episode.1
退屈で人は死ねる。空を見上げながらマリーベルはそんなことを考えていた。
マリーベルがいるのは、庭園の奥に設置されたガゼボの一つ。周りには色とりどりの花々が、庭師によって美しく整備されている。計算しつくされた精緻な庭にはしかし、マリーベルしか見る人がいない。このガゼボは庭園の奥…つまり、屋敷からはそこそこ遠い場所にある。屋敷から二十分近く歩かなくてはならないこの場所に、好んで来るのはマリーベルくらいなものであった。
しかも、現在は月が夜空に輝く時間帯である。いくら暖かい蜜の季節とは言え、夜は風も強く長く過ごすには向かない気候だ。
ここでは暖かい蜜の季節と、寒い実の季節に一年が分かれている。蜜の季節は陽光暖かな過ごしやすい時期だが、実の季節ほどではないが夜の風は冷たい。実の季節は夜が長く、平均して曇り空が多い。風も肌寒いものの、防寒着を着ていれば問題なく活動できるぐらいの寒さだ。
ではなぜマリーベルはこのような時間に、このような場所にいるのか。それは案外簡単な言葉で説明がつく。『眠れない』のだ。
いくら瞼を閉じて意識を手放そうと唸っても、一向に眠りが訪れてくれない。そもそも唸っている時点で自らの睡眠を聴覚から邪魔しているのだが、残念ながら頭がそれほど強くなかったマリーベルはそれに終ぞ気が付かなかった。
そのような理由で寝付けなかったマリーベルはこうして一人、退屈と格闘していたのである。マリーベルは今年で十六。立派な大人の仲間入りを果たした。結婚するのも、大体が大人になった十六から、遅くて十八の間。大人になってからすぐに結婚できるように、娘を持つ両親は娘が大人になるまでに相手を見つけておくのである。富裕層の人間というのは富裕層同士でくっつくことが理想とされており、マリーベルの両親も例にもれず、マリーベルを彼らのお眼鏡が叶う人物へと嫁がせた。
しかし、夫となった人物はマリーベルに目をかけてくれることはなかった。何をやらせてもどうもうまくいかないマリーベルは紅茶を淹れることも、社交場での淑女の振舞いも人並み以下だったからだ。夫であるはずの男は早々に見切りをつけ、今ではマリーベルのことを埃か何かのように扱う。今夫の隣にいるのは器量の良いとても美しい女性だ。所謂愛人というものであるが、マリーベルの存在は屋敷内でも既にあってないようなものだったので、実質彼女が正妻のようなものであった。
夫と夜を共にするのも、社交場にて夫を支えるのも今ではその愛人の役割であり、マリーベルはただただ無為に時間を浪費するしかない。趣味もなければ好きなこともそれほどない。周りから言わせれば、マリーベルはひどくつまらない女だった。
己の髪の毛を一房とって眺めても、面白みのないくすんだ金髪が風にそよぐのみ。ここに鏡でもあったなら、自身の青い瞳が映っただろう。どちらも特に特出したところのまるでない、よくある色だ。顔の作りも不美人というわけではないが特別可愛いということもない。まあ可愛い程度。
しかし本人の能天気そうなぽやっとした雰囲気がいけないのか、マリーベルはどうにも人の記憶に残らない人間だった。顔を合わせている時はまあまあ可愛いと認識されるはずなのに、別れた後に思い出そうとするとどんな顔だったか曖昧なのだ。
けれど、そんなマリーベルにも一つ得意と呼べるものがあった。それは、歌うこと。こうして誰もいない庭園で、もやもやした気持ちを発散するように歌にのせるのが、最近のマリーベルが持つ唯一楽しい時間であった。
今日も、そうしてマリーベルは歌っていた。東の国のお姫様が西に住む心優しき魔物と出会い、恋に落ちる。そうして二人は仲良く暮らす。そんな歌詞が付いた歌を。
この生活に、不満があるわけではない。けれど、幸せでもなかった。歌にあるような恋など知らず、たった一人、冷たい鳥籠の中で一人息を引き取るかのように一生を終えるのか。そんな底知れない寂しさと恐怖を吹き飛ばすように、その声は伸びやかに響き、夜空に溶ていく。
聞きなれない羽音がしたのは、そんな時であった。
ウグイスは昔から、歌を歌うのが得意ではなかった。それは、歌を求愛方法とする鳥族では決定的な欠落で、同じ男であるガルーダにも女であるハルピュイヤにも嗤われた。そんな歌じゃ、誰も振り向いてくれやしないと。
