ある男の業 【終】
男が異変に気付いた時には、もう手遅れだった。朱い瞳と視線が合った瞬間、変異した異形の腕で肩を掴まれ、そのまま肉が抉られる。
人間の握力では不可能な行為。それをやってのけたという事は、やはり腕に抱えていた女性は人間ではなくなったのだろう。理性の消えた瞳で男を睨み、鋭い爪を振るう。
咄嗟に鞄を前に出したが、男の身体は呆気なく引き裂かれた。
胴体から血を噴き出して倒れる男。怪物は倒れこんだ男に初めから興味などなかったように、遠くのイェフナに狙いを定めた。
必死に手を伸ばす男を置いて、怪物はゆっくりと歩き出していく。
男の近くで転がっている、血に染まった鋳物人形。横に裂かれたお守りを掴み、男は這いずって怪物を追いかけた。
怪物とイェフナ、そして自分と同じく地面に伏しているゴウレム。それら全てを視界に入れて這いながら、男はひたすら前に進んでいく。
「…………この、お守りの……おかげだ…………」
身体は重石を乗せられたように、どれだけ力を入れても怪物には追いつけない。
地面を這う手のひらに刺さる瓦礫や木材の破片。喉の奥からこみ上げてくる血の塊と、全く自由のきかない身体。そんな全ての要因が、イェフナの元に辿りつく邪魔をしている。
「届け、ないと……そしたら……守ってくれる……っ」
そう信じ、男は気力を振りしぼり続ける。無様に這いつくばったまま、たった一人の大切な存在へ近づくために。
「だから……頼むから……その人に、なにも……」
振り返ったイェフナと目が合う。
「――あっ…………」
怪物に胸を貫かれ、そのまま喉元を喰い破られていく少女。
男は大切な人間が蹂躙されていく様子を、遠くから見ていることしか出来ない。
「…………だ……やめ……ろ……」
そんな状況を、許容出来るはずがなかった。
「……ぐっ――ぅぁああああああッ!!」
立ち上がって腹部の傷が裂けるなら、そこを塞げばいい。手に掴んだ鋳物人形を、中身が漏れ出そうな傷跡に押し付けた。
リキャストル――業欣に備わる本来の形を造り出す鋳造術。
ただし、それは加工されていない物に限る。一度加工された業欣は本来の形を取り戻すことなく、加工される過程の状態で造り出される。
昔、修行に付き合ってもらった時、イェフナから教わっていたことだった。
熱で加工して鋳造された鋳物人形の一部は、熔けた金属の液体となって腹の傷口を覆う。意識まで焼き切れそうな、一瞬の超高熱。
それでも男は何とか気を失わずに、おぼつかない足取りで前進する。
絶望的に遠いと感じていた道のりは、あっという間に近づけるほどの距離だった。力なく横たわるイェフナを貪る怪物。男は自らの腕に、その怪物の歯を噛みつかせる。
朱い瞳から涙のような液体を流しながら、怪物は繰り返し男の腕に歯を立て続けた。
「……すみません……」
落ちていた瓦礫を拾い、何度も怪物の頭に打ち付けていく。
泥のような血を流し、動かなくなった怪物。石を置いて、男は無残な姿で倒れるイェフナの手を掴んだ。
「あ、れ……?」
朦朧とした意識の中で、力なく男の手を握り返してくれる。
「……無事で……よかっ、たぞ……」
「イェフナがそんな状態で、いいわけないよ……」
イェフナの命は、尽きかけている。こうして会話が出来たこと自体、奇跡のようだった。
「……最後、に……あえた……」
「……最後じゃない、最後じゃないだろ……一緒に、帰ろう……」
歯を喰いしばって告げる。重傷を負い悲鳴を上げる身体を無視して、イェフナとの会話に集中した。
「ボクは、イェフナとずっと一緒にいる……いたいんだ」
イェフナは、なぜか嬉しそうに笑った。しかしその瞳に宿る僅かな光は、すぐに消えてしまいそうだ。
強く手を握り名前を呼び掛け続けるが、既に男の声はイェフナに届いていない。
「……たい、せつで…………だい好きだった…………」
それ以上、言葉が続くことはなかった。
「イェフナ……ここで寝たら、だめだ……なぁ、イェフナ」
何度語りかけても、返事が戻ってくることもない。
「……死ぬなんて、嫌だ……嫌なんだよ……」
巫女の血を濃く受け継いだイェフナは、いつも苦しんで、辛い思いをしている。
だが、それでも生きていてほしかった。
目の前のゴウレムが再生を始めても、男はイェフナを救える方法がないかを考え続ける。だがどれだけ考えを巡らせても、この状況を打開できる手段を思いつく事が出来ない。
崩れかけの腕で上体を起こしたゴウレムは、虹色の瞳で男を見下ろした。
