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高良家の庭  ※名桜大学懸賞コンクール優秀賞

作者: 石川みもり

 


 俺は夢を見ていた。

緑がうっそうと茂る森の中。獲物を追って駆ける夢。

俊敏な獲物は俺の牙を恐れ、巣穴に逃げ込もうとする。その後ろ脚に噛み付き、穴から引きずり出す。哀れな獲物は必死の抵抗を試みるが、俺は無慈悲な捕食者。あとはやわらかな喉元にかぶりつくだけ……。


 ピロリーン。

 不快な電子音が爽快な夢から俺を引きずり起こした。

「あ、ジョイったら、まだ起きないでよ。面白かったのに」

 耳元で甲高い声がする。日に焼けた肌に、らんらんと輝く大きな目。携帯をかまえた春菜が俺を覗き込んでいた。

「春~かわいそうでしょ、ジョイちゃんお昼寝してるのよ」

 ママがテレビを見ながらたしなめる。

「だって、珍ペット動画に採用されたら有名になれるのよ。絶対ウケるって。白目むいて笑う犬」

 またそれだ。

 先月、春菜が撮った俺の写真が新聞に載った。

 俺がびりびりに破いて遊んでいたタンカンのダンボール箱。春菜は『キケン! 噛みます!』とマッキーペンで殴り書き、その中に俺をほうりこんだ。

「動物虐待で訴えてやる!」と歯噛みした俺を撮って、笑い転げながら「うちのペットちゃん」コーナーに送りつけたのだ。

「今週のあぎじゃびよ~な犬賞」をとったその写真を春菜は携帯の待ち受け画面にしている。ダンボール箱から鼻を伸ばして、目と牙を剥き出した俺はまるで狂犬。屈辱的なその写真を眺めて奴がニタニタ笑うのを俺は何度も目撃している。

今度はテレビで俺を笑いものにしようと企んでいる春菜は、俺のストーカーになり昼も夜もムービーで俺を撮る。

 これ以上、奴の餌食になってたまるか。俺は由緒正しい、血統書付きのダックスフントなのだから。俺は寝ていたソファから飛び降りると、網戸を蹴って庭に出た。


 高良家の庭は広い。

「庭が広くたって、家がボロじゃ彼氏も呼べない」と、春菜はママを困らせるけれど、この庭は俺の森だ。

 背の高いアブラナには、毎年たくさんの黄色い花が咲いて色とりどりの虫が集まるし、パパが植えたパパイヤの実を食べに野ネズミが来ることもある。

ダックスフントは、もともとは外国の猟犬だとママが教えてくれた。

「胴が長いのも、足が短いのも、森の中で穴の中に逃げる獲物を狩るのにはすごく適しているのよ。ジョイちゃんは小さくても由緒正しきハンターなのね」

 だから俺は日に何度も庭に出て、パトロールする。ママが干した洗濯物が落ちていないか。お隣の旦那さんのゴルフボールが入り込んでいないか。

庭の始まりの柵から花壇に敷かれたレンガ、物干し竿の根元、最近つるが伸び始めたゴーヤの苗。ひとつひとつを丁寧に嗅ぎ、要所、要所にパトロール済みのマーキングを施す。

 小さな変化も見逃してはいけない。ハンターの仕事は毎日の点検が肝心だ。


 ひととおりパトロールを終え、昼寝場所と決めているクローバー畑に寝転んだ。ここは高良家とお隣を隔てる塀の下で、昼過ぎには塀の影が伸びて、過ごしやすくなる。クローバー畑は寝そべると柔らかで気持ちが良いし、あごを置くのにちょうど良い、木の切り株もある。

