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The usual Eden. ── 大天使長といけずな仲間たち ──

scene.7 史上最凶と言わしめた男 前編

作者: 槙野 シオ

いつもより遅い時間に目覚め、飛び起きる必要もなくゆっくりできる朝を過ごすのはどれくらい振りだろう、と薄く目を開けたルフェルは一瞬で覚醒した。それからそうっと天井を見上げ、ぐるりと壁を見渡し、ここが自分の部屋であることを確認したあと、もう一度隣を見て昨夜のことを一所懸命思い出そうとした。


本省での会議のあと、総合情報局で定例の報告会、保健福祉省で予算会議が終わって、庭園の復旧具合を確かめ、秘密情報部内で打ち合わせをし、中級天使たちとの謁見では、さまざまな要望という名の要求に眉をひそめるのを堪え、熾天使長と智天使長と座天使長との上長会議では、不満の噴出具合に溜息が漏れそうになるのを堪え……


そのあと地上の諜報部員から進捗報告を受け、冥界(ハデス)魔界(フィンド)の状況報告を受け、ああ、少しフィンドの増員を考えねばならんな……魂を安売りする天使が多いことにも驚くが、受け入れ先の豊富さには閉口する……奈落(アビス)に堕天されるのも敵わんが、魔族に転身されるのも敵わん。状況報告を受けたあと、職員の名簿を確認して、確認して……確認……


眠くて堪らんかったことしか憶えとらんな……



「うぅ……ん……」


ルフェルの隣で寝返りを打ち、目を覚ましたのは樫の木の精霊、ドリュアスだった。木の精霊らしい緑色の髪をかき上げながら、気怠そうにからだを起こすと、両腕を持ち上げて伸びをする。百歩譲って天使ならわからんでもないが、という顔でルフェルはその様子を眺めていたが、ドリュアスはクスリと笑いながらルフェルの頬を(つつ)いた。


「おはよう大天使長、昨夜はよく眠れた?」

「……まあ」

「その前に、昨夜のこと憶えてる?」

「……いや」

「でしょうね」

「……なぜ樫の木の精霊(ドリュアス)が」

「あなた、雑食(・・)なのね」


……とは、つまり、そういうことなんだろうか。さすがにそれは自分でも節操がなさ過ぎるのでは、と思わんでもないが、この状況を考えるに節操がなさ過ぎるんだろうな。冷静に分析などしとる場合でもないんだが。しかし、清々しいまでに記憶がなさ過ぎて、まるで実感が湧かん。


「……責任、取ってね」



── 責 任 と は ?



そして間の悪いことに、こういう時に限って "()むを得ない事由" を抱えた訪問者が、部屋の中の事情など何ひとつ考慮することなく扉を叩く。この状況はさすがに自分でもどうかと思うが、客観的にもどうかと思われる自信がある。これが天使なら有無を言わさない序列はあるが、相手は精霊だ。


「大天使長、急ぎやさかい入るえ」


扉を開けたユリエルは、しばらく無言で部屋の様子を確かめていたが、ルフェルのそばまで来ると、書類を一枚ヒラリと見せた。ドリュアスは、ルフェルの翼ごと背中に覆いかぶさると「なになに?」と書類を覗き込み、その姿を見ながらユリエルは少々気まずい空気を感じていた。


「休んどるとこ堪忍な、ゆうてこれ見たらわからはるやろ」

「……この数字は? 桁が違うようだが」

「うちとこで取り寄せた原本や」

「あなたの瞳、とってもきれいな空色なのね」

「おおきに…て…あ、へえ…おおきに」

「原本の数字がなぜ動いてるんだ」

何者(なにもん)か操作しとるゆうことやろな」

「その髪の色も素敵ね、赤毛って貴重なのよ」

「おおきに……大天使長…堪忍、急ぎや」

「すまん執務室で待っててくれ、すぐ向かう」


ユリエルは、少々安心したような顔でドリュアスに「おやかまっさんどした」と告げると、ルフェルのほうへ顔を向け「あんたも体力あってよろしいなあ」と上がった口角をさらに上げて言い残し、部屋をあとにした。いまから執務室へ行こうという上長を行きづらくしてどうするのか、とルフェルは溜息を吐いた。


「大天使長、今日は遅いの?」

「わからんが……まさか待ってるつもりか?」

「当然じゃない、責任取ってもらわないと」


……だから、何の責任なんだ。


「あ、わたしリルハ」


樫の木の精霊(ドリュアス)はリルハと名乗り、屈託のない笑顔を見せた。それはそうと、精霊だから裸体(はだか)なのかそれとも見えない服でも着ているのか。そのままうろうろされても困るといえば困るんだが。



───



「堕天使の数が合わない?」

「原本見た通りや」


司法長官(ユリエル)の執務室で、ルフェルはもう一度原本を確かめた。以前調べた時はもっと多かったはずだ。それもひとりやふたりではなく、桁が違う。エデンで裁きを受けた堕天使の数は、管轄である司法省が間違いなく記録を付けている。それがなぜ、内務省から引き出した原本と数が合わないのか。その前に、なぜ原本が書き換わっているのか。


