新聞
ヴィンセントの洋服に塩やチーズにハーブ、新聞と入用な物をたくさん買い込んだアレックスは、晶喚獣に荷物を括りつける。
大きな躯体の牡鹿の晶喚獣の背は、それでもまだ十分に開いていて、二人は歩くことなく、晶喚獣に乗ってのんびりと帰ることが出来た。
新しく買った洋服は、裾上げなどの手直しが必要だった。直しさえすれば明日からサイズのあった洋服をヴィンセントが着る事が出来る。
夕食までの間、アレックスはヴィンセントの洋服の手直しを始めた。
ヴィンセントは、裾上げの位置を調べるためにアレックスに付き合っていた。
「よし、後は任せておけ。今日は疲れただろ? ゆっくりしていて良いぞ」
「ありがとうございます」
足場の悪い山道も、行商で買い物をする事も初めてだったヴィンセントは、楽しかった半面少し疲れも感じていた。アレックスの気遣いに礼を言い、借りている部屋で休もうと廊下へ出た。
リビングに差し掛かると、大きな窓の側でティムが新聞を読んでいた。彼の傍らにあるテーブルには幾つかの新聞が積まれていた。
「それは今日買って来た新聞ですか? 私にも読ませて頂けますか?」
「構わんよ」
ヴィンセントは、新しい新聞はどれかと覗き込んだ。
「一番新しいのは、これだよ」
「4日も前の日付ですよ?」
「ここは山の奥ですからな。町から新聞を運んでもらうと、時間がかかってしまうのは仕方がないのですよ。毎日届けてもらう事も出来ないので、一週間分がまとめて一緒に届くことになるんですよ」
「そうなんですか……」
思っていたほど、最新の情報が手に入らない事にがっかりしたヴィンセントだったが、覗き込んだ新聞の見出しに手を止めた。
「リディカ帝国の軍備拡張が加速……大帝国復活の兆しか……市民生活に打撃、相次ぐ税金値上げ…………どういう事ですか、これは……」
新聞の見出しは人の目を引くように強い言葉を選ぶ事が当たり前とはいえ、そこに踊っている情報は、ヴィンセントの知らないリディカ帝国の現状を伝えていた。何かの間違いか、別の国の事ではないのかという思いが過る。
一番驚いたのは、どの記事の内容も見覚えがあったという事だ。
少なくとも一度はヴィンセントの元まで上げられて、却下したはずの政策の多くがそのまま実行に移されていた。
「却下したり、もう一度再考するようにと指示した政策が、そのまま実行に移されているなんて」
「新聞で読んでいた帝国の印象とヴィンセント君の印象が違ったので戸惑っていたんだが、なるほど。難しい立場にいるようだね」
「私が許可していないのに、どうして政策が実行出来たのでしょう」
「帝国で一番偉いのは、ヴィンセント君だったかな?」
「違います。おじい様です。まさか、おじい様が? おじい様の期待に応えたいと思って、おじい様を安心させたいと思って努力をしていたのに、何故?」
ティムは、空いている椅子を示して動揺するヴィンセントを座らせると、穏やかな声で質問をした。
「現皇帝陛下が病床に伏しているという事は、この辺境まで聞こえて来る話だが本当なのかい?」
「はい。年齢のせいもあって中々回復には至らなくて、もう長い事ベッドから下りられない状態が続いていて、少しでも負担を軽くしたいと思って執務の一部を任せてもらっていたのです」
「君が執務を代行するようになったのは何時頃からだったのかな?」
「ここ一年です」
ティムは少し困った、と言うように眉尻を下げた。
「もっと以前から、この流れはあったように思うよ。少なくとも二年前には新聞に軍備拡大路線になったと載っていた。と、いう事はその前からだ」
「そんな前から? どうしておじい様はその事を私に仰って下さらなかったのでしょうか?」
「ふむ。君が政務を代行するようになった前後で、変わらずに政権の中枢にいるのは誰だい?」
「最近は人事異動が活発で、同じ地位に居続けているような人は……まさか、ドネリー宰相?」
ヴィンセントは、行き着いた人物の名前を信じられないという思いで口にした。
「私の質問にも何時も根気強く付き合ってくれたのに? どうして……」
「自分で考えて判断する事は、施政者に必要な資質だと思いますよ。しかし、彼はその事によって貴方が思い通りに動かせない。傀儡になりえないと判断したのでしょうな。病床についていた現皇帝陛下は丸め込めても貴方は無理だと思った。だから排除しようとしたのでは? 貴方が皇帝に就いてしまえば、今まで独断で行っていたことがばれてしまうから。現皇帝陛下の病状から急ぐ必要があったのだろうね」
「……」
「次の新聞が届くのを待ってはどうだろう? 新聞の内容によって相手方の考えがわかるかもしれないだろう?」
「そう、ですね。そうしてみます」
その日の夕食は、いつも美味しそうに食事を食べていたヴィンセントが、ぼんやりとした様子でおかわりもせずに食事を終えた。
ティムやアレックスが心配そうに様子を窺っていた事にも気が付いていなかった。
翌日、ヴィンセントは、ティムから細々とした手伝いを頼まれた。鶏小屋から卵を取って来たり、これから冬に備えて食糧庫を整理したり、壊れた物を修理する手伝いといった手の怪我に障りが出ない程度の簡単な手伝いだったが、どれも初めての事で沈んでいた気持ちを紛らわせる事が出来た。
その夜に僅かだが、と前置きしてティムから駄賃が差し出された。
「受け取れません。怪我の手当もしてもらって、洋服も食事も頂いて、色々良くしていただいているのですから、あれくらい当然です」
「君がこれからどうするのか、まだ決めかねている様に見えるが、何をするにも先立つものは必要じゃないのかね? そんなに多くは渡せないが、君が働いた対価だ。受け取ってもらえるね?」
「……はい。ありがとうございます」
ティムに穏やかに説得されたヴィンセントは、渡された初めての駄賃を大切に握り込んだ。
今まで二人のやり取りを静かに見守っていたアレックスが、ヴィンセントの目の前に勢いよく拳を付きだした。
「おれからは、これな!」
握っていた拳をぱっと開くと、何かが転がり出て来た。反射的に掴むと軽く柔らかな感触が伝わってきた。それは、長い紐が付いた袋だった。
「袋?」
「財布だ。必要だろ?」
「ええ、助かります」
貰った駄賃を財布にしまう。
実はヴィンセントは貨幣を持つのが初めてだった。持っていなくても必要な支払いは、従者や側付きの者がするのが当たり前だったから必要が無かったのだ。
初めての財布の中の重みが、心を少しだけうきうきとさせた。
「ありがとうございます。大切に使います」