ちょっとお昼寝……。

うとうとしかけたその時、目の前の塀にふわりと飛び乗る毛むくじゃらの姿が目に入った。

さっそく侵入者だ。

「おい!お前、降りて来い!」

 俺の怒鳴り声に驚いた侵入者は一瞬全身の毛を逆立てたが、俺の姿を見つけるとすぐに居直った。

「やあね。下品な大声出しちゃって。これだから犬ってイヤだわ」

 侵入者はふん、と鼻を鳴らすと、しっぽを揺らして悠々と塀の上を歩き始めた。ごわごわの毛深い体に、意地悪そうな目をした侵入者は隣の奥さんのニャンコ、シャネルだ。

「ママの花壇にうんちして行くニャンコは、お前だろ。今度見つけたら水鉄砲当ててやるってママ言ってたぞ!」

 できる限りの大きな声で脅してやる。

ママは、植えたばかりのパンジーをニャンコのうんちから守る為に百円ショップで水鉄砲を買ってきたと自慢していた。ママだって、時にはりっぱなハンターになるのだ。

 シャネルはそんな俺の脅しも鼻で笑った。

「ふん、うちのご主人様なんて、あんたがいつもワンワンうるさいから、パンにはさんでホットドックにして食べてやるって言ってたわよ」

 なんて恐ろしいことを平気で言うニャンコだ。でもお隣の奥さんならやりかねない。あの巨体なら、俺一匹くらいぺろりと平らげてしまうだろう。

ぶるぶる。恐ろしい。今度奥さんが区費の徴収に来ても吠えるのは我慢しよう。


塀の上のシャネルにもう少し怒鳴ってやろうと顔を上げたその時、午後の庭に突然冷たい風が吹いた。

 それは、シャネルのごわごわの尻尾を揺らし、俺のヒゲをくすぐり、庭全体を静かに撫ぜた。背筋に悪寒が走る。ふと、誰かの視線を感じて目を上げる。

そこに、大きな黒い犬がいた。

 そいつは、俺がさっきまで寝転んでいたクローバー畑に静かに座ってこっちを見ている。

 いつの間に? いったいどこから?

 俺は吠えることも忘れて侵入者を見つめた。体の毛も相変わらず危険信号を発している。身じろぎできない俺に、そいつは音もなく近づいてきた。

やばい、やられる!そう思った瞬間、また風が吹いた。今度はただの風じゃない。俺の体の中に、冷たい風がどっと吹きこんでくる。突然の侵入者は、しばらく渦を巻き、やがて俺の中におさまった。気がつくと、目の前にいたはずの大きな犬は跡形もなく消えていた。

 俺に何が起こったのか、見ていたのは塀の上のシャネルだけ。

「なに、今の?」

間抜けな質問をした俺に、震える声で答えた。

「ケンよ! ケンのゆうれいだわ!」

「ケン? あの犬のこと? 何でお前、知ってるんだ? ゆうれいってなんだよ?」

 今にも逃げ出しそうなシャネルを必死で引き止める。

「あんたが来る前に飼われてた犬よ。ずっと前に捨てられたはずよ。戻って来たんだわ!ゆうれいになって。あんたも、あんたんちも、きっと呪われるのよ!」


 高良家に俺がもらわれて来たのは2年前の春。

それまで飼われていたのはヘアーサロンをやっている夫婦の家だった。俺には兄弟が6匹もいて、みんな大きくなったので夫婦は『こいぬあげます』の張り紙を出した。高良家はその張り紙を見てやってきた。

箱の中で好き勝手に動きまわるそっくりな兄弟達の中から、春菜は吠えてばかりの俺を抱き上げた。

「その子でいいの? 大人しい子もいるし、もう芸ができる子もいるのよ」

ヘアーサロンの奥さんが言った。その言葉を聞いて、子供の俺は少し情けない気持ちになった。でも春菜は俺を放さなかった。

「この子、吠えてばかりだから、他のおうちではきっと飼えないよ。でもうちは、庭が広いから大丈夫。家はボロだけどね」

パパとママはそんな春菜を見てにっこり笑っていた。


 高良家が、前にも犬を飼っていたことは知っている。春菜の部屋のベッドの脇に、一枚の写真が飾られている。今より少しだけ若いパパとママ。その間に、まだあどけなさが残る春菜と、見たことのない大きな黒い犬。

