8.御狩(みかり)の行幸(みゆき)
「たがが庶民の娘、と高を括っていたが、この宮中に2人めの死者が出た」
帝(天皇)がそう話を切り出した時、掌侍中臣のふさこは、ああ、やっぱりこの話題か、と納得した。
帝(天皇)が幼少の頃は、教育係として誰よりも長く皇子と時を過ごし、皇子も母の如く自分を慕ってくれていた。
しかしながら皇子が成長し、自分が教育係として役不足になると、途端に皇子は疎遠になり、皇位についてからはますます会う機会が減ってしまった。今では余程のことが無い限り、帝にお目にかかることはない。
それが今朝、唐突に帝から直々に相談がある、との連絡があったのだ。いまさら和歌を教えてくれ、的な平和な話ではないことは容易に予想できた。
「恐れながら申し上げます。車持皇子は賢い方です。あの方に限っては、万が一ということは無いものと邪推致します」
そう言いながら、掌侍は正座したまま頭を下げた。
「ねえ、ふさこさん」
声が近かった。驚いて掌侍が頭を上げると、帝が身を乗り出し、顔を近づけてきていた。
「ここには今、ふさこさんと僕しかいない。敬語は止めてくれないかな? 大好きなふさこさんに敬語を使われると、距離を置かれているようで、悲しいよ」
掌侍はどうしようかと一瞬迷ったが、言いたいことをはっきり言うことにした。
「ちょっと会わない間に女の扱いは上手くなりましたね。元教育係としては、嬉しいような悲しいような複雑な気持ちです。ご用件は要するに、わたしくにかぐや姫なる娘に会ってこい、実際に会ってみてどの程度の子か評価を聞かせろ、ですよね?」
「さすが、ふさこさん。話が早い」
そう言いながら帝が更に顔を近づけてきたので掌侍は帝の額を押し、顔を遠ざけた。
「久々に会ったのに、冷たいなぁ」
「こんなお婆ちゃん相手に何がしたいんだか。 ……でも所詮は庶民の娘、しかも捨て子のようですし、おそらく噂に盛大な尾ひれがついているだけで、実際は大したことはないと思いますよ」
「僕もそう思ってる。だからこそ、人を見る目に秀でたふさこさんに値定めしてきて欲しいんだ」
「もう……わたくし以外の人に、女性を値定めする、なんて下品な言葉を使っちゃだめですよ。帝の品位に関わります」
「は~い」
帝の返事に掌侍は苦笑した。久々に会った帝は、男前は大幅に増したものの、中身は子供の頃のままの悪戯小僧であった。あるいは自分だから甘えているのか?
とにかく帝の期待にしっかり応えよう、と掌侍は意を決し、御所を後にした。
***
掌侍が竹取翁宅の玄関で「帝の使いで参りました」と告げると、嫗(翁の妻)は土間に降りて膝を付き、頭を土に着くほど下げた。掌侍は慌てて止めさせた。
「わたくしは単なる召使ですので……」
嫗は顔を上げた。
「本日は、宮中でいろいろと問題になっていますかぐや姫なる者との面談を帝から直々(じきじき)に仰せつかりましてお邪魔しました。会わせて頂けますね?」
掌侍がそう要件を伝えると、
「はい。少々お待ちください」
嫗は慌てて家の奥に駆け込んだ。
しばらくして、家の奥から可愛いくてよく通る、しかし興奮して上ずった声が聞こえてきた。
「お母さんだって、あたしがもう身分の高い方とは関わりたくないって知ってるでしょ? 何で断ってくれないの?」
「何て畏れ多いことを! 帝のお使いですよ?」
嫗も興奮して声が大きくなっていた。
まさか自分の面会を庶民の、しかも小娘ごときが断るなど夢想だにしなかった掌侍は、あまりの屈辱に、つい大きな声を出してしまった。
「かぐや姫さん! わたくしの面会は帝の指示です。国王の仰せを、この国の住民なら承諾しない訳にはいかないのです。わたくしも、そしてあなたもそれは一緒です。聞き分けのないことを言いなさいますな」
そう言ってから掌侍は、自分が帝の期待に応えたいばかりについ虎の威を借りてしまったことに気が付き、自分の言葉を恥じた。しかしかぐや姫の返答は、更に驚くべきものだった。
「それならあたしは国王の仰せに背く悪党です。いかなる極刑でもお受けします」
掌侍はその言葉を聞きながら、帝にどう報告したものか頭をひねっていた。
***
「その強情さが諸問題を引き起こした訳だ」
