラクラときた。他の者がコーヒーや甘いものを買っていたので、俺もそれに倣ってホットコーヒーとシュークリームを買って食べた。それを買ってもまだ財布の中には4万円弱入っていた。誰かが

「寿司でも食いに行くか」

と言ったが、俺は断った。

久しぶりのニコチンとカフェインのせいか、それとも体力が落ちているせいか、とにかく吐き気がして何も喉を通らない、と感じたのだ。

霞ヶ関の保護観察所へ行き、監察官と今後について話した後、保護会へ向かう途中フラフラになった。空腹もおぼえたのでコンビニに入ったが、どれも食べる気になれず結局納豆巻き1本と麦茶だけ買って、コンビニの前で食べた。

今にして思えば、刑務所はほぼ自動的に飯が出てくる。辛いことや悲しいことも、刑務所にはほとんどない。天国だったのだ。本当の地獄は俺が今いるこの街、この世界の方だ。地獄の沙汰が金次第なのも、困窮している人がいるのも、理不尽な死を迎える人がいるのも、争いが常に絶えないのも、全部ここが地獄だからだ。 これからまた地獄での生活が始まるのだ。


押上の保護会に着いた。保護会というのは社会で自立した生活を送る準備をする所だそうだ。俺の場合は半年間ここを出ることができない。なぜなら、まずガラウケ(身元引受人、保証人とは異なる)がいない。以前住んでいたアパートもすでに別の人が住んでいるため、住む場所も家財もない。生活保護を受けようにも、まだ刑は終わっていないから受けられない。だから仮釈放の間に仕事を見つけ、金を貯めて一人暮らしができるようにする。その間の寝食を保証してくれる場所が保護会だ。

しかし中にはもう一人暮らしをする金を十分持っている者もいるし、はなから出たらすぐ生活保護を申請して一人暮らしをするつもりの者もいる。また会内では飲酒は禁止と聞いていたが、毎晩のように酒を飲んでいる者もいる。もちろん真面目に働いている者もいるし、何もしていない者もいる。俺は最後にあてはまる。担当の保護司からは「ハローワークに行って仕事を探しなさい」と毎日のように言われている。

ハローワークといっても、普通の失職者が行く場所とは異なる。俺が行くのは、俺に前科があることを承知の上で雇ってくれる協力雇用主の案件をあずかっている特別な部署だ。その部署の担当から

「このお仕事をしてみませんか」

と最初に言われたのは土木工事の会社、つまりは土工だった。面接に行くと仕事や待遇のことは一切話さず、犯罪歴についてばかり聞かれたので、頭にきた俺は

「この話はなかったことにしてください」

と断り、席を立って会社をあとにした。

次に面接に行ったのはラブホテルの清掃だった。ここは質問が体力に自信があるかだけだったので気に入り、内定をもらった。保護会の担当からは、お祝いの品としてカップ麺をもらった。

そこでの仕事は、風呂の掃除、タオルとガウンの交換、ベッドメイク、アメニティと飲料の補充、ゴミを集めて分別して捨てる、と一通り習ったが、俺は風呂の掃除を任された。しかし一週間ほど働いて手と足の裏が荒れ出して、やがてあかぎれになって、手足の痛みで寝返りをうつと痛みで目覚めるようになった。たかがあかぎれと思うかもしれないが、風呂の掃除を続けていれば悪くなることはあれ、良くなることはない。俺はユニフォームであるTシャツを返却し、仕事を辞めることにした。

そして収入が0になり、持ってきた金も底を尽き、俺は再びゼロ銭になった。とはいえ保護会にいる間は寝食には困らない。ここから出たら生活保護を受けようと思っている。担当からはしきりに次の仕事を探すよう、毎日のようにせっつかれているが、色々理由をつけて誤魔化すようになった。


保護会の担当保護司が真面目な人間のためか、俺が逮捕される前のアパート(そのままになっていた)に住みたいと希望したからか、捕まっていて滞納した家賃を納めなければならないことになった。逮捕前にも二ヶ月滞納していたため、その金額は合計ちょうど100万円だ。俺はゼロどころかマイナスを抱えることになった。しかも生活保護で借金を返すことは認められていない。俺はこの借金をあと5ヶ月の間に完済しなければならなくなったのだ。ひと月20万……無理だ。刑務所にいた若い奴の言葉を借りると「それ無理ゲーっしょ」だろうか。俺は借金からバックレることにした。アパートから必要な物だけを持ってきて、大家から電話が来ても全て無視した。

保護会を満期による円満退所した俺は、刑務所をいっしょに出た仲間の内で一番近所にいる男に相談してみた。男は会社をいくつも持っていたから、そのどこかで雇ってくれ、その寮に住まわせてくれると言った。が、デリヘルの店長は経験がないから無理だ。運転手ならできるが、人手が足りているとのこと。土工も無理。清掃も無理。結局男の元で、不用品の回収を行うことになった。

今日は墨田区の家庭、明日は千代田区のオフィスと、色々な場所を指示されて翌朝に軽トラで向かい、そこで『金属製品や電化製品その他金に変えられる物』を回収してくるのだ。ちなみに俺は古物商の資格も産廃業の免許も持っていない。金属以外は別料金で引き取って、夜中に河川敷や山の中に投棄する。回収は俺一人で行く。回収した物を金に変えるのも、投棄するのも俺一人でやる。男は行く場所の指示と、あがりの回収、それと営業もやっているらしい。

あがりの金額が確定したら、いなげやの駐車場で合流し、男にあがりと金額を証明する明細を渡す。男は俺に毎回5000円をくれる。あがりが50000円を超えた時は10000円くれることもある。そして俺は軽トラで寮へと帰路に着くのだ。