俺は、この写真が嫌いだ。春菜は俺の変な写真は携帯で撮って笑うくせに、この写真を見る春菜は悲しそうな顔をする。

 庭で見た、大きな黒い犬は写真の犬に似ていたかもしれない。


 夜になって、パパが帰ってきた。

 ママがご飯を作り、春菜がそれを手伝い、パパは俺の皿にドッグフードを入れる。

「いただきます」の号令で、家族揃って夕飯を食べる。パパはビールを飲み、ママと春菜はおしゃべりに夢中。いつも通りの高良家の団欒。

 でも俺は、いつも通りにドッグフードを完食することができなかった。

「ジョイちゃんどうしたの? お腹痛い?」

 優しいママがすぐに気づいて俺を抱き上げる。隣に座ったパパも俺を覗き込んできた。

「どうしたジョイすけ。夏ばてか?」

春菜も心配そうに俺を見ていたが、すぐに笑って冗談を言った。

「恋の病よ。ジョイったら、お隣のシャネルちゃんと今日も庭で密会してたんだから」

「あら、あのニャンコまた来ていたの? なんで教えてくれなかったの。ママ、水鉄砲の準備してたのに」

「ママ、それを近所の人が見たら、動物虐待で訴えられるぞ」

 あはは、とのん気に笑う三人。この人達が犬を捨てた? シャネルの言葉が俺の胃を重くする。

耳の中でびゅう、と風がうなるような音を聞いた気がした。ママの膝を飛び降りると、俺はリビングの隅に置かれた寝床に向かった。


 俺は夢を見ていた。

 まだ幼い頃の夢。暖かい毛布に包まれて、この家にもらわれて来た日。毛布の隙間を覗き込み俺に笑いかけた春菜は、まだ歯も生え揃わないよちよち歩きの赤ん坊だった。

 次の夢は暑い夏の日。

 春菜はずいぶん大きくなった。俺はそれよりもっと大きく成長して、庭の木につながれている。春菜は小学校から帰ってくると、俺をつないでいる紐をはずす。ママが「まるで兄妹みたい」と言っていた。俺たちは陽が沈むまで夏の庭をかけまわる。

 夢はどんどん進んでいく。

 

次の夢は春の庭。

新しいにおいのする制服を着た春菜が、おめかしをしたパパとママをひっぱって庭に出てきた。今日は中学校の入学式。「家族みんなで写真を撮ろう。ケンもかっこよくしようね」春菜は俺にも青いバンダナでおめかししてくれた。パパとママの間に俺と春菜。家族4人で写真を撮った。

 

最後の夢は悲しい雨の日。

 知らないおじさんが、俺の紐を引いている。

 春菜は部屋の窓からじっとこっちを見ている。その顔には赤く腫れた、たくさんの湿疹。俺のせいだと誰かが言った。春菜が病気になるから、俺は他の誰かに飼ってもらうのだと。春菜の家族だったのに。俺たちは兄妹だったのに。家族で写真も撮ったのに。


 目が覚めたとき、俺はすごく悲しかった。これは俺の夢じゃない。俺の中に入り込んだ大きな黒い犬の記憶。

胸の中で音を立てて風が吹きすさぶ。

 春菜が好きだったのに。

家族だと思っていたのに。

 そんな悲しい思いを忘れきれなくて、命が尽きた後ケンは春菜に会いに高良家に戻ってきたのだった。


 目を開けると、夜だった。月明かりが網戸から差し込んでいる。

「写真」

俺は口に出していた。ケンは家族で写真を撮ったことを覚えていた。あの写真俺も見たことがある。あれは、たしか……。


「ケン、春菜は君のこと忘れてないよ。写真があるよ。春菜の部屋に」

ぐん、と体の中で風に引かれた気がした。

体が動かなくなる。自由に動かせなくなった体が、内側に入り込んだ風に支配されていくのを感じた。

俺の足が勝手に歩き始める。

薄暗いリビングを出て、しんとした台所を横切る。春菜の眠る部屋は、廊下の突き当たりだ。開けっ放しのドアをすり抜けて中に入る。

 寝息が聞こえる。春菜は眠っていた。ケンに動かされている俺は、その枕元に近づく。ベッドに前足をかけて寝顔に鼻を近づける。暗い部屋の中で、閉じたまつげの一本一本が見えた。

 

写真は、ベッドのすぐ脇に飾られていた。

ケンの記憶の中で見た、春の日の高良家の写真。そして、一緒に並べられていたのは、あの日春菜が巻いてくれた、青いバンダナ。

 耳の中から、ごう、と音がした。それが「春菜!」と呼ぶケンの声に聞こえた。

「ジョイ?」急に呼ばれて、我にかえると眠っていた春菜が目を覚まして俺に手を伸ばしていた。

「わん!」大きな声で、俺の中のケンが吠えた。

「違う!俺はジョイじゃない!忘れたの?」ケンの声がはっきりと耳に響く。

「春菜、俺を忘れたの? 家族だって言ったよね、春菜!」ケンの声は春菜には分からない。吠えても、吠えても、犬の声は人間には伝わらない。

「どうしたの、ジョイ」ただ、ただ差し出された春菜の手の平を舐める。

「ジョイ?」体を起こした春菜は、手を引っ込めた。ただごとでない空気を感じたようだった。普段の俺は、差し出された人の手を舐めたりはしない。家族に向かって吠えたりはしない。

「わん!」もう一度吠えて、ケンは青いバンダナを口にくわえた。春菜がはっとする。かまわず、庭に向かって走った。ベッドから置きだした春菜も、スリッパのまま庭に出る。


 夜露を孕んだ庭は、昼間よりもずっと涼しい。草むらのひとつひとつで虫達が合唱している。月明かりに照らされて俺の影は黒く大きく地面に伸びた。本物のケンみたいだと思った。その後を、パジャマのままの春菜が追いかけてくる。