掌侍の報告に、帝はそんな感想を漏らした。
「わたしもそう思います。ただその後、竹取の隣人をリサーチして回ったのですが、地元ではかぐや姫は不思議と、とても評判が良いのです」
掌侍は報告を加えた。
***
翁は朝廷から呼び出しを受けた時、嫌な予感しかしなかった。なにしろ翁の家が原因で朝廷のトップから2名もの死者を出しているのだ。先日も帝の使者を失礼にあしらったと嫗から聞いている。
それが……現在、朝廷の中枢である御所の、奥の奥の部屋へと案内されているのだ。翁は生きた心地がしなかった。
一番奥の部屋で翁を待っていたのは、まさかの帝本人であった。翁は膝を揃え、深く頭を下げた。
「讃岐造麻呂、皆からは竹取の翁と呼ばれているつまらない百姓でございます」
翁は頭を下げたまま、事前に案内人に教えられた通りの自己紹介をした。
「面を上げろ、造麻呂」
威厳に満ちた、しかし若い張りのある声が降って来た。
翁が顔を上げると、気品に満ちた青年が優しそうな笑顔を湛えて上座に座っていた。
翁は想像していた帝とあまりに姿形が違ったこともあり、しばらくその整った美しさにボーッと見とれてしまった。
「実はそなたに冠(5位の位)を授けようと考えている」(※30)
一瞬、翁は帝が何を言っているのか、理解できなかった。なにしろド平民の翁を貴族に、それもそこそこ身分の高い貴族に取り立ててやろうというのである。罰を下されるどころの恐怖ではなかった。
「受けてくれるな?」
広い接見の間には、帝と翁を取り囲むように多数の家臣が並んでいた。家臣達の翁に対する見下した表情から、この飛び級の立身出世話があまり良い話でないことは明らかであった。
――その代わり、かぐや姫を差し出せ、ということだろう。
翁は自問自答した。
こんな話を受けてしまえば、かぐや姫を死ぬほど苦しめることになる。しかし、断ることなどできるのか?
仮にも相手は国王、国のトップである。その提案が、虫けらにも等しい平民に否決されたとなれば、威信に係わる。同時に、冠が喉から手が出るほど欲しい下級貴族達も侮辱したことになる。とても生きては帰れまい。
――要するに、かぐや姫と自分の命の二者択一か。
で、あれば……
「申し訳ございません。私などとてもとてもそのような器ではございません」
翁がそう言うと、家臣達がざわついた。
「ほう、面白い。僕の提示を否定するのか」
帝の声は、より冷淡になっていた。おそらく怒りを隠しているせいであろう。
「否定なんてそんなつもりは……最近私どもは、陛下のおかげで耕地を広げ、何人かの人も雇い、十分裕福な暮らしをしております。この暮らしを続けたいだけなのです」
そう答えで翁は再び深く頭を下げた。もうこれで二度と家には帰れないのだと思うと、翁は少し涙が出てきた。
と。
軽い足音が正面から真っ直ぐ翁に近づいてきた。
――まさか、この場で私を切り捨てるつもりか?
全身に冷たい汗が噴き出て、心臓が胸が痛くなるほど暴れた。
しかし体は言うことを聞かず、指一本自分の意志で動かすことはできなかった。
「……」
翁の手を、すこし冷たい手が優しく覆った。
「造麻呂。あなたを試して悪かった」
同じ帝の声とは思えない、優しい声であった。
恐る恐る翁が顔を上げると、帝は少年のような人懐っこい笑顔で翁を見ていた。帝の両手は、翁の両手をぎゅっと握りしめていた。
「かぐや姫があなたを選んだ理由が解りました。あなたは優しくて勇敢で、頭の良い人だ」
「い、いえ、あの子は……」
「捨て子だったんですよね? でもたぶんあなたに拾われるよう、彼女が仕組んだんだと思いますよ」
地獄に仏、とは良く言ったものだ。
この人は、なにもかもお見通しなのだ。
翁には、帝が光にしか見えなかった。
これが独裁者の力か、と思うと翁は肩から力が抜けていくのを感じた。
「また会ってくれますか?」
帝が言った。
「はい」
翁は自分が心から素直にそう答えていることに驚いた。
「今日は緊張してお疲れでしょう。お気を付けてお帰りください。これはささやかですが、心ばかりの手土産です」
女官が持ってこさせた包を受け取ると、帝はそれを翁に手渡した。
これで帰れるのか? お咎めも一切なく? 大層なお土産までもらって?
