郵便屋
石造りの素朴な家は、深い山に囲まれた見晴の良い場所に木々に埋もれるように立っていた。木々に囲まれていても家の周りの森には人の手が入っていて、下草まで明るい日差しが差し込んでいる。
家の庭は、空が広く望める石畳みのテラスになっていて過ごしやすい。石畳みに使われている石は一つ一つが大きく、長い年月によって丸みを帯びている事がわかる。
アレックスに案内されて庭に出て来たヴィンセントは、石畳みを見つめた。
「ここに私は倒れていたのですね」
「元々何かの建物跡だったのを利用して、じいさん達が家を建てたんだってさ。ずっと廃墟だったらしいけど、井戸が生きていたからここに住むことにしたんだってよ。いい家だろ?」
「ええ、とても落ち着きます」
「だろう」
アレックスは嬉しそうに笑った。
恐らく、元々あった建物というのが転送装置の出口となる場所だったのだ。その建物が長年放置され荒れ果てた後にアレックス達が住み着いたのだろう。
ヴィンセントが屈んで石畳に触れると、日が当たっていても冷たく硬い石の手触りが伝わってくる。
転送装置が動く気配は無い。
「何やってんの?」
アレックスの不思議そうな声に振り向くと、ヴィンセントと同じように石畳に屈んでいた。
「転送装置がこちらから動かないかなと思って……」
「あぁ、お前がここまで飛ばされたって言ってたヤツね。本当にあるのかよ? 突然庭に倒れていたのはお前が初めてだぜ?」
「あれは、王族の脱出専用だから、別の人が触っても動かないんです」
「触れば動くんだ?」
「はい。そう聞いていましたし、実際触っただけで動きました。脱出用と聞いていたので、やはり一方から入って出るだけなんでしょう」
「なあ、触っただけで動くなら、向こうに王族っていうのが居たら簡単に追いかけて来れるんじゃないのか?」
「それは、大丈夫です。私の血縁者はおじい様だけでしたから……」
「あー、それは、その、悪かったな」
頭をがしがしと描きながら言うアレックスに、ヴィンセントはふわりと笑った。
「いえ、皆、知っている事ですから。それに会った事は無いけど、皆から素晴らしい両親だったと教えられて育ちました」
「そっか。まあ、親が居なくても不幸なわけじゃないしな。おれも親は事故で死んでいないんだけど、不幸じゃないぜ。不便だなって思う事は少しあるけど。おれにはじじいも居るし!」
アレックスは励ます意味でヴィンセントの背中を力強く叩く。予想していなかったヴィンセントはバランスを崩して尻餅をついた。
「おっと、悪い悪い」
「大丈夫です」
それまで笑顔だったアレックスは、急に考え込むような顔をした。
「お前、こっちからその転送装置が動かないなら、帰れないだろ? いや、反乱があって追い出されたんだからそもそも帰れないか。お前どうするつもりだ?」
「……え!? もちろん、帰りますよ! 待っていてくれる人もいるんです!」
「どうやって?」
「どう……」
常に周りに人がいて、どこへ行くにも先触れが滞在準備を完璧に整えていた。行った先でも身分から歓待されていた。遠く異国の地でヴィンセント一人でどう動けば良いのか、咄嗟に名案は浮かばなかった。
暗い表情で考え込んだヴィンセントの側を、するりと音も無く小さな影が抜けて行った。
「わっ」
ヴィンセントが驚いて声を上げると驚いたのか、小さな影は動きを止めると振り返った。短い黒っぽい毛並に三角の耳に長い尻尾、金色の瞳。
「猫……?」
「山猫だよ。触るなよ。野生だから引っ掻かれるぞ」
アレックスの言葉に、ヴィンセントはそっと伸ばしかけていた手を慌てて引っ込めた。