「……ボクに、何が出来た…………」
なにも出来なかった。余りにも無力でちっぽけな存在。
喪失感の中で、男は力なく独白し続ける。
「……助けられたはずの人を、死なせて……大切な人も、見殺しにした……ゴウレムの暴走だって、止められたかもしれないのに……」
もっと自分が危機感を伝えられていれば、こんな事態になることはなかった。他にも色んな方法を取れたのではないか。後悔と様々な選択肢が頭を駆け巡る。
イェフナを抱きかかえたまま、悔しさに満ちた表情でゴウレムを見上げた。
もし、生まれ変われるのなら……あらゆる理不尽に満ち溢れる、こんな世界に立ち向かえるほど強くなりたい。
ゴウレムはヒビ割れた巨大な腕を伸ばすと、虹色の業光が男とイェフナの全身を包み込んでいく。
『――ごめん、なさい――』
頭に響いた、くぐもった声。そのままゴウレムは音を立てて崩れ落ちていった。
「なん、で……何とも……」
「早々に退避しろ」
男の背後から現れたのはアレクセイ。フォルネリウスの安全が確保されたのだろう、感情のこもっていない声で仮面の罪徒は続ける。
「後は愚生が対処する」
「っ……い、イェフナを、助けてください!」
イェフナを抱え、力を振り絞って立ち上がった男は、重い身体を引きずってアレクセイに近づく。
「邪魔をされるのは困る」
「このままだと、助からない……だから、手遅れになる前に……っ」
律業の系譜なら、必ずイェフナを救えるはずだ。
男の訴えを聞き、アレクセイはイェフナに軽く視線を向ける。
「この程度の損傷か、確かに愚生でも癒せるな」
「お願いします……助けてもらえるなら、どんなことだって――」
「その必要はない。癒しのルーラハを注ぐまでもないだろう」
ゴウレムの対処を優先し、仮面の罪徒は男の横を通り過ぎる。
「……どういう意味、ですか?」
「そのままの意味だ」
無情に突き放す仮面の罪徒を呼び止めると、その声に振り返ったアレクセイが答えた。
「治癒は既にされている。愚生が措置を施さずともな」
男は腕にかかえるイェフナを見る。流れ出た多くの血液で見え辛いが、アレクセイの指摘通り、傷口は塞がっていた。気持ち程度だが、生気が戻っているようにも感じる。
「……ほ、本当に……?」
「嘘をつく道理がない」
アレクセイの言葉を聞き、男は腰の力が抜けた。イェフナの存在を確かめるよう抱きしめる。
「よかっ、た……イェフナ……ほんとに、助かってよかった」
男は喜びと安堵で、それ以上の言葉が出て来ない。ただ涙を流し、最悪の事態が訪れなかった事に安堵し続ける。
活動を止めたグランドマルクティアの身体から、硝煙と共に虹色の光が昇っている。アレクセイは、その無残な残骸となったゴウレムを観察した。
「修復か破壊、これでは後者を選ぶべきか」
先程、頭に響いた言葉を男は思い返す。
あの時に注がれた業光。イェフナを治療したのは、誰だったのか。
「……グランドマルクティアは、どうなりますか」
「消滅する。修復を行うには、キャストールの原型鋳造が必要だな」
「消滅……」
そしてアレクセイは『偽りし王冠』、イェフナが修復の適任者だったと告げる。しかしイェフナは、当然そんな事が出来る状態ではない。
「全てのルーラハを失えば、後には何も残らない。その存在は聖煉な力によって霧散し、昇華されるだろう。……その前に破壊して、ゴウレムの核を回収しなければ」
「けど……それだと、グランドマルクティアは……」
「愚生と偽りし王冠で、新たな大地の神を造り出せばいい。人間は縋る対象を求めてしまう生き物だ。暴走という危険をはらんだゴウレムであっても、神と称されて崇められてきた人形は、いずれ再び街の象徴になり得る。我が主は、そのように判断を下した」
長年の間大地の守護神に祈りを奉げ、平和と安寧を保ってきたフォルフヨーゼという大国。男も、ゴウレムを失ったこの先の生活など簡単には想像出来ない。
力なく崩れ、消滅しかけている大地の守護神。男は昔、ゴウレムは全て天然の業欣によって形作られた代物だと養父に聞かされたことを思い出す。
「消滅さえしなければ、壊す必要もないんですね……」
「命じられたのは修復か破壊……。核の消滅を防げるなら、愚生はどちらでも構わない」
今ならばまだ、原形鋳造で修復が出来る。
この場で街の守護神、ゴウレムを直す事が出来るのはたった一人だけ――
「ボクに、グランドマルクティアを直させてください……」