この仕事が割に合わないだけでなく搾取されていること、違法であることには薄々気づいてはいた。男は「この商売で捕まったことは一度もないから大丈夫だ」と言った。心配が別の形で現実となったのはふた月過ぎた頃だった。

軽トラのボディをガードレールでこすってしまい、黒い擦り傷ができて、フロント右のウインカーを破損してしまったのだ。男は烈火のごとく怒った。「弁償しろ!できないなら給料から引く」と言われ不承不承ながらもその提案を受け入れた。働いても給料は0。もう0銭は嫌だ。男は「オレからバックレようとしても、ヤクザにも警察にもツテがあるからムリだぞ」と脅してきた。男への借金は知らぬ間に100万円以上になっていた。男は「金がないなら親か兄弟からひっぱってこい」とヤクザ紛いのことを言ってきた。兄弟がなく、親も他界していたので、男の提案で『ソフト闇金から金を借りてバックレる』ことにした。

何度となく繰り返している内に、お触れでもまわったのか、「お前詐欺師登録されてるから、もうどこからも借りれないぞ」と闇金業者に言われ、二進も三進も行かない状況になった。俺は男からもバックレる決意をした。逃げるなら夜中、つまりは夜逃げだ。見つかるわけにはいかない。

俺はSUICAにたまたま入っていた金でできるだけ遠くへ、そしてできるだけ見つかりにくい場所へと逃げた。逃げた先は、俺のような奴がいても不自然ではない街、新宿だった。


新宿駅に着いた俺は、地下空間をさまよい歩いた。逃げてきたのはいいが、見つかる可能性がゼロの代わりに、当てもゼロ、目的もゼロ、持ち物もゼロ、あるのは今着ている服と生命だけだ。植物と同じだ。いっそ木になれたらどんなに幸せだろう。

そんなことを考えている内に、道に迷ってしまった。仕方がないので、迷路のような地下から碁盤の目になっている地上へと出た。煌々と明るい地下と違って、地上は日が暮れかかってうす暗くなっていた。どこへ行けばよいのか。土地勘もなく、乱立する高層ビルを見上げながら途方に暮れた。

ふと頭に、俺のようにあちこち歩き回ることを西行というと、刑務所の同衆から聞いたことが思い浮かんだ。ナポレオンもヒトラーも東に攻め入って命を断つはめになった。西だ。西を目指そう。

西にしばらく歩くと高いビルに囲まれた広大な公園に出た。空はすでに星が出ているはずだが、霞がかかっているようで見えない。今日はこの公園で野宿だ、そう思ったが、あまりの寒さに歯の根が合わない。

結局そこでずっと空を眺めていた。漆黒に白のレースのカーテンをかけたような新宿の空は、濃紺から白とオレンジに変わり、うすい水色になっていった。なぜだか知らないが、自由であることを実感した。何をするのも自由。どうせゼロなのだから、犯罪と借金(貸してくれる人がいるとは思えないが)以外は全てプラスになるはずだ。刑務所で見たテレビの中のアイドルが『この空がトリガー』と歌っていたが、まさに晴天の霹靂だった。気付きだった。

人々が動き出す頃、俺もまた何かを探して歩き始めた。


始めに『おれは今ゼロせんで戦っている』と言ったが、訂正する。生活に必要な最低限の収入は得ている。足るを知った俺は多くを望まない。生きて、そしてほんの少しだけ誰かの役に立っていればそれでよいのだ。

あの日公園を出た俺は、たくさんの人の列を都庁前で見かけた。何の列か尋ねると、困窮者に食料を配布していて、それを貰うための列だという。渡りに船とばかりに俺も列に並んだ。貰った食料は、トマト1個、きゅうり3本、梅干し2個、手作りと思われるパン2個、乾パン1個、それとアルファ米3つだった。

食料を貰った後、相談会が行われると聞き、そこにも並んだ。相談にのってくれた女性から、今日明日どこかに泊まって月曜に役所で生活保護の申請をするようにとのアドバイスと現金5000円を貰った。区役所まで行き、どこか2500円で泊まれるところはないか探したところ、24時間開いている銭湯がちょうど一泊2500円だった。そこで貰った食料を食べて二日を過ごし、月曜の朝に福祉事務所で生活保護申請をした。

住むところは四丁目にある簡易宿泊所。保護費が出るまで二週間かかるので、一週間一万円、計二万円を前借りした。初めの一週間はミイラのように眠り続けた。次の一週間はひたすら食べた。そうして二週間が経ち、家賃を引いた保護費10万円を得た。


あの時の女性に5000円を返そうと、次の土曜日に都庁へと向かったが、メガネの男性から、くだんの女性はボランティアで今日は来ていないと言われた。では男性に渡そうと思ったが

「その5000円はあなたの新しい門出に送られたものです。もしその5000円を誰かに渡したいのなら、困っている人にあげてください。」と受け取らなかった。ではせめて手伝いをと申し出たところ、快く了承を得て俺はボランティアスタッフになった。その後、俺はボランティアをやりつつ、経験談を語りに全国を回っている。


ゼロになったらどうすればいいのか。どのセーフティネットに頼ればいいのか。法律や借金の相談はどこにすればいいのか。時には個別にアドバイスをすることもある。

俺は思う。ゼロであることは恥ずかしいことじゃない。余計な欲と変なプライドさえ持たなければ、ゼロは必ずプラスへと向かう。


ゼロこそが全ての始まりなのだと。

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