ウグイスたちのような鳥族は、一般的に男の鳥族をガルーダ。女の鳥族をハルピュイヤと呼び分ける。ウグイスはもちろんガルーダだ。鳥族にとっての歌は、求愛時に個体の優劣を競うもの。当然、歌がうまければうまいほど異性として求められる傾向にある。そんな鳥族の中、調子外れな歌しか歌えないウグイスは、言ってしまえば塵のようなものだ。視界に入っても、すぐ風と共に消えてなくなってしまう。
基本歌声が全ての鳥族だが、同じぐらいの歌声であれば他の部分で優劣をつけることもある。その時は、翼の色彩の鮮やかさや、体の逞しさなどで競うことが多い。ちなみにウグイスの翼は茶色一色で、地味と称されることが多い。体つきもどちらかといえば細く、男としての逞しさはあまりない。ハルピュイヤたちにとって、ウグイスとはどれをとっても冴えない貧相なガルーダ。これに尽きた。それでも、練習すればもしかしたら上手に歌えるようになるかもしれない。ウグイスは努力を怠るような真似はしなかった。たとえその成果が一向に挙がらなくても。
今日とて一生懸命練習していたのだ。そこを意地の悪いハルピュイヤに嗤われたため、傷心を癒そうと空をゆっくりと飛行していた。
そんな時だ、歌声が風を切る音に交じって聞こえてきたのは。その歌声は、今まで聞いたどんなハルピュイヤの歌よりも美しく、澄んだ湖のように荒れた心を癒していった。
もしかしたら、この綺麗な歌声の人が誰かに求愛しているのかもしれない。そう思ったら居てもたってもいられず、声の主を求めて旋回した。
鳥族は容姿よりも、歌で魅力を競う。それは鳥族にとって、歌が求愛行動だけではなく、その人の印象を決めるものだということ。綺麗な歌を歌うならその人はきれいな人。下手な歌を歌うということは、その人は醜いということ。美醜の判断も、鳥族にとってはまず歌なのだ。ウグイスとて、それは例外ではない。有体に言えば、ウグイスは既に、この歌声の持ち主に惚れこんでいたのである。その惚れこんだ人が誰かに求愛をしているなどと考えたら、自分に魅力がないことなど百も承知で邪魔したくなったのだ。
空から着地した後、ウグイスはその真っ黒な目を顔ごときょろきょろと動かした。自分以外の雄を探してキョロキョロと。そうして、自分以外の雄はいないと知り、ほっと胸を撫で下した。そうしてやっと、目の前にいる人間の女性に目を向ける。あの歌が、まさか人間の女性のものだったとは。ウグイスは密かに驚いた。女性は呆然とウグイスを見つめている。穴が開くほど見つめられ、少し気恥ずかしくなったウグイスは、チャッと喉から音を出した。
昔から、恥ずかしくなったり動揺したりすると、こうして喉がなってしまうのだ。こんな音を出すのは話し始めたばかりの小さな子どもくらいなもので、それもありウグイスは周りの鳥族から一層未熟だと嗤われているのである。そのことを思い出し、目の前の女性も自分を魅力の欠片もない雄だと思ったかもしれない。焦ったウグイスはしかし、そのせいで余計に喉からチャッチャッ、と喉を鳴らしてしまう。こういう時、自分が表情の分かりにくい質で良かったと心の底から思う。表情がまるわかりになっていたら、赤くなったり青くなったりと、さぞみっともなかったことだろう。
ウグイスが内心で大慌てだというのに、目の前の女性は全く構わずにまた歌い始めた。そう、変わらずに座ったまま、ウグイスの前で。ウグイスは自身の羽が全て逆立つかのような感覚に見舞われた。この美しい人が、醜い自分に求愛してくれている、と。それは残念ながら全くの勘違いだったのだが、双方ともに言葉という会話手段を忘れていたため、二人の間にある勘違いは消えそうもなかった。
一曲が惜しくも歌い終わった。ウグイスは決死の覚悟を決める。一目ぼれした人に、求愛されたままで終わるなど男ではない。ウグイスは必死に目の前の女性に向けて歌った。それはやはり、調子外れで上手とはいい難い歌だった。
ウグイスは必死に歌ったのだが、女性の口からこぼれたのは求愛を受け入れる歌ではなく、小さな笑い声だった。やはり自分の歌ではだめだったのだ。ウグイスはがっくりとうなだれ、ショックのあまりその真っ黒な瞳からはぽろぽろと涙があふれ出す。女性がぎょっとしたように目を見開いたことにすら、ウグイスは気が付かなかった。