兄は憂う
「…ふんッ! ふん!」
グラハム子爵家はアルメリア王国では下級の、それも歴史の大変浅い新興貴族だ。
しかし愛妻家で名高い当主、ジェフリー・グラハムの意向もあり、その邸宅の庭は国中から集められた花々が四季折々に咲き誇る大変贅沢なもので、大貴族のそれと遜色ない造りとなっている。
そんな当家自慢の庭先で、一心不乱に木の棒――――台所から拝借した、パン生地等を薄くするためのモノである――――を振るう少女がいた。
柔らかな春の日差しを受け、少女の緩やかに波打つ黄金の髪が眩しいほどに光輝く。
小さな両の手が白くなるほど強く棒を握りしめ、背筋をピンと伸ばし前を見据えて素振りを行う姿はよく訓練された騎士のようでもあったが……如何せん、萌黄色のドレスに包まれた肢体はあまりにも華奢で頼りない。
雨に打たれただけで萎れてしまいそうな、繊細で儚い華を思わせる美しい少女。
澄み渡る空よりもなお鮮やかな青く大きな瞳が苦し気に歪められると、ハラハラとしながら見守っていた侍女や従僕は互いをけん制しつつ、少女を止めるため遂に一歩踏み出して――――目の端を横切った黒いマントにその足を静かに戻した。
「シュテル、危ないから私達の真似をしてはいけないと言っただろう」
「……ヴェレンお兄様」
背後から振り上げた木の棒を止められ、不満そうな表情で振り返る妹にヴェレンは小さく息を吐いた。
「お前が剣を握る必要はない。怪我でもしたらどうするんだ……第一この時間はマナーの勉強をしているはずだろう。何故庭先に居る?」
山賊顔、顔面凶器とあだ名される祖父ほどではないものの、その遺伝子をしっかり受け継いだヴェレンも中々の強面である。鋭すぎる赤い目を細め厳しい口調で問いかけると、大抵の者は蒼褪めて怯えるのだが……たおやかで儚げな外見からは想像できないほど肝の据わった妹は目尻をキッと吊り上げ、果敢に言い返してきた。
「ヘーデルヴァ―リ伯爵夫人でしたら、今日の課題は合格を頂きましたので早めに帰られました! 夕食まで時間が空いたのでこうして鍛錬をしていたのです」
「……あのマナーに大変厳しい夫人が合格点を出すところなど、私は見たことないが」
控えていた妹の侍女・リリへ視線を送れば、彼女は我がことのように誇らしげに胸を張り「誠にこざいます」と言った。
「本日はテーブルマナーのレッスンでしたが、シュテルお嬢様の所作は上流貴族のご令嬢のように洗礼されたものにございましたゆえ……最早教えられることはない、と」
「きちんとテーブルマナーを学ぶのは今日が初めてだろう。流石はシュテルだな」
王族であろうと気に入らなければ何時間でも容赦なく鞭片手に指摘し続ける、あのマナーの鬼を納得させるとは……。
感心するヴェレンに、しかし当のシュテルは平然としたものだ。むしろ鍛錬を止められたことに頭がいっぱいのようで、幼子特有のむっちりとしたまろい頬を膨らまし猛然と抗議している。なんだこの生き物、可愛すぎか。
「お兄様、お言葉ですが私は領主の娘です。領地を、民を守るためには、我が身を鍛えることは重要なのですよ」
「良いかい、シュテル。民を思うお前の気持ちは立派だけれど、守り手ならば私や父様がいる。私達がダメでも、祖父様が出てくれば大抵のことはどうとでもなるだろう。お前が身を危険に晒すことはないんだ」
そもそも、領主が自ら剣を握り私兵を率いて領地を守るために戦うなど……太平の世を謳歌しているアルメリア王国では、最早過去のお話である。
