桜色の約束
僕がその埃にまみれた手紙を見つけたのは、蒸し暑い夜のことだった。
自室の押し入れの底、大切そうに保管されていたそれには、全くもって覚えがない。
「なんだろ」
見つけたから、ただ手に取った。
行動としては当たり前というか、自然なことだと思う。
その行動の意味といえば、興味本位にすら届かないくらい無意識に行われたもので。
だからその古ぼけた手紙に書いてあった『ずっと待ってる』の意味も、引き起こされた割れるような頭痛の理由も、なにもかも分からなかった。
■
「解離性健忘です」
と診断された時には、正直理解が追いつかなかった。
ランドセルを背負いながら帰宅して、ご飯を食べて、宿題をやって、夜の九時頃に眠りについて、目が覚めたら十九歳になっていた――それが、あの朝の僕だ。
――解離性健忘。
強い心的ショックから引き起こされる記憶障害で、簡単に言うと記憶喪失らしい。
僕は、九歳から十八歳までの記憶がない。
正確に言うと、一時的に失ってしまった。
そんな僕は今、二年間のリハビリを経て、それから周りの人たちの助力もあり、少しずつ記憶を取り戻している。
あの頃通った通学路、高校時代に仲のよかった友達、家族で遊んだテーマパーク。
記憶の欠片を辿るように巡っていくと、少しずつ元あった場所に収まっていった。
全てを思い出したわけではないけど、多くを拾い上げることができて、今ではある程度普通の生活を送っている。
そして最後に、あの日の僕の話を聞いた。
大学に向かう途中、朝の駅のホームだったという。
凄惨な事故現場に遭遇した僕は、その日から十年間の記憶を失った。
「立ち直ってくれて、よかった……」
涙を流す母の姿は、記憶よりも深くシワが刻まれていて。
たくさん心配をかけたぶん、これからは人並み以上にしっかりしないといけないと心に刻んで、大学に復学した。
「そういえば、この手紙知らない?」
それを見つけた次の日、僕よりも僕に詳しい両親に心当たりを尋ねると、母は怪訝そうに口を開く。
「手紙……? ううん、知らないわ。それ、一樹の部屋にあったの?」
「そうなんだよね。でも、そっか、知らないか。僕への手紙、なのかな――」
何の気なしにそれを開くと、やはり目に入るのは『ずっと待ってる』の七文字。
そして――、
「――樹! 一樹――!」
鋭い針に何度も刺されるような頭痛の中で、空に零れる一面の桜色がまぶたの裏側に描かれる。
そして、凛とした鈴の音が『また、一緒に見ようね』と鳴ったことを聞き届け、僕の意識は沈んでいった。
■
僕の脳みそは誤作動を起こしがちらしく、件の頭痛も後遺症的なエラーということで話がついてからのこと。
あの手紙は読むたびに毎回倒れるので、両親に禁じられてしまった。
まぁ、当然だ。毎度病院に運ばれていたら母の精神も持たないし、迷惑だってかけ続けてしまう。
それは、本意ではない。
それでも、手紙が没収されるまでの数回で、いくつかの収穫もあった。
まず、あれは間違いなく僕の記憶だということ。
根拠と呼べるものは乏しいが、感覚的なものだ。
借り物ではなく、ずっと僕の内に眠り続けている大事な記憶。なぜだか、そう思えた。
そして、景色。
ぼんやりと、だけど強く浮かぶのは、首が痛くなるほどに大きな一本桜だった。
空に向かって伸び、花風を吹かせる、美しい桜の木。
忘れてはいけない記憶だと、鍵のかかった思い出が叫んでいる。
最後に、あの手紙を書いたであろう女の子だ。
顔は薄ぼんやりとしか浮かばずとも、その声は日に日に鮮明になっていった。
口調は落ち着いていて、子どもっぽく、だけど声色には儚さが孕んでいる、そんな鈴の音だ。
とはいえ、それだけの情報で探し当てるのは困難を極める。
今までに見たどれよりも美しいあの景色を求めて、僕の行動範囲の隅から隅まで探してみても、手掛かりになるものは何も得られなかった。
血眼になって失われた記憶を求め続けるある日、僕を見兼ねた母に、玄関で呼び止められることになる。
「一樹……無理、しないでね。全部を取り戻さなくても……忘れても、いいのよ。人は、忘れることで前に進むものだから」
その言葉を聞いて、ハッとした。
意地になって過去に囚われる僕は、母にどう映っただろうか。
ここまで支え続けてくれた母には、前に進むところを見せるのがせめてもの恩返しであったはず。
だから僕は、大学にだってまた通い始めたというのに。
忘れたっていい。
大事なのは、歩み続けることだ。
そんなことはきっと、はじめから分かっていた。
魔法が解けたように、あるいは昂った心を急速に冷ますように、僕の視界はクリアになっていく。
そして僕は、落とさないよう必死に抱きかかえていた欠片を手放し、探すことをやめた。
記憶なんかよりも大切なものがある。
そう思えたきっかけは、やっぱり家族なのだ。
祖母の訃報が飛び込んできたのは、それから二年が経った三月のことだった。
■