「考えられる可能性は ──」

「怪しいとこからゆうたら、内務省の中に何者(なにもん)かおるゆうとこやろな」

「次は司法省の中に数字を改ざんした者、か」

「ゆうても、内務省の管轄考えたら全省疑わしいやんか」

「確かに……安全保障省でさえ怪しくなるな」

「問題なんは、書類の上だけの話なんか、実際の数が動いてるんかっちゅうことや」

「実数が動くなんてことがあるのか?」

「ないとは言えへん、奈落(アビス)魔界(フィンド)はつうつうやさかい」

「堕天使の魂が……フィンドで売れるとは思えんが」

「そらそやろ、それやとフィンドに旨味があれへん」

「……人間、か」

「堕天使が人間の魂を手ぇに入れる。ほんで肉体をフィンドに ── 条件付きで譲る」

「アビスは差し引きゼロ、フィンドは肉体を手に入れ堕天使を引き受ける、か」

「原本の数字が本物やとしたら、辻褄は合うで」

「しかし、アビスも魂の数は増やしたいはずだろう」

「魔族が人間殺しに加担しとったら……どうや?」

「ちょっと待て、なぜ動いた原本の数字が "本物" なんてことになるんだ」

「あちらはんの内通者が裏切りよったゆうこともあるやろな」

「何のために……?」

「そこからは、あんたんとこの管轄とちゃいますやろか」

「乗り掛かった船だろう?」

「それ、あんたのセリフちゃうやんか……」



司法省で記録している堕天使の数。内務省から引き出した原本に記載されている堕天使の数。書類の改ざんをした者。その実数。実際にエデンからアビスに堕ちた数。アビスで増えた魂の数と減った数。魔界に増えた魔族の数。それ以外に己の意思により堕天した天使の数。


そして、減った人間の数 ──



───



「どこから手を付ければいいものやら」


諜報部の事務所で腕を組み考える大天使長に、近付く部員はいなかった。常に無表情であり、およそ顔に感情の出ることがない大天使長が、腕を組んでいる時は何かを、しかも難しいことを考えている証拠だ、と部員たちは心得ていた。


「大天使長 ──」


どこの勇者さまだよ、と部員たちが振り向くと、サリエルが足早にルフェルに近寄る姿が見え、部員たちは安心した。サリエルなら何があっても(こら)えてくれるということも、部員たちは心得ている。


「……ない、とは?」

「照会を掛けましたが、昨日の司法長官の分と、その前は六か月前の大天使長のものでした」

「その前は?」

「原本の取り寄せは、一年単位で履歴が削除されるため、ありませんでした」

「……一年以上前に取り寄せたものなど、使い物にならん、か」

「司法省での記録は一週間単位で行われているので」

「一か月もあれば内容は大きく変わるな」


原本を取り寄せた履歴がない、ということは外部の者は関与してないということか。取り寄せずに外部から改ざんする……あり得ん、内容がわからなければ改ざんのしようがない。では、内容のわかる者がいたとしたら……司法省の者が怪しいという話になるが、物理的に改ざんのしようがない。ふりだしか……


しかし魔界に魂を売るのは何も堕天使だけとは限らん。現に魂の安売りをするエデンの天使も……


「誰か、水晶の間に行ってくれ」

「かしこまりました、内容は」

「追放者と果ての森以外で、消えた天使の数が知りたい。とりあえず一か月分」

「承知しました」

「フィンドの連中に、ここ一か月で増えた魔族の数を確認してくれ」

「かしこまりました」

「人間の数と、地上の堕天使の数は……さすがにわからんな」

「億単位ですからね……」


アビスの堕天使がフィンドに身売り(・・・)するのは構わんが、そこにエデンの天使が絡んでいるのは些か問題があるだろう……しかも、人間の魂が絡むとなるとエデン全体の問題になる。しかし、ここ最近で突然動きが活発になるのも妙だな……


「地上の連中に当たってくれ」

「かしこまりました、情報は」

「何か、人間の様子に変わったことがないか、些細なことでもいい」

「承知しました」


どれかひとつでも、引っ掛かってくれるといいが。とりあえずこちらの情報を調べんことには次の段階に進めん。他に調べられるところは……



───



「お疲れさまでございます、大天使長さま」


ルフェルは "大勢が出入りする場所" として、まず診療所を訪れた。


「フィールだけか? エアリエルは」

「あ、処置室にいます」

「長くかかりそうか」

「どうでしょう……個体差がありますので」

「……個体差?」

「ここ一、二週間ほどの話ですが、薬の副作用を訴える方が増えてまして」

「副作用? 診療所で内服薬を出してるのか?」

「いえ、地上で購入されたもののようですが」

「地上で買ったもので副作用? 人間用の薬で? エデンの天使が?」

「……やはり、大天使長さまもそう思われますか」

「フィール、カルテを出してくれ」


この二週間で吐き気を訴え診療所に来た者が二十一名。受診したのが火曜と金曜の夜に集中している。割合としては男が七割といったところか。そして全員が中級三隊……主天使(ロード)力天使(デュナミ)能天使(エクス)。上級三隊の者より地上に降りる機会は確かに多いだろうが……


「お疲れさまです、大天使長さま」

「エアリエル、何を飲んで副作用が?」

「リコリスに含まれるアルカロイドです。おそらくリコリンによるものかと」

「……副作用ではないようだな」


エアリエルはテーブルの上に小さな包み紙を置き、患者から受け取った "薬" を分析したと言いながら溜息を吐いた。


鱗茎(きゅうこん)は生薬として使われるため……作為的と断定はできませんが」

「人間用の生薬が我々に効くとでも?」

「そう……ですね、エデンのリコリスに毒はありませんし」

「……ないのか?」

「え? はい、エデンのリコリスに毒はありません」

「これ、もらっていいか」

「はい、あ、誰かに飲ませたりしないでくださいね」

「……どういう意味だ」



───



諜報部の事務所に戻ると、ルフェルの机の上に二枚の書類が乗せてある。


……直近一か月で消えた天使が三百八十五名? 冗談じゃない、こんなに魂を叩き売ってるのか……揃いもそろって中級三隊ばかり、まるで狙ったように……いや、狙われてるのか……? フィンドで増えた転生魔族が約五百体。エデンの三百八十五名全員がフィンドに行ってたとしても、アビスから百名近くがフィンドに流れてることになる。