山猫は直ぐに興味を失ったようで、前を向くとそのまま歩いて行ってしまった。
「家の前に木天蓼の木があるんだ」
「木天蓼ですか?」
「知らないのか?猫は木天蓼の木で酔っぱらうんだぜ。だから木天蓼の周りに山猫が集まって来るんだ。うちで飼ってる鶏や山羊にちょっかいだしたら追い払うんだけど、何もしないからな。そのまま好きにさせてるんだ」
「猫が、お酒も飲んでいないのに酔っぱらうんですか?」
そんな話をしている間にも二人の側を数匹の山猫が通り抜けて行った。
ヴィンセントが興味深々の様子で山猫の後ろ姿を目で追っているのを見たアレックスは、にやりと笑った。
「行ってみるか?」
「はい!」
二人は立ち上がると山猫を驚かせないよう、ゆっくりと家の正面に回った。
木天蓼は木製の柵に絡み付き、小さな白い花を慎ましく咲かせている。なんてことはない地味な蔦植物だ。
その植物の周りに数匹の山猫が集まり、ごろごろと喉を鳴らし、ふらふらとした足取りで柵や木天蓼に体を擦り付けるようにしなだれかかっている。その様子は確かに酔っぱらっているように見えた。
「凄い。本当に酔っぱらっているみたいです」
興奮して頬を上気させたヴィンセントにアレックスはにやりと笑った。
「だろ?」
「でも、これは本当に酔っているのでは無いのですよね?」
「そう、酔ってはいないらしいぜ。匂いに反応してこういう行動になるらしい」
「匂いですか?」
ヴィンセントは、すんすんと回りの匂いを嗅いでみる。
「何の匂いもありませんよ?」
「人にはわからない匂いなんだってよ。おれにもさっぱりわからない。でも、匂いを嗅ぐ仕草をしてるから何か匂いがあるんだろうな」
野生の山猫達がくだくだになっている様子を微笑ましく眺めった。
二人が眺めている背後から影が差しす。
「こんにちは。郵便です」
大きな山羊に乗った青年だ。大きな山羊は体の全てが無機質で出来ていて、一目で晶喚獣だとわかる。
「いつもの手紙ですよ」
郵便屋は日に焼けた顔で笑った顔は、やけに歯の白さが目立った。
アレックスは嬉しそうに手紙を受け取った。宛名を確かめると笑顔がより深くなった。
「グラディスからだ。出したい手紙があるから少し待ってて、少し休んでいくだろ? そこでちょっと待ってろ」
アレックスの言葉に、郵便屋は晶喚獣から降りると慣れた様子で玄関先に置いてあるベンチに腰かけた。
郵便屋は見慣れないヴィンセントが気になるのか、視線を感じたヴィンセントは笑顔を向けた。
「こんにちは」
「こんにちは。初めましてだよね。君はアレックスの姉妹なの?」
ヴィンセントが不可解な顔をしたので、郵便屋は焦ったように言葉を続けた。
「だって、君たち双子みたいにそっくりだ。君が金髪で緑の目とアレックスが黒髪に青い目っていう違いはあるけど……違うの?」
言葉の最後は尻すぼみになった。
「違いますよ。大体何で私がアレックスの姉妹になるんですか! 見て下さい! この男物の洋服を!」
「それアレックスのだろう? 前に良く着ているのを見たよ」
「だからって姉妹は無いと思います! 私はれっきとした男です」
「……本当に?」
郵便屋の探る様な言葉にヴィンセントはかっとなった。
「私にはヴィンセント・オブ・リディカという立派な名前があります」
「へー貴族みたいな名前だね」
「みたいなではありません。私はれっきとしたリディア帝国の皇太子です」
胸を張って名乗ったヴィンセントは、今まで通り相手が畏まるものだと思っていた。
しかし、予想を裏切り郵便屋は笑い転げた。
「それは何の遊びなの? 王様ごっこ? じゃあ、俺は家来の役でもしようかな」
ヴィンセントが不機嫌