「一樹はおばあちゃんっ子だったからねぇ……」
年季の入ったテーブルを囲う親戚のおじちゃんたちの話題は、次々に移っていく。
ほどよくお酒も入った彼らは思い出話に花を咲かせており、その中には僕の少年時代についても含まれる。
「はは……」
しかし記憶を零しすぎた僕は、残念ながらその中に入り込むことが難しく、上手く合わせることで精いっぱいだ。
僕の記憶については、家族を除いたら一部の友達にしか知らせていない。
これは当時の母の判断で、知人や親戚に爆弾級の不安と心配をむやみに植え付けないためと、僕のメンタルへの影響を考慮してのこと。
だからここにいる人のほとんどは、僕が失ったものをしらない。
なんとなく疎外感を覚え、頃合いを見て席を立とうとした時。
意識の外から入り込んだ誰かの大声で、僕は動きを止めた。
「そういや、今年も派手に咲いたなぁ!」
なんのことはない、きっと庭の花とか、道路脇のツツジとか、そんなありふれた日常の話だ。
きっとそのはずなのに、どうしてか、引っかかる。
「あの、咲いたって……?」
脳裏をよぎるのは、捨てたはずの執着だ。
必要ないと手放したはずの、いらないと切り捨てたはずの、薄い未練だ。
事実、その数年前の忘れ形見は、今日に至るまですっかり抜けていた。
今となっては思い返すこともなく、文字通り手放したはずだった。
なのに――だったらなぜ、鼓動は主張を始めたのか。
その正体を探るため、気付けば僕は話に割り込んでいた。
「そら、空丘の桜だべ」
「空、丘の……」
そんな心情を知ってか知らずか、この震える瞳に見据えられた酔っぱらいは、顔を赤くしてあっけらかんと答える。
「んだ。忘れちまったんか? そらでっけえ一本桜でよ、空まで突き破っちまうんじゃねーかって――」
「――――」
鼓動は、いっそう煩くなる。
走り出すのに、時間はいらなかった。
■
「そこの林を抜けたら、左に曲がって道なりにいけばすぐだべ」
それにしたがって歩く。
一歩踏み出すたびに、抑えきれない痛みが頭を支配し始める。
『――だよ』
声が鳴った。
林を抜けた。
『――くん、私ね』
声が鳴った。
視界が晴れた。
『――そっか。もう行くんだね』
声が鳴った。
目を瞑った。
『――また、きてね』
声が鳴った。
『――くん! 私――』
声が鳴った。
『約束だよ』
声が――。
「――――」
視界を固く閉ざすほどの頭痛はいつしか消えており、代わりに埋め尽くすのは、まるで桜色の宇宙を泳いでいるような浮遊感だった。
吹き抜ける花嵐は花弁とともに春の匂いを運び、隙間からは無数の光の粒が降る。
心を奪われるのも束の間、内から登ってくる感慨に、立ち尽くさずにはいられない。
今までに見たどんな景色よりも美しい一本桜が、そこにはあった。
そして――、
「――綺麗ですよね、桜って。でも、結構カンタンに散っちゃうんですよ。毎年、ずーっとこの時期を心待ちにしてるのに、すぐ終わっちゃう」
純白のニットに春色のロングスカートを纏った鈴の音が、桜の足元で転がされる。
その声はまるで渇いた心を満たす浄水のように、やけに心地よく胸の奥を打った。
空を突き破るように伸びる桜の木。
それを見上げる声の主は、背を向けたまま続ける。
「なんで散っちゃうの、桜のバカ! なんて。でも私、けっこう素直というか……あ、単細胞なんて言われたりもしましたけど。こうやって見上げてたら、綺麗だなって、それ以外の感情なんか忘れちゃうんです。だから毎年、楽しみでいられたのかな」
『ええ、単細胞? 私が? そ、そうなのかな……』
「それにしたって、この桜はちょっと立派すぎますけどね。もう、見上げすぎて首痛いし、これじゃ桜を眺めてるんだか空を眺めてるんだか分からないくらい」
『ねえ、いつかこの桜の木はさ、空に届くのかな?』
重なる。繋がっていく。
「空の境目って、どこにあるんでしょうね。宇宙は上空何キロメートルからとか、そういうのも決まってるらしいけど……空と桜の境目は、私には分からないなぁ」
『空の境目って、どこにあるのかな。この桜って、空に咲いてるのかな』
知っている。覚えている。
締め付ける甘い香りも、それを優しく解きほぐす鈴の声も。
未来への希望も、過去への愛しさも、あの日の花の色も、口ずさんだ歌も、胸を焦がす恋も、別れの苦しさも、夢を誓う儚さも、踏みしめる土の固さも、触れた手の温もりも、涙拭う横顔も、春の切なさも、知っている。
――春の日、この場所で、空に向かって交わした約束も、覚えている。
だから、言葉はすんなりと出てきた。
『たぶん、どれだけ伸ばしても手が届かない場所を、空って言うんだと思うよ」
ずっと何かを手繰り寄せるように紡がれていた言葉とともに、時が止まる。
やがて鈴の女性は、肩で綺麗に揃えられた髪から仄かな蜜の香りを振り撒いて、ゆっくりと振り向く。
「やっと会えたね」
無邪気な子どもみたいにほころばせた頬はあの日と同じように、桜色に彩られていた。