「大天使長、ご報告が」

「どうだ、地上で何か出たか」

「それが……あまりよい報告ではないのですが」


流行り廃りはありますが、地上の人間は定期的に "オカルト" にはまるようで、いま飛ぶように売れている本がありました。その……本の内容は悪魔の喚起の方法なのですが……どうやらこれに目を付けたアビスの堕天使たちが、喚起された振りを装い人間に近付いているようでして。


呼び出されたふりをして人間に近付くと、免疫のない人間はあっさりと "自分が喚起した悪魔" の存在を信じてしまい……呼び出した悪魔が "本物かどうか" などわかりませんから。そして人間に、使役するための言葉だと偽って "契約呪文" を唱えさせます。


「……それで魂がひとつ手に入る、と」

「食い物にされているのは……貧しい人間たちです」

「なるほど、藁にも縋りたい層を狙ってるわけか」

「それに乗じてフィンドの魔族も、人間界へと足を運んでいる状況でして」

「……司法省と安全保障省に連絡を、二名で来いと伝えてくれ」



すべてつながってると言っていいだろう ──



───


---------------

報告会 参加者 ( )内は攻撃手段


内務省:大天使長ルフェル(召喚剣)/諜報部長サリエル(邪視)

司法省:司法長官ユリエル(魔法)/法務部長ミシャ(応援)

安全保障省:大元帥アヴリル(暗殺)/大将カミーユ(奇襲)

---------------



「魂と肉体が手ぇに入りやすいさかい、アビスもフィンドも窓口広げよったんか」

「おそらく、お互いに手を組んで勢力拡大を狙ってるだろうな」

「でも、なんで中級三隊ばっかりなの? 相手が狙ってるとも思えないんだけど」

「一番不満を抱えてるのが、中級なんじゃないでしょうか」

「そやな、ゆうて上級なったらなんしか楽なことも出て来るさかい」

「地上との接触も、上級三隊より多いからな」

「それなら権天使(アルケー)大天使(アーク)のほうが、不満も機会も多いんじゃないの?」

「下級にまでなると、多分わきまえてるんだと思いますよ」

「上を目指すには遠いゆうことやろなあ」

「しかし……悪魔喚起があるなら、リコリスの意味がわからんな」

「その前に、さっきからサリエルさまと一緒に沈黙を守っている、この方は……?」


小会議室のテーブルに着く五名の視線が一斉に注がれ、黙ったまま座っている "この方" は、さらに委縮し(うつむ)いてしまった。洗いざらしのブロンドの髪は洒落っ気もなく、しかし本人の意思とは裏腹に整った顔立ちが、存在を主張する。


「ああ、きちんと挨拶はしてください」

「はい……安全保障省 防衛総局 大将 公安部 特殊部隊所属 カミーユです……よろしくお願いします」

「大変よくできました」



---------------

名前 カミーユ/Camille

性別 男/Male

称号 勇気/Fortitude

位階 熾天使/Seraph

階級 一級/The First

階層 上級三隊/First Sphere

役職 智天使長

所属 安全保障省 防衛総局/大将

   公安部 特殊部隊所属

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「まだこんな隠し玉持ってたのね……」

「隠してません、特殊部隊にいるのであまり表に出て来ないんです」

「でも……こんな大人しくてきれいな子で大丈夫なの?」

「ゆうても防衛総局の大将やで……大人しゅうしとって務まるわけあれへんやろ」

「あの、リコリスですが」


サリエルは「可能性として」と注釈を入れたあと、天使たちへの餌として薬を渡していたのではないか、という持論を述べた。何の薬と偽ったのかはわかりませんが、手に入れたいと思うものだったなら、エデンの天使がブローカーとして働いていたことも考えられます、と。


「なんや、それ事実やったらえらいえげつないことしよるな」

「中級天使が、中級天使を堕天させているということですか」

「しかし、吐き気を訴え診療所に駆け込んでるからな……下手すれば死んでる可能性も」

「あの……アルカロイドは……幻覚剤に、なります……」

「薬やのうて幻覚剤として、天使を(ヤク)漬けにしよったゆうことかいな」

「……エンセオジェンか」

「効かなかった者が吐き気をもよおしたのだとすると」

キマった(・・・・)方たちが隠れてるってことになるわよねえ」

「暗数を考えると、二十一名では利かないということでしょうね」

「しばらく泳がせてみるか……」

「そやな、あちらはんの大将もまだわかれへんし、こっちは(ヤク)の対策立てな」



── そういえば、今日休みじゃなかったか?