いつかの夏の思い出がケンを通して、俺の中に広がる。春菜と走り回った、広い広い庭。

 

あの切り株は暗闇の中でもはっきりと分かった。俺の足は、そこで止まった。青いバンダナをくわえたまま、春菜を待つ。

息を切らして追いついた春菜が、息をのむのが分かった。らんらんと輝くその目にはバンダナをくわえて自分を待つ黒い大きな犬が写っていた。

「もしかして……」

春菜の声が震える。

「ケンなの?」

春菜はじっと俺を見つめた。俺の中から他の誰かを探すように、息をこらして瞳をのぞきこんでくる。

「わん!」俺の喉が声を発した。ケンが春菜に答えたのだ。

 その答えを聞いた春菜は、はじかれたように立ち上がると、家に向かって走って行った。


 俺の中にケンがいる。春菜も確信したのだ。きっとシャネルのように、ゆうれいになったケンが恨みに来たと思ったのだろう。恐ろしかったのかもしれない。俺の中の風がまたひゅうと小さくうずく。

しかし、春菜は戻ってきた。今度は何かを大切そうに手に持って。

 甘い、乳臭いにおい。

「これ、飲んで」白い液体を入れた皿が俺の前に置かれる。ミルクだ。

一度飲んで腹を下してから、俺はこれが嫌いになった。においを嗅ぐだけで逃げ出したくなる。それなのに、体は言うことを聞かない。舌を伸ばしてミルクを飲む。そんな俺を春菜はじっと見つめている。

ああ、きっとケンの好物だったんだ。春菜はそれを思い出したんだ。


 俺がミルクを飲み終えるのを待って、春菜は確かめるように小さな声で話しかけてきた。

「ケン、ケンだよね」

伸ばされた手に俺の中のケンが戸惑ったのが分かった。

「おいで、ケン」その言葉に、彼はすんなりと春菜の手を受け入れた。

首筋から背中を撫でる。いつもリズムよく動く春菜の手は、ゆっくりこわごわと俺の毛並みに触れた。

「ごめんね、ケン。」

そして、今度は両手で俺の顔を優しく包み込むと、自分の顔を近づけてきた。

「最後まで飼ってあげられなくって、ごめんね」春菜の息が鼻にあたるのを感じる。

「家族だって言ったのに、一人ぼっちにしてごめんね」今度は温かい水が鼻にあたった。彼女は泣いていた。

ごめんね、ごめんねと繰り返すその口に、頭をこすりつけ流れた涙を拭いてやった。春菜のあごから頬を舐め上げてやる。しょっぱい味が口に広がる。

低くてかすれたケンの声が、俺の中に響いた。

「泣かないで。泣かないでいいよ、春菜。ありがとう。忘れないでいてくれてありがとう」

春菜には聞こえないその声を、俺が受け止めてやることにした。

「いいよ、ケン。今だけ俺の体、貸してあげる。春菜にお別れを言いにきたんだろ」

俺の声が聞こえたのか、俺が力を抜くと抵抗なくケンが俺の体を使い始めたのが分かった。

春菜の涙も、撫でる手も、しばらくはケンだけが受け取った。


受け取って、許して。

そして大きな黒い犬はいつの間にか、俺の中から消えていった。


 次の日、晴れ渡った庭にはトンボが飛んでいた。昨日ケンと会った切り株のクローバー畑に、春菜がミルクの皿を置いていった。今朝、俺の前にその皿を置いた春菜は、口をつけない俺を見て、もう俺の中にケンがいないことを悟ったようだった。