「許可はできないな」
男の主張は即答で却下される。そう断言されてしまうのは当然だ。
「お願いします」
それでも食い下がる。自然と切願の言葉を口に出した。
多くの被害をもたらしたゴウレム。だがグランドマルクティアは、腕の中で気を失っているイェフナを癒してくれた。
男にとってはその理由だけで、義理を果たすには十分な理由だったのだ。
「ずっと、声が聞こえてたんです」
男にしか聞こえていなかった、助けを求めていた声。
「さっきも、謝ってくれました。……はっきりと、言われたんです……」
「あぁ、そうか。降誕祭で妄言を吐いていた、もう一人の原型鋳造師。偽りし王冠の庇護下にあったキャストール……」
「ただの幻聴かもしれません……けどイェフナを助けてくれたのは、きっとこのゴウレムだ……だからボクは、今のグランドマルクティアのままでいて欲しい」
ほんの一瞬、意思の疎通が図れたかもしれないだけ。ただの個人的な願望にすぎない。だがその程度の関係でも、出来るだけ力になりたいと思う。
「……なるほど。しかし、未熟な原型鋳造師にとっては荷が重い作業になるぞ」
反論の余地がない事実を、アレクセイは淡々と告げる。
「愚生の主観では、偽りし王冠ほどの才はない。そんな原型鋳造師にやり遂げられるのか」
「才能は、確かにないですね……。けどオヤジさん、ロダン・レーヴンの弟子として修行をしていましたから……。鋳造技術だけには、自信があります」
「ロダンの置き土産……。ゴウレムの核を失う訳にはいかない。それは理解しているな」
「リキャストルで元に戻すのは、外装だけに留めます。……修復が上手くいかなくても、核だけは、後でちゃんと回収できるように」
無理だと言われても仕方ない。それでも男の決意は変わらなかった。
「この状態は業欣が半分融けかかってる。多分これでリキャストルをしても、完全に修復は出来ません。だからもう原型鋳造ができない余分な業欣は、手作業で削ぎ落としていって、まだ無事な部分を元の形に鋳造し直す。そうすれば、きっと……」
簡単な作業工程を口にしながら、修復を行う手順を頭に思い浮かべる。
「イェフナを……安全な場所へ連れて行ってくれますか?」
腕の中で気を失ったままのイェフナを、アレクセイに託す。そして全身が虹光に包まれ、消滅寸前のグランドマルクティアと向き合った。
「……一つ、伝えていなかった。今のグランドマルクティアに触れ続ければ、キミは死ぬ」
伸ばしかけた手を止め、男はアレクセイの声に耳を傾ける。
「炎のように揺らめく虹光、それには巫女の聖煉なる力が宿っている。ルーラハを昇華させている光に触れた場合、肉体は崩壊現象を起こす」
「教えてくれて、助かりました……」
想像しただけで、恐怖で呼吸が乱れそうになる。
「律業の系譜であれば、多少は耐えられるだろう。だが系譜に連なる者ではなく、原型鋳造師としての才能もない。そんな人間が力を尽くしたところで、無駄に命を失うだけだ」
アレクセイが語った内容は、全て紛れもない事実だ。
男は律業の系譜ではなく、特別な才能も持っていない。
だが、それでも――
「何のつもりだ。話を理解していないのか」
「特別な力がないボクじゃ、助けられないかもしれないけど……。自分に出来ることなら全力で頑張ってみたいです……。それでも、やっぱり役に立てなかったときは――」
聖煉の力が含まれた業光が揺らめく守護神に、今度は躊躇わず手を伸ばす。
「力になれなくてごめんって……謝るにも、その後じゃないとダメだ……」
手のひらにグランドマルクティアに触れた感触が伝わる。炎のように揺らめく光からは、当然熱を感じない。ただ表現出来ないほどの嫌悪感が全身に広がっていく。そんな感覚だけはあった。
「手を離すといい……。今ならまだ片腕を失って、軽度の後遺症を残すだけで済む」
まだ間に合うと忠告されるが、既にその先の人生には、十分に過酷な運命が待っているらしい。ならば一層命がけで、何か成果を残したくなった。
「原形鋳造の基礎、前提条件は……っ、本来の形を、見極めること…………」
天然の業欣で構成されていたなら、それはグランドマルクティア本来の形であるはずだ。
助けてほしい、と……消え入りそうだが、微かに助けを求める声が聞こえた。この声が耳に届く限り、決して諦めはしない。
養父とイェフナから教わった鋳造技術以外で、男に自慢出来るものは根気強さしかない。そんな数少ない強みならば、最後まで貫き通してみせる。