※ エンセオジェン / 脳神経系に作用し幻覚をもたらす薬の呼称。さまざまな呼称はあるが、エンセオジェンは「己の内面に神を宿す」という神聖さが込められ、薬をポジティブなものとして肯定する呼び方。



───



部屋に戻ると、ルフェルは入口を丁寧に確認し、最上階のワンフロアを間違えるわけがない、と扉を開けリルハの姿に浅く溜息を吐いた。本当に待っているとは……思わなかったわけではないが、まさかという気持ちも正直あった。


「おかえりなさい、大天使長。思ったより早かったのね」

「……一日ここで待っていたのか」

「昨夜は寝ながら歩いてたのに」

「そういえば、精霊が命の源(樫の木)から離れてても大丈夫なのか?」

「しばらくなら大丈夫よ? 別に何かでつながってるわけでもないし」

「なるほど……で、どういう成り行きでここに?」


わたしたち、普段は姿を現すこともないんだけど、たまに悪戯心が出ちゃってね、男のひとや男の子を誘惑して木の中に招き入れちゃうの。悪気はないのよ? ちょっと美しい男のひとと遊びたいなあってだけ。ただ、木の中で流れてる時間がかなりゆっくりみたいでね、一日のつもりでも外では何百年と経ってることがあるのよね。


だから地上にいる仲間たちは、結構気を使ってるみたい。人間って短命じゃない? 解放したあと世界が変わってたってことになったら、さすがに可哀想だものね。でもエデンの天使なら少しくらい平気かしらと思って、昨夜大天使長に声を掛けたんだけど、どんどん歩いて行っちゃうから。


「百年単位は、エデンの天使でもまったく平気ではないんだが」

「あら、そう? でもほら、そのままここに来ちゃったから」

「ああ……塔の敷地を出たすぐそこにある、あれか」

「あれよ。エデンはいい所よ、みんな優しくしてくれるから」

「そうじゃない所が?」

「地上はね、枝を折ったり傷付けたりするひとも多いのよ」

「そうか、それは……残念だな」

「……意外、大天使長って、優しい時もあるのね」

「女性には常に優しいと思うんだが」

「そうね、わたしを追い出したりしないものね」


……帰ってもらい難くなってしまった。


「とはいえ、いつまでも置いておくわけにはいかん」

「責任取ってもらったら帰るわ」

「……その、責任というのは」

「とりあえず、今夜はもう寝ましょ?」


まあ……節操のなさはいまに始まった話でもない、か。



───



「大天使長、接触しました」


諜報部の職員が地上で張り込みを続け、奈落(アビス)魔界(フィンド)天空(エデン)が取り引きをする現場を確かめた。悪魔の喚起に加え、ブローカーを通して人間と天使の魂を手に入れている、という証拠が揃い始める。


「……金曜か、場所は?」

「港湾のコンテナターミナルです」

「コンテナの中身は」

「塗料と雑貨、という話でした」


塗料が少々気になるが……火気厳禁、というわけでもなさそうだな。あとは、九名の王の誰が出て来るか。それによっては率いる軍勢が変わる。こちらも戦闘部隊を用意しておいたほうがいいんだろうか。あまり多過ぎても邪魔になるだろうが、さてどう迎え撃つか。



───



「……何やってるの?」


司法長官の執務室の前で様子を伺っていた法務部の職員は、アニエルの声に驚き飛び上がった。何やってるの、と言われても、さすがにこの中に入って行く勇気がない、と職員はアニエルに中を覗いてみろと促した。わずかな隙間から部屋の中を窺うと、司法長官……と、その机に腰掛ける大天使長……これは確かに勇気がいるかもね、とアニエルは力なく笑った。



「そやから、僕は戦闘員やないし訓練も受けてへんし、そない怖いとこよう行かんて」

「わたしも戦闘員ではないし訓練も受けてないんだが」

「あんたを基準に物事考えるのやめなはれ」

「現場の人数を抑えたい」

「何人分働かすおつもりやねん」

「とりあえず五十くらいか」

「……あかん、お腹痛なって来たわ」

「エンセオジェンの件、うちの若いのを数名寄越してもいいんだが」

「ほんま弱味に付け込んで足元見よってからに……六人で手ぇ打とか」

「 "おおきに" 」


帰り際、ルフェルが扉を開けると、廊下で聞き耳を立てていた職員二名とアニエルが緊迫感あふれる顔でルフェルを見上げ、妙に上擦った声で「お疲れさまです!」と腰を折った。ああ、そういえば……とルフェルはアニエルに顔を近付け、しげしげと眺めたあとで頬をなで、「なるほど」とつぶやきその場をあとにした。


心臓を止めていたアニエルが息を吹き返すまで、しばらくの時間を要した。



───



アヴリルとカミーユで三百五十、ユリエルとサリエルで二百、これで五百名分は浮いたと思うが、防衛総局から何名出してもらえばいいものやら。ルフェルはかなり大雑把な計算をしながら、これに掛かる予算はどの省が持つんだろう、と頭の中で見積書を作成し、ついでに司法省に送る六名分の請求書も作成する。


「大天使長、割れました」


サリエルがルフェルにその名を告げると、ルフェルは大きな溜息を吐いた。



---------------

作戦会議 参加者 ( )内は担当討滅予定数


内務省:大天使長ルフェル(二百五十体)/諜報部長サリエル(百体)

司法省:司法長官ユリエル(百体)

安全保障省:大元帥アヴリル(二百体)/大将カミーユ(百五十体)