 俺は塀に向かって叫んだ。

「おい、怖がりニャンコ。そこにいるんだろ、ちょっと出てきてみろよ」

さっきから、塀の向こうからシャネルのにおいがぷんぷんしていた。塀のすぐ向こうでこちらの様子を伺っていたのだろう。

「なによ、バカ犬」

奴はすぐに姿を現した。

「降りてこいよ、今、うちのママはお料理中だから水鉄砲は飛んでこないよ」

「それよりさ、春菜がミルクを入れてくれたんだ。俺好きじゃないから、お前にあげるよ」

 本当はケンのミルクだけれど、あいつは昨日の夜もう飲んだから。おすそ分けだ。

「親切が怖いわね。噛み付いたりしたら、鼻をひっかいてやるからね!」

憎まれ口を叩きながらも、シャネルはこちら側に降りてきて、皿のミルクを全部飲んだ。

「ねえ、昨日の話の続きだけど。ケンはなんで捨てられたの?」

シャネルはミルクのなくなった皿をきれいに舐め、前足で器用に顔をぬぐい、その足もしっかりと舐めた。シャネルの食後の顔洗いを邪魔しないように、俺は静かに返事を待つ。


「春菜ちゃんが、犬アレルギーになったからよ」

シャネルは尻尾の先まで舐め終えた後、面倒くさそうにそう言った。

「犬アレルギー?」

「顔にも体にも、赤い湿疹ができたの。薬を飲んでも治らなくて、犬を飼ってるからじゃないかってことになったのよ。だから、ケンを飼えなくなったの」

ケンの記憶の中で見た、真っ赤な顔の春菜。あれは、その時の春菜だったのか。

「じゃあ、俺も……俺も犬だから、春菜はまた犬アレルギーになるんじゃ?」

ケンのことは他人事じゃない。春菜が犬アレルギーなら、俺だって……

「いつか捨てられちゃうの? 家族じゃなくなるの?」

動揺する俺を、シャネルは鼻で笑った。

「ばかね。また捨てるのなら、犬のあんたをわざわざもらってくるわけないでしょ。春菜ちゃんの病気は、犬アレルギーじゃなかったのよ。ケンがもらわれて行ってしばらく経っても、あの子の湿疹は良くならなかったの」

俺は面食らった。

「じゃあ、なんだったの?」

もったいぶったように立ち上がったシャネルは、クローバー畑の中に埋もれた切り株の上にふわりと立った。

「この木が原因だったのよ」

それは、ケンがまだ高良家にいた頃、紐でつながれていたあの木だった。

「うちの奥様が気付いたのよ。そして、あんたんちのママに教えてあげたの。それ、漆の木じゃありませんか?って」

「うるしのき?」

「あんた、何も知らないのね。テレビとか昼ドラとか見ないわけ? 漆の木の汁を触るとかぶれるのよ。敏感な人間は、近くに行くだけで湿疹が出ちゃうの。春菜ちゃんは犬アレルギーじゃなくて、漆アレルギーだったのよ!」


「じゃあね、ワンちゃんご馳走様」そう言って、シャネルはひらりと塀の向こうに消えた。

 俺はクローバー畑に寝転んだ。目の前には切られてしまった漆の木。

 かわいそうなのは誰だったんだろう。

もらわれていったケン? 湿疹に苦しんだ春菜? 切られてしまった漆の木?


 ふう、とため息をつくと、大きな赤トンボが鼻の上に止まった。

ピロリーン。

「ママー! 決定的瞬間が撮れたよー!」

甲高い声に振り向くと、春菜が携帯を振り回しながら、家に走っていく後ろ姿が見えた。

 やれやれ。

 

 その年の冬、春菜はうわさの彼氏を家に連れてきた。

「家がボロだから恥ずかしい」と言ってずっと連れてこなかったくせに、「これが我が家ですレトロでしょ」と自慢気だ。

ひょろりと背の高い彼氏は、あまりしゃべらず少し緊張しているようだ。そんなゲストを迎えママはいつもの倍おしゃべりになり、パパはいつもよりずっと無口になって高良家は異様な空気に包まれた。俺は吠えるのを我慢して侵入者の様子を伺うことにした。

 緊張する人々にお構いなく、春菜は彼氏を庭に誘った。俺も侵入者の監視をするために後を追って庭に出る。

二人は手を繋いで庭をしばらく散歩すると、切り株のあるクローバー畑に座った。


 俺もしっかり二人の膝元に座り、彼氏のジーパンに鼻を押し当て調査を開始する。

 石鹸のにおいと車のにおい。タバコのにおいはしない。俺の嫌いな香水のにおいもしない。かすかにハンバーガーのにおいが……。まさか、お前、ホットドックは食べないだろうな。

 俺の入念な調査がくすぐったいのか、彼氏は声をころして笑っていた。

 

あの夜、俺は消えていくケンの最後の頼まれごとを聞いていた。

「ジョイ、春菜がお嫁に行くまで守ってやってくれよ。もしも、悪い男や変な男がついて来たら君がそいつを追い出すんだぞ」

 わかってるよ、ケン。

でも、たぶん大丈夫だと思う。


 俺の調査が一段落するまで見守ると「撫でていい?」と聞いてから、春菜の彼氏は大きな手で俺の背中を撫でてくれた。ぎこちないしぐさを春菜が目を細めて見守る。二人は気付いていないけれど、きっと家の中からは、パパとママがこちらの様子を伺っているんだ。

 

 大丈夫だよ、ケン。

 春菜が結婚する時には、また家族で写真を撮ろう。

 君も過ごした、この庭で。



※2011年名桜大学懸賞コンクール優秀賞受賞作


****読んでいただきありがとうございました****

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