狩り
静に眠りの底を漂っていたヴィンセントは乱暴な物音に叩き起こされた。慌てて飛び起きると、部屋のドアが乱暴にノックされている音だった。
「おーい。起きてるか?」
今、正にアレックスのノックと声でたたき起こされた所だが、まだ頭がはっきりとしないヴィンセントは慌てて返事した。
「はい。起きてますよ」
「今日は天気も良さそうだし、ちょっと狩りに行こうぜ! 支度が出来たら出発するからな。早く来いよ」
そう言って、ドアの向こうで足音が遠ざかっていく。それまでの騒がしさが嘘のような静寂に包まれた。
「狩り?」
窓に目を向ける。
カーテンはまだうっすらと外の明るさを伝えるだけで部屋の中も薄暗いく部屋の温度もひんやりしている。とても日が昇っているようには思えない。
「……」
ヴィンセントは、一度ぼふんと布団に倒れ込み、布団の温もりの名残を惜しんだ後、のそのそとベッドから下りて着替えを始めた。貴族にしては規則正しい生活を送っていたヴィンセントだが、さすがに太陽が昇る前から動き出した事は無かった。
慣れない時間に叩き起こされ状況を理解できないまま、のろのろとした手つきで洋服を着替え上着を着ると、内ポケットにはここ数日の手伝いの成果で少し重くなった財布を入れた。
別に盗まれる事を恐れた訳ではない。
そもそもヴィンセントは物を気軽に盗まれる立場に今まで居なかったので、その事には思いも至らない。ふとした拍子に不安が過った時に、財布の重みが少しだけ、ここ数日の頑張りを褒めてくれている気がするのだ。
洋服をきっちりと着こんで階下に降りて行くと、すっかり準備を整えたアレックスが、満面の笑みで待っていた。
「これから狩りに行くぞ。ご馳走獲って来ような! はい、これヴィンスの分の荷物な!」
言われるがまま、差し出された鞄を受け取る。
狩りに必要なナイフや弓と弓矢。獲物を回収するのにロープ、小腹が空いた時用の木の実に水筒。色々な物が準備万端に用意されていた。
起き抜けのヴィンセントの気を一番引いたのは、部屋中に漂う香ばしい匂いの方だった。
「何か、良い匂いがします」
アレックスはその言葉に慌ててオーブンを確認した。
オーブンの中からは、ぱんぱんに膨らんだ半円形のパンのような物が出て来た。匂いの元はこれだったのだ。カーブに沿って生地が摘ままれていて、包み焼きの様だった。
「おお、丁度出来上がりだ。これは持っていく弁当だからまだ食べないからな! 朝ご飯は何時ものパンとベーコンと卵だぞ」
すっかり見慣れない食べ物に興味が引かれていた所だったので、ヴィンセントはがっかりした。それが目に見えたのだろう、アレックスが噴き出す様に笑た。
「ちゃんと後で食べさせてやるって」
「……ありがとうございます」
食い意地が張っていると言われたようで恥ずかしかった。
狩りの道具を持って山に入ると、何時も騒がしいアレックスが静かになる。耳を澄まし、気配を探る。
聞こえるのは、木々の擦れあう音に遥か遠くで鳥が鳴く声。
「この先に池がある。鳥が良く来るんだ。今日もいると良いんだけどな」
小さくひそめた声で言うと、この山を庭の様に知り尽くしているアレックスが先導して、山の奥へと進んでいく。
やがて表れた池はとても小さかったが、清く澄んだ水で満たされて静かな鏡の様な水面が太陽を反射して輝いていた。
アレックスが指を振って合図を送る。
小さく指だけで示した先の枝に隠れるように鳥がとまっていた。
アレックスの唇だけが動いた。
『お前の獲物だ』
ヴィンセントは笑みを作って頷くと、弓を構え、弦を引き絞って放つ。
空気を切り裂く僅かな音と矢が堅い物に当たった音。鳥は木の葉を散らして飛び立っていった。
アレックスは首を傾げ少しだ考えこむと、新しい矢をつがえて放った。今度は思った場所に当たった。いつもヴィンセントが使っていた弓と癖がちがった様だ。
「思ったより右に逸れてしまいました。大丈夫、次は当てます」
「そうみたいだな。期待してる」
二人は笑い合うと、さらに森の奥へと進んでいった。
山を知り尽くしていたとしても、獲物に出会えるかどうかは運によるところも大きい。
アレックスは首を傾げた。