---------------



「よりにもよってえらいもん引きよったな……」

「わたしが選んだわけでは……」

「一軍団(レギオン)が六千六百六十六体」

「それが、二百軍」

「……百三十三万……三千……二百……」

「ようさんいたはりますなあ……ほな、ごめんやす」

「全部は出て来んだろうが、予測もできんな」

「精鋭部隊と特殊部隊で連隊を構成しましょうか」

「一個中隊で二百名だとしても場所的に多過ぎやしませんか」

「……控える場所が……ないと……」

「空飛んで控えとったらええねん」

「雑魚はどうとでもなるだろうが、密偵の能天使(エクス)が痛い」

「押さえるのは取引現場ですよね?」

「ブローカーを押さえる予定なので、多くても五、六名ではないかと」

「……最初は……少ないですよね……」

「ほな短期決戦しかないやろな……長引いたら不利なるだけやん」

「……精鋭部隊の分隊をひとつ用意。戦闘不能になったらすぐに下がれ、護衛にまで手が回らん。雑魚が湧いたらユリエルとサリエルで焼き払ってくれ。後衛は戦線を上げないように。アヴリルとカミーユはふたりの従王を頼む。絶対に戦線を下げるなよ。アザエルは……わたしが倒す。あとは現場を見ながら考える、以上だ」



── 了解。



───



ルフェルは相変わらず丁寧に入口を確認し、やはりワンフロアを間違えるわけがない、と扉を開け、リルハの姿に軽く溜息を吐く。もう一週間ほどにもなるんだが……大丈夫なんだろうか。


「おかえりなさい、大天使長」

「リルハ……顔色悪くないか?」

「えっ、ほんと? 寝不足かしら……大天使長が寝かせてくれないから」

「何の話だ」

「……明日、闘うの?」

「できれば、戦闘は避けたいんだがな」


ベッドに腰をおろすルフェルの後ろから、リルハがそうっと首に腕を回し抱き締める。翼、こんなに柔らかいと思ってなかった、と言うと、ルフェルが翼をふわっと反らせ、リルハのからだを包んだ。


「絶対帰って来てね」

「責任を取るために?」

「ふふ、そうね、そのために」

「倒れるわけにいかなくなったな」



── エデンはいい所よ、大天使長もこんなに優しくしてくれるもの。





---------------

悪魔王アザエル討滅戦 参戦者 ( )内は身長 体重


内務省:大天使長ルフェル(185cm 68kg)/諜報部長サリエル(177cm 63kg)

司法省:司法長官ユリエル(177cm 60kg)

安全保障省:大元帥アヴリル(178cm 66kg)/大将カミーユ(183cm 71kg)

---------------



「……想像以上に……狭いな」


港湾のコンテナターミナルにはコンテナがうず高く積み上がり、作られた影のせいか実際より狭く見えた。


「こんなもんちゃう? 25mほど稼がしてもうたら問題ないわ」

「取引現場がどこか、にもよりますね」

「入口の外灯付近のはずなので、距離は取れると思います」


ルフェルたち五名と精鋭部隊の分隊十名は、コンテナの陰に身を潜めながら取り引きを待った。精鋭部隊の戦闘員は、上長五名が一堂に会するのを目の当たりにし、感動と緊張で打ち震えている。何より大天使長の闘う姿を見るのが初めての戦闘員たちは、期待にその瞳を輝かせた。


「……来ました」


サリエルの合図で入口付近に視線をやると、確かに外灯の下辺りにいくつかの影が見える。


「数は」 「四体」 「潰しますか?」 「連れて来い」


「カミーユ」


アヴリルに声を掛けられた瞬間、カミーユが地面を蹴って飛んだ。


「……いや、どないなっとんねん、あこまで飛びよるんかいな」

「カミーユは対ゲリラ攻撃の特攻戦闘員なので、あれくらいは飛んでもらわないと」

「防衛総局、えげつないわ……」


ユリエルとアヴリルが二言、三言会話を交わすと、カミーユが四体の敵を抱えて飛び込んで来る。


「お待たせしました」

「いや、ちいとも待ってへんがな」

「さすがに四体抱えて飛ぶ体力は凄いですね」

「特殊部隊で叩き上げてるので、これくらいはしてもらわないと」

「いやほんま、防衛総局やくたいなとこやな……」


カミーユが抱えて来たアビスの堕天使を一体地面に転がすと、ルフェルはためらいもせず涼しい顔で蹴り上げた。コンテナの陰から見ている戦闘員は、痛みを想像し思わず顔を歪めてしまう。胸ぐらを掴まれ引き起こされた堕天使は、すでにグッタリと力なくぶら下がった。


「……久々だと力加減がわからんな」


そう言うと、もう一体の堕天使の胸ぐらを掴んで、その顔を一発殴る。


「こんなもんか……」

「いい感じに、いたぶられた感出ましたね」

「何なんだよあんたら!」

「……自己紹介が要るのか?」

「知らないということは、エデン出身じゃないのでしょうか」

「帰って王を呼んで来い」


ルフェルが手を放すと、堕天使はもう一体の堕天使を連れて、慌てて消えた。


「雑魚中の雑魚、という感じでしたが……悪魔王、来ますかね」

「まさか、用事があるのはこっちのほうだ」

「なんや、ブローカーてフィンドのゴブリンかいな」

「こちらも雑魚中の雑魚、といった感じですが」

「アビスにとっては協力者が屍になるのは困るだろう」


ゴブリンはいま五名の天使(・・)に囲まれ、「魔界でもこんな怖い思いはしたことがない」と、産まれてから最大級の恐怖を感じていた。もう一体のゴブリンもまた、同じように恐怖でカタカタと震えている。