「融けた業欣は、どかす……使える部分を型に、それをルーラハで保ち続ける……っ! それだけに、集中で……あと、は……いつも通り……」
「外装の修復と崩壊の速度、僅かに後者が上回っている」
「……早く……イェフナを……でないと、集中でき……ない……」
「そうか。では最後の言葉を、愚生から偽りし王冠に伝えておこう」
「目を覚ましたとき……自分で伝えます……」
これが最後じゃない。そう思わなければ、内から湧きあがる恐怖で心が折れてしまいそうだ。だからあくまでも気丈に振舞った。未練を残したことで、より全力を尽くせるように。
イェフナを抱え、一度もふり向かずにその場から立ち去ったアレクセイ。崩壊した広場にいるのは、男と消滅寸前のゴウレムだけになった。
「ほんとに、途中で諦めるつもり……ないよ……」
一度目を閉じて、作業に集中する。極限まで神経を研ぎ澄まし、対象の崩壊を食い止める事に全力を注ぎ続けた。
「躰はボクが……修復し続ける……。だから、生きようとする限りは、付き合う……!」
崩壊していく箇所は、作業鞄から取り出していた鏨で削り落としていく。そして昇華の影響を受けていない、無事な業欣の一部を原型鋳造で元の形に戻し修復する。
男は自らの全身を襲う聖煉な光の中で、そんな作業をひたすら繰り返していった。身体は目の前のゴウレムと同様、ゆっくりとだが確実に昇華の力に蝕まれていく。強烈な不快感が、嫌でもその事実を認識させた。
作業道具の鏨に含まれた僅かな業欣も聖煉によって消滅し、歪な形に変形してしまう。男は使い物にならなくなった作業道具を地面に置き、融けて使い物にならない業欣を両手で掴んだ。そのまま力づくで抉るように持ち上げ、引きはがしていく。
「……まだ、だ……絶対ニ……ボクが直す……ッ!」
業欣に染み込み続ける聖煉の力。その浸食によって崩壊する速度は予想以上に早い。絶えず流体で満ちた器に穴が開き、中身が零れて消えていく感覚。
原型鋳造を何とか成功させても終わりが見えない。最高の鋳物師であり原型鋳造師と謳われていたロダンに鍛えられていなければ、間違いなく対処し続けることは出来なかっただろう。
しかし現状では、男が身につけてきた技術でも何とか修復を行えている。後はもう、聖煉の力が含まれた虹光が鎮まるまで原型鋳造を繰り返していけば、消滅は免れるはずだ。
それまで、男が生きてさえいれば希望はある。可能性は皆無ではない。
だから、これは勝負だ。自らの命と存在をかけた、それだけが特別な、ただの根気比べ。
ゴウレムが力尽きるのが先か、それとも先に自分が根を上げるのか。
生まれついての才能など関係ない。ならば男は、負けるわけにいかなかった。
「……寝ずの、作業……得意でよかっタ…………」
誰かに尽くす為に生まれた。自分という存在にそれ以外の価値はないと、物心がつく頃から教育されてきた。
だからオヤジさんとイェフナと過ごした日々は本当に幸せだった。満たされていた。二人の為に生きていこうと誓っていた。
生きる目的は、それだけで十分だった。
男は無性に、その想いをイェフナに伝えたくなる。
これまでの思い出が走馬灯のように脳内を駆け巡っていく。そのほとんどがイェフナと養父の記憶だ。苦い思い出もあった。それ以上に楽しかった思い出があった。
そして、すぐに記憶は出しつくした。
徐々に意識が消えそうになり、全身の感覚がなくなっていく。おぼろげになった存在では、地面に足をついて立っているのかさえ定かではなかった。
頭に響いていた声も聞こえない。自分が生きているのか、それさえあやふやだ。
馬鹿な……。
そんな時に届いた、聞き覚えのある音の振動。男は何とかそれが、何者かの言葉だと認識できた。
その状態で朝まで生き延びたのか?
驚きに満ちた声色で声の主は続ける。
質問をされたように思い、男は必死に口を開いた。
「な……っテ……ま、だ……ヨ……る」
辺りは真っ暗なのに、可笑しな事を言われる。
律業の力……いや、違う。それだけでは説明がつかない――
「どうしてお前は、その《《ゴウレムを鋳造出来た》》?」
その一言を聞いて全身の力が抜ける。
一瞬穏やかな温かさを感じ、大きな達成感を覚えて、男はその場に崩れ落ちた。
「肉体の、限界か……ロダンの置き土産。愚生にも並ぶ愚者め……」
聖煉され消滅しかかる命を見下ろし、アレクセイは息をつく。
「だがそれ故に、その散り様は度し難くも美しいものだ……」