たしかに祖父ジェフリーが現役の頃は王位争いが激化し内乱が頻発していたため、領主は命懸けで自領を守っていた。
しかし熾烈な争いを制し即位した賢王・サーファスト国王陛下の善政により、国内の情勢は安定して久しい。
(といっても……陛下は自ら不穏分子の首を片っ端から撥ね、逆らう者は女子どもの区別なく一族郎党処刑しまくったと聞く。それを怖れ、皆大人しくしているに過ぎないが)
中央の貴族どもは恐怖政治で抑えつけているものの、国民を想い雇用関係や医療福祉に力を入れた施策を次々と打ち出す国王陛下によって国は栄え、民の生活水準も格段に向上した。
アルメリア王国を虎視眈々と狙っていた隣国も、即位後すぐ陛下御自ら攻め込み王の首を刈り取り支配権を奪取したことで今や我が国の属国である。
外敵の心配もなく、すっかり平和な雰囲気漂う国内において、争いといってもせいぜいが賊同士の小競り合い。
領主が出るまでもなく、私兵を差し向けるだけで事足りる。
シュテルが剣を持ち、体を鍛えねばと鬼気迫る必要等全く少しもないのだ。
そもそも、祖父でありグラハム家当主ジェフリーの方針によりシュテルは争いを連想させるあらゆることから遠ざけられている。
賊や魔獣討伐は彼女に知られる前にひっそりと行われているし、寝物語も暴力シーン一切なしのふわふわ甘々話だけを揃えるという徹底ぶりだ。
(だというのに……誰だ、我が一族の至宝に余計なことを吹き込んだのは)
齢10歳のヴェレンは3つ下の妹シュテルを割りと本気で天使と思っている。
それはグラハム子爵家では常識中の常識。特に孫バカ絶賛拗らせ中な祖父ジェフリーは、シュテルにはこの世の綺麗なものしか見せたくないと公言して憚らないほどである。
それと言うのも、シュテルは絶世の美少女なのだ。
祖母や母も社交界を騒がせた美姫であったが、次元が違う。彼女はそのパーツの一つ一つを神が丹精込めて作り込んだとしか思えないほど、緻密で繊細に整っている。
眩い黄金の髪に清らかな青い瞳も相まって、まさに宗教画の天使様。
さらに性格も常に家族や民を気にかけ「何か困ったことはないですか?」と聞いてまわるほど慈悲深く、勉学もヴェレンよりよほど出来る。
その所作も上流貴族の姫君が裸足で逃げ出すほとに洗礼されており、叩き上げの泥臭い人材ばかりが揃うグラハム家の家臣一同をただ歩くだけで魅了し……仕事を忘れ見惚れるもの多数。(発見され次第、きっちりと当主直々のお説教が待っている)
地上に舞い降りた可愛い可愛い天使を下界の汚れに触れさせてなるものかと皆奮闘しているのだが……その意気込みをシュテルだけが知らず、こうして鍛練と称し棒を振り回すなどの突飛な行動で木っ端微塵に粉砕してくるのだ。
「全く、我が妹には困ったものだね」
「私は領家の娘として当然のことをしているだけです……」
膨れっ面すら可愛いのだから、とても外には出せない。甘やかし安全な場所で大事に育てたいと思って何が悪いのか。
取り上げた棒をリリヘ手渡し、ヴェレンはシュテルを抱き上げた。
「もう夕食の時間だ。シュテル、ヘーデルヴァーリ伯爵夫人から合格を頂いたテーブルマナーをお兄様に見せておくれ」
「……承知しました」
むっすーと据わった目をしているシュテルの頬へキスを落とし、その柔らかな体を10歳にしては随分と育った硬い胸元へ丁寧に抱き込み歩き出すヴェレン。
「全部全部アイツのせいだ……許すまじジェフリーめ」
一方、彼の愛してやまない天使――――シュテル・グラハムはギリギリと歯ぎしりしながら、その可憐な桃色の唇を歪め呪詛を吐いていた。