しばらくすると、辺りが黒い霧で覆われ夜の闇が更に深まった。空気が淀み、景色が滲む。


「……案外、早かったな」

「魔族に手を出されるのがよほど(まず)いんでしょうか」

「旨くはないだろうな、下手すればアビスとフィンドの衝突を招く」


五名は外灯の下に目を凝らし……全員がその目を疑った。


「なぜ……」

「なんや、話ちゃうやないか……」

「あれは、もしかして……」

「……大天使長!?」


四名はもう一度目を疑った。ルフェルは15mほど離れた敵の ── 真上(・・)にいた。


「いつ飛んだ……?」

「この距離を……一瞬で……!?」

「あかん、もう絶対別の星の生きもんやんか」

「大波乱の予感しかしませんが」



艶めく漆黒色の髪をかき上げながら、ルビーのように煌めく赤い瞳で注意深く周りを見渡し、ベリアルは少し安心したように、「やっぱ勘違いかよ」とつぶやき、それから "取引場所" に落ちている小さな血痕に気が付いた。何かがおかしいと感じた瞬間、首筋に小さな痛みが走り、振り向くと ── 親指に付いた血を舐めるルフェルと目が合った。


「よお……久しぶりじゃねえか」

「先日は随分とお楽しみいただけたようだが」

「まさかあんたがこの件に絡んでるとはなあ」

「ゆっくり話を聞かせてもらおうか」


言い終わるが早いか腹に入ったルフェルの右脚は、ベリアルを激しく吹き飛ばしその身体(からだ)を地面に叩き付けた。



---------------

絶対王ベリアル討滅戦 参戦者 ( )内は性格


内務省:大天使長ルフェル(傍若無人)/諜報部長サリエル(謹厳実直)

司法省:司法長官ユリエル(多情仏心)

安全保障省:大元帥アヴリル(温良恭倹)/大将カミーユ(堅忍質直)

---------------



「…大天使長さま……剣術に長けているとは聞いてたけど」

「なんだ、あの蹴りの速さと威力……」


コンテナの陰で、戦闘員たちは背筋を凍らせていた。


「大元帥さま、地上でなぜ大天使長さまの蹴りがベリアルに効いてるのでしょうか」

「ああ、先ほど大天使長が親指を口元に運んだのは見てませんでしたか」

「見てましたけど……それがどう関係するのでしょう」


ひとつの "契約" のようなものですが、アビスの住人の血液を取り込むと、そこに主従関係が生まれるんです。とはいえ逆らえないというほどの威力はなく、主に対してのみ従者の身体が使役のために実体化し、効力が切れるまでアビスに戻れなくなるだけですが。取り込んだほうの血はしばらくの間、穢れを帯びることになるので頻繁には使えませんけどね。



「…… "立てよ……まだ始まったばっかりじゃねえか" 」

「あんた、その執念深さ、別のところで活かしたほうがいいんじゃねえのか」

「わたしに助言できる状況ではないと思うが」


立ち上がりかけたベリアルの両脚を右脚で払い、一瞬宙に浮いたその腹にもう一度蹴りを入れ、ベリアルは再び地面に転がった。ベリアルが動きを止めた地点まで飛ぶと、ルフェルはベリアルを見下ろしながら、そのみぞおちに足を乗せる。


「まさか、詠唱する時間をくれるとも思わんだろう?」

「お優しい大天使長さまのことだからな。少しは融通してくれるかもしれないぜ?」

「頼めば考えてやらんこともないが」

「あんた……本当に変わらねえな」


ルフェルは脚に力を入れると、眉ひとつ動かすことなくその脚を踏み込んだ。ベリアルの胸は鈍い音を鳴らし、ルフェルの足にもその衝撃が伝わって来る。ベリアルが顔を歪めたところで、ルフェルはそのまま脚を踏み抜いた。


「ぐっ……」

「いい声で鳴くようだな」

「本当に…手加減ってもんを……知らねえな、あんた」

「ほう……おまえの口から手加減という言葉を聞くとは思わなかったが」

「ぬかせ……化け物……」


コンテナに身を潜める四名と戦闘員十名の目の前で、ルフェルはベリアルの胸骨を踏み砕き、当然のことながら戦闘員たちは背中どころか全身を凍えさせた。片脚で骨を……砕けるものなのか……?


その時、ベリアルのみぞおちに乗せているルフェルの足が閃光に弾かれ、ベリアルがゆっくりと立ち上がる。


「はっ、アヴリルはともかく、サリエルと……まさかユリエルまでいるのかよ」

「はばかりさん……相も変わらず、難儀なことで……」


ユリエルは猫のようなアーモンドアイを細めると、左の口角を上げにやりと笑い、ベリアルに近付いた。


「おまえ、いつから大天使長さまの飼い犬になったんだ?」

「いややわあ……僕は元から従順やけど、知らんかったんえ?」

「よぉく調教されてんじゃねえか……そんなにイイ(・・)のかよ、大天使長さまのアッチ(・・・)のほうは」

「そやなあ、(すく)のうてもあんたよりは、楽しませてくらはりますわ」

「ははっ骨抜きかよ、だったらおまえも容赦しねえからな」

「さよか、ほなこっちも本気で行かさしてもらいます」


素直な戦闘員たちは、ユリエルとベリアルの会話を聞きながら、ルフェルを仰いだ。だ、大天使長さまと司法長官さまって……腐女子大歓喜じゃないですか…………ルフェルは顔を赤らめる戦闘員たちを見て、どうしたんだ、と不思議に思った。当然だがこの話は、のちにエデンで広まることになる。