「中々獲物が見つからないな。いつもならもう少し居てもおかしくないんだけどな。もう日も高いし、昼飯にしようぜ。少し先に休憩するのに良い場所があるんだ」
案内されたのは水の湧く小川の源流。
休んで腰掛けるのにちょうどいい倒木があり、すっかり空になっていた水筒に水を補給して手を洗うと、腰掛けて弁当として持ってきた包みを広げた。膝の上に広げた布の上にぱんぱんに膨らんだ三日月型の包み焼き。
ヴィンセントは、どうやって食べたらよいのかと、アレックスを盗み見た。
「始めて食べるだろ? お上品な食べ物じゃないからな。これは工夫達が良く食べてる弁当なんだ。汚れた手でも食べられるように。一番外側の生地は、パイ生地だからもし汚れたら一枚を剥がして捨てながら食べればいい。今日は汚れてないから捨てる必要は無いけどな。まぁ、要するに食べ方は、かぶり付けばいい」
アレックスは説明すると、三日月型のパイにかぶりついて咀嚼した。その様子を見たヴィンセントもアレックスに倣ってかぶりつく。
パイ生地は携帯用に少し硬めに練ってあった。ザクザクとした生地の歯触りの後に、中に包まれていた玉ねぎの甘味と牛肉の肉汁が溢れて来た。山の中を獲物を求めて歩き回った後なので、濃い目の味付けが美味しい。
三日月型のパイは一つだけはなく幾つか入っていて、ヴィンセントは全てを夢中で食べた。
食べ終わってから我に帰ると、ヴィンセントの食べっぷりをアレックスが呆れた様子で眺めていた。
「旨いか?」
「とても美味しいです」
「……それは良かった。デザートに、木の実とドライフルーツを持ってきている」
「頂きます」
即答すると苦笑いしながらもアレックスは嬉しそうに笑う。
木の実を摘まみながら、アレックスが獲物が居そうな場所を挙げながらこれからの道順を相談していく。
結局、この日は朝に出会えたのは一羽の鳥だけだった。
「何でだろうな? 全然居ないな?」
アレックスはしきりに首を傾げた。
「そういう日もありますよ」
「そうなんだけどな。鳴き声も全然聞こえないし……何だろうな?」
ヴィンセントの慰めにもアレックスは納得いかないと悩んでいる様子だった。
「まあ、仕方ない。残念だけど、今日はもう引き返そうぜ。途中で何かいると良いんだけどなぁ」
帰る道すがらも獲物には出会う事が出来なかった。仕方ないとはいえ、手ぶらで帰る事が残念に感じ、足取りも気持ち重くなった。それでも家の屋根が見え始めると、自然と足が速くなっていく。家へと続く道に辿り着き、足取りは更に早くなる。
そんなヴィンセントの袖をアレックスが引っ張った。振り向くと、静かにというサインが帰って来た。
アレックスは屈みこみ、地面を確認している。
「どうかしましたか?」
「晶喚獣の足跡がある……」
アレックスはそう言って地面の窪みの一つを撫でた。ヴィンセントにはただの地面の凹凸に見えたが、アレックスはそれを足跡だと断言する。
「アレックスの晶喚獣とか郵便屋の方も晶喚獣でここを通りますからその足跡なのでは?」
「おれのは牡鹿だし、郵便屋のは山羊だぞ? どっちも蹄は2つだろ。これは蹄が一つだ。誰かが馬の晶喚獣でこの辺りを通ったんだ」
ここは人里離れた山道とはいえ道であるのだから、馬の一頭や二頭通っても不思議では無いように思った。ヴィンセントは素直にその疑問を口にする。
「何か問題があるのですか?」
「この辺の人間は驢馬ならともかく、馬は使わない」
「何故ですか?」
「馬は草原の生き物だから、山道の移動が苦手なんだ」
アレックスの言葉になるほどと納得した。
「知りませんでした」
「晶喚獣は普通の動物よりも大きく重くなる事が多いのは知ってるか? この蹄はかなり大きくてぬかるんでもいない道でくっきりと後が残っているだろ? この足跡を残したのは、軍用馬の晶喚獣だと思う」
アレックスはため息をついた。
「嫌な予感しかしねぇな」
「目的は私でしょうか……」
「でも、この場所に居る事なんて、まだ誰も知らないだろう?」
ヴィンセントは、
「郵便屋さんに名乗ってしまいました……」
「あー……」
「……すみません」
アレックスは頭を抱え、ヴィンセントは居心地悪そうに誤った。
「過ぎた事は仕方ない。ティムが心配だ。家の様子を見に行こう」
二人は頷き合うと辺りを窺いながら家へと急いだ。