翁は戸惑ったが、実際これ以上の話はないようであった。
帝が上座に座り直すと、翁は退席の意を告げその場から立ちあがった。
翁が謁見の間を出るとき、背後から帝の声が降って来た。
「あ、そうだ。僕は近々あなたの家の傍に狩りに行く予定なのですが、あなたの家で休憩させてもらってよいですか?」
翁はこの一言で全てを悟った。
今日、帝が自分を呼び出したのは、この一言を言うためであったのだ。自分は最初から、この人たらしの掌の上で踊らされていたのだ。 ――と。
翁が回答を躊躇していると、帝が脅しを被せてきた。
「そういえば全然関係ない話ですが、最近宮中で死亡事故がありまして――ご存じですか?」
これ以上立場が悪くなる前に回答しないと、と焦ると、喉元で抑えていた言葉が噴出してしまった。
「かぐや姫と恋愛沙汰を起こさない、一目見るだけ、と、お約束頂けますか?」
翁は目の前が真っ暗になった。
せっかく生きて帰れそうだったのに、私は何を言ってしまったのだろう……。
「さすが、選ばれた方だ。あなたの勇気に敬意を表します。約束しましょう」
帝は嬉しそうにそう答えた。
この人の恐ろしさはよく解った。もうこうなったら、開き直るしかない。
翁は覚悟を決めて、次の言葉を口にした。
「ではなるべく少人数でさりげなくお越しください。娘も私の友人にお茶出しぐらいはしますので」
帝がふっと笑みをこぼした。
「僕はあなたの友人になれて光栄です」
帝にそう言われて翁は、一国の主を平民ごときが「友人」と呼んでいたことに気づき、再び血の気が引いた。
※30 1位~4位は親王で、5位は外臣の一番上の位。その下に6位、
7位、8位、大初位、少初位がある……ようです。詳しくは
「大宝令」「位階制」でネット検索してみてください。
***
御狩の後、帝は、付き人を待たせて一人で竹取の宅に立ち寄った。
手土産として今日狩った兎を翁に手渡すと、ではさっそく家の者に調理させましょう、と翁がそれを持って家の奥に下がっていったため、帝は1人で客間に残された。
「失礼します」
妙齢の女性が料理を持って入ってきた。翁の妻であろうか。
「家の裏で穫れた山菜です。つまらない庶民の食べ物ですが、よろしければおつまみください」
そう言って女性が配膳を始めたが、帝は女性の後ろから入ってきた少女に目を奪われ、女性の声は耳に入らなかった。
少女……と呼んで良いのだろうか、大人の女性として花開く直前の、何か清楚なその存在は、姿を見せただけで部屋全体が光に満ちた。帝は自分の仮面が砕け散るのを感じた。
妙齢の女性に引き続き、少女が部屋を去ろうと会釈をした時、帝は自分でも信じられないことに、少女の袖をがっちり掴んでいた。
僕は何やってんだ? これではセクハラ親爺ではないか。
理性では、直ぐにでも手を離さなければならないと解っていた。
見知らぬ男に急に袖を掴まれた少女は気味悪がり、悲鳴を上げるであろう。少なくともその前に手を離さなければ……
そうは考えたものの、心は全く理性の言うことを聞かなかった。
何か光るもの、妖精のようなものが目のを通り過ぎた。今この瞬間捕まえないと二度と出会えない、奇跡の瞬間だ――心はそう言っていた。
もうダメだ。これで僕はすっかり嫌われた。
帝は絶望した。
そのとき不意に、帝は最後の手段を思いついた。自らのプライドを犠牲にすれば、決定的には嫌われないで済むかもしれない。
「行かないで……」
小さな声で帝が言った。
すると、クスッという小さな笑い声が聞こえた。
驚いて帝が顔を上げると、かぐや姫はすこし怒ったような表情を見せた。
「あの父をコロッと手なずけた方が、今日はどんな手腕を見せてくれるのだろうとちょっと楽しみにしてたんですよ。まさかの泣き落としですか?」
帝は慌ててかぐや姫の袖を手放した。
「ち、違う…… いや、違わないのか? これはその…… 魔力? 魅力? あ、いや…… 僕は何を言ってる? すまない……」
帝がしどろもどろになると、かぐや姫はこらえきれずにクスクス笑いだした。
「陛下はいい方ですね」
陛下、と呼ばれて帝は驚いた。
「知ってたのか? 僕の正体を」
平民より若干みすぼらしい服を着て、顔も手足も狩りで真っ黒、外観からは国王だと思える点は一切無い筈だった。
「すみません、父が嘘がつけない人間で。あの日、あれだけ落ち込んで御所へ出頭した父が上機嫌で帰ってきましたので、父は陛下に口説き落とされたんだろうな、陛下が近々こちらへみえるんだろうな、と思ってiいました。歓迎の準備が間に合って良かったです。
今日、陛下は父の友人という設定だったんですよね? でも、普段、父の友人は皆様父の同年代の方々ばかりなんですよ」
帝は赤面した。こんな道化師を演じさせられたのは生まれて初めてであった。ましてやこんな少女の掌の上で。
「実は本日ここに来る条件としてそなたの父と交わした約束があるのだが、守れる自信がなくなってきた。いや、どんな約束かは言えないが……」
帝がそう言うと、かぐや姫は唇を尖らせた。
「お父さんが国王相手に交渉!? 意外! へえ~」
「あなたの父は、たぶんあなたが思っているより優秀な方ですよ」
帝が翁の肩を持つと、かぐや姫は微笑んだ。
「ありがとうございます。あたしからも一つ、プレゼンさせて頂いていいですか?」
帝軽く頷き、かぐや姫を見つめると、かぐや姫の姿が不意に霞んだ。帝は目を丸くした。
「これで父との約束を守れますよね? あたしは人間ではありません。陛下も人ではないもの……例えばメス狼を娶ったりはしませんものね?」
どこからともなくかぐや姫の声がした。
帝はポカンと口を開けたままであったが、しばらくして口を閉じた。
「……解かりました。もう大丈夫ですので元の姿にお戻りください。僕は少しでも長く、あなたの姿を見ていたい」
帝がそう言っても、かぐや姫はどこかに消えたままであった。
「なるほど、陛下はいつもそうやって女の人を口説いているんですね?」
笑いながらそう言うかぐや姫の声がどこからか聞こえてきた。
***
翁が客間に戻ってくると、あれほど男性を嫌がっていたかぐや姫が帝と談笑していたので、翁は仰天した。
かぐや姫に言われて、翁は坂の下で帝を待っていた付き人達も招き、盛大に歓迎した。
***
竹取翁宅からの帰り道、帝はかぐや姫に宛てて歌を書いた。
帰るさの行幸物憂くおほもえて
背きてとまるかぐや姫ゆゑ(※31)
これに対するかぐや姫の返歌は次のようなものであった。
葎はふ下にも年は経ぬる身の
なにかは玉の台をも見む(※32)
※31 「背きてとまる」が、帝が振り返って立ち止まる、の意味と、
かぐや姫が勅命に背いて翁宅にとどまる、の意味を兼ねる。
全体の意味は……いいですよね。ベタベタのラブソングです。
※32 「雑草の生い茂る賤しい家で年月を過ごしてきたわたしが、
華やかな御殿に住んだりはしません」
***
用事があり御所に来所していた掌侍中臣のふさこは、たまたますれ違った帝が、どこか遠くを見てボンヤリしていたので、発破をかけることした。
「一国の主が、しっかりなさい。あの女ったらしはどこに行っちゃったんですか?」
「あ? ああ」
帝の返事はどこか気の抜けたものだった。
「お后達もあなたのお越しをお待ちかねですよ。最近は全然お渡りになってないそうじゃないですか」
「ああ」
あまりに反応が無いので、ふさこはつい嫌味を口にしてしまった。
「もしかして、あの平民の小娘がそんなに良かったんですか?」
「うん」
ふさこはため息をついた。