ベリアルの胸元が薄っすら光っているのを不思議に思ったカミーユは、光の元を目で追い探った。


回復係(ヒーラー)確認 北 距離20m どうしますか」

「ヒーラーを潰すのは、戦闘におけるイロハの "イ" だ」

「御意」


アヴリルに言われ、カミーユがハンドクロウを握り締め飛ぶ。それからさほど時間を置かず、カミーユの声が響き渡った。


「敵襲!」


全員がヒーラーのいた場所に目をやると、数多の影がひとつの塊のようにうごめいている。とりあえずヒーラーを倒したカミーユが戻って来るが、ひとりでは少々厳しいと言う。アザエルほどの数ではないにしろ、ベリアルも八十の軍団(レギオン)を率いる王であることに変わりはない。


「接敵して闘うのは好手ではなさそうですね」

「最初の予定通り、焼き払ったったらええんやろ」


ユリエルが右手をかざし、うごめく集団のど真ん中を青い火柱でぶち抜く。続いてサリエルの邪眼が金色に妖しく光り、火炎が黒い塊を包む。取り囲む熱気と立ち昇る黒煙が風にさらわれると、積み上がる消し炭の後ろから、また数多の影がゆっくりと近付いて来るのが見えた。


「一軍団(レギオン)が六千六百六十六体」

「それが、八十軍」

「五十三万三千二百八十体……」


黒い塊にユリエルの獄炎が降り注ぐと、サリエルの熱波が照射される。しかし積み上がる消し炭の後ろから、やはり数多の影がひしめきながら、その歩みを進め続けている。そしてその黒い塊は……数多の堕天使たちは、ベリアルとルフェルを取り囲み、肉壁となった。


「魔法も邪視もこれで封じられた、ということですか」

「中におる大天使長ごと、燃やすわけにもいかへんからなあ」

「堕天使の壁……一体ずつ片付けるしか……」

「なかなかに骨の折れる作業ではありますが、致し方ありません」


アヴリルたちは堕天使を一体ずつ片付けることを余儀なくされ、そこに精鋭部隊の戦闘員も加わった。途方もない数の堕天使を見ながら、全員が「大天使長、早く始末してくれ」と思ったのは言うまでもなかった。



「ほう、考えたものだな」

「あんたとまともに闘っても、何の得にもならねえからな」

「しかしこれでは、おまえも魔法の詠唱ができんと思うが」

「まあ、そういうことだな」


ベリアルはククッと(わら)いながら左手を開き、手のひらの上で輝くオーブをルフェルの目の前に突き出した。


「これが何か……賢い大天使長さまにならわかるだろう?」

「さあ……わたしはおまえほど賢くないからな」


オーブを爪で突くと、輝いていたオーブは黒く淀み、光の代わりに黒く禍々しいオーラを(くゆ)らせた。妖しいオーラを纏ったオーブをベリアルが空に放つと、ゆっくりと宙を漂い持ち主の前で動きを止め、いままでルフェルとベリアルを取り囲んでいた堕天使の肉壁が消えた。


「今度は、ハッタリじゃない」


オーブはゆっくりと持ち主の身体に溶け込み ── ユリエルがその場で膝から崩れ落ちた。


「人質を取るのがお好きなようだが」

「そいつは元々おれの子飼いでねえ」

「ほう、男の嫉妬は見苦しいな」

「何とでも言え。いまおれとユリエルの魂はリンクしてるんだけどな」

「……それで? 命乞いでも?」

「まあ落ち着けよ」


魂がリンクしてるわけだから、おれが殴られれば当然ユリエルも傷を負う。まあそれだけなら、あんたはためらうこともないかもしれねえが、ユリエルの魂にひとつ細工がしてあってねえ。


「細工、とは……相変わらず用意周到なことだな」

「万が一おれが死んだら……ユリエルの魂はおれとして(・・・・・)転生する」

「……どういう意味だ」

「どうもこうも、ユリエルが堕天しておれと同化するんだよ」

「痛々しいな……己の力だけでは手に入れられんらしい」

「勘違いすんな、余計な力使いたくねえだけだ」



崩れ落ちたユリエルの上体を抱き起こしていたアヴリルも、その隣で様子を(うかが)っていたサリエルも、同じくカミーユも、小さく呻き声をあげながら薄っすらと目を開くユリエルに言葉を失くした。ユリエルはアヴリルの手を振り払いゆっくり立ち上がると、真っ赤な瞳をルビーのように煌めかせながら、ルフェルに向かいその右手を突き出す。


「司法長官、待ってください」


アヴリルがユリエルを後ろから抱え制止すると、一瞬の閃光ののちアヴリルの身体に激しい雷撃が走る。アヴリルはユリエルを抱えた腕をかろうじて放さずに耐えたが、無詠唱でこれだけの魔法を撃たれては敵わない、と抱える腕に力を込め体勢を立て直した。


「よう(こら)えはったな……そやけど……二回目はどうえ?」


ルビーのように煌めく赤い瞳を細めながら、ユリエルは口角を持ち上げた。





ルフェルは空を切り、その右手に焔火(ほのお)で鍛えられ深紅に染まる熾烈(しれつ)(つるぎ)を納めると、それをひと払いした。剣身は瞬く間に溶熱した焔火に包まれ、不規則に舞い上がる火の粉は連なり、その帯は螺旋のように剣を覆う。


「やれやれ……おれは構わねえが、可愛い飼い犬も無事じゃ済まねえぞ?」

「わたしの任務は "絶対王の討滅" だ。天使の護衛は含まれん」

「はははっ! あんた、ユリエルを見捨てんのかよ!」

「……くだらんな」


戦闘員たちは耳を疑い、熾烈の剣を構えるルフェルを仰ぎ見た。美しく端正な顔に一切の感情を窺わせることもなく、白く透き通る肌は冷酷さを際立たせるようにも見え、そして、まるで重力など感じさせない身のこなしで踏み込むと、迷うことなくベリアルの胸を斬り付けた。


剣の軌道を避け若干身を引いたベリアルは、皮膚を薄く切って血を飛び散らせる。


そして同時に、ユリエルの胸から鮮血が飛び散り、サリエルとカミーユの頬からユリエルの血が滴り落ちた。痛みで覚醒したユリエルの瞳は空色に戻り、身体を伝う血を指先で確かめると、小さく舌打ちをして「……堪忍な」とつぶやいた。



ベリアルは大きく後ろに飛んだあと、瞬時に間合いを詰めるルフェルに「無詠唱魔法もあるんだよなあ」と、その足元を氷の(くさび)で貫いた。楔を避けて下がったルフェルを「どうした、精彩を欠いてんじゃねえの?」と嗤いながら、頭上に氷の矢を降らせ、それを剣で払うルフェルの胸に、ベリアルは氷の杭を突き立てる。


「可愛い可愛い飼い犬が気になって、仕方ねえみてえだなあ」


胸に食い込んだ杭を引き抜くと、ルフェルの身体からも血が飛び散り地面に赤い染みを作る。魔道武器だとやはりダメージが通るのか、と思った矢先に氷の矢が降り注ぐ。


「普段通り、残忍に殺せばいいじゃねえか」

「生憎わたしは情に深くてな」

「飼い犬の舌使いが忘れられなくて、(ほだ)されてんのかよ」

「おまえの身を案じるわたしの優しさゆえだが」

「殺せよ……人間が、大事なんだろ?」


ベリアルを殺せば……ユリエルが堕天し、ベリアルの魂とともにアビスの王になる。しかしここでベリアルを逃せば、アビスとフィンドの勢力は増し、地上の混乱は深刻なものとなるだろう。悪魔の喚起……流行りはいずれ廃れるだろうが……



「……大天使長、何を迷てはるん」

「司法長官を堕天させるのは、やはり気が咎めるのでは」

「あほう、迷うことあるかいな。比べられるもんちゃうやろ」


ルフェルにいつもの邪悪さがないと感じたユリエルはそう言った途端、血を吐き咳込んだ。アヴリルたちが慌ててルフェルを見ると、地面に叩き付けられた瞬間のベリアルが目に飛び込んで来る。ベリアルが転がった地点まで飛んだルフェルは、その脚に熾烈の剣を突き立てる。


「……ッ!」

「司法長官……」

「……なんや、思てたより……痛いもんやな」



脚に突き立てた熾烈の剣を引き抜くと、ルフェルの頬にも血飛沫が飛び、白い顔から赤い血を滴らせる姿は、戦闘員たちの正視に堪えなかった。ベリアルは楽しそうに嗤いながら、「調子出て来たじゃねえか」と言い、「ユリエルも可哀想になあ」ともう一度高らかに嗤った。


アヴリルもサリエルも、そしてカミーユも成す術なく、ただ成り行きを見守るほかなかった。一瞬、叫び声にも似た声が短くあがり、ユリエルは自分の左腕が地面に落ちるのと同時に、膝を着いた。


「司法長官……!」


緩くクセのある前髪の隙間から、猫のような空色のアーモンドアイを覗かせ、口角の上がった薄い唇をわずかに震わせながら、ユリエルは左の口角をさらに上げて見せた。



(とど)め……刺さねえのかよ」

「よほどわたしに殺されたいようだが」

「何の罪もないユリエルを殺す気分はどうだ?」

「わたしの任務は "絶対王の討滅" だ……新しい命をくれてやるつもりはない」

「……どういう意味だよ」

新しい命(ユリエル)はやらん、と言ってるんだが」


ルフェルのエメラルドに輝く瞳は、ピジョンブラッドのように紅く(たぎ)り、内に秘めた静かな怒りはその背にある十二の翼を深紅に染めた。


「おまえを殺せば……ユリエルは堕天し、アビスの王となるようだが」

「そうだな、魂に転生の秘術を仕込んであるからなあ」

「ユリエルを殺したら……どうなる?」

「……あんた…何考えてんだよ……」


右手に握った熾烈の剣をひと払いすると、剣身は業火に包まれ、唸り声にも似た轟音を響かせた。溶岩のように赤黒く熱を帯びた剣を握り締めると、ルフェルは膝を着いたユリエルの前で立ち止まる。ユリエルは、右手を支えに身体を起こし、よろめきながら何とか立ち上がると、ルフェルの顔を真っ直ぐに見て、頼りなく笑った。


「……おつかれ…さん……どした…」

「……許せよ」

「最…後の……お勤めや……さかい…おきばり…やす」


握り締めた剣は確実にユリエルを捕らえ、肩口から斜めに振り下ろした剣身がユリエルの血を浴び蒸気を発した。戦闘員たちは目を背け、凄惨な光景に身体を震わせ、泣き崩れる者まであった。ユリエルはそのまま前に倒れ込みルフェルの腕に支えられると、わずかに左の口端を持ち上げ、力尽きルフェルに身を委ねた。



慌てたベリアルは薄く黒い霧となり、空気を滲ませながら逃げるように消えた。

***

後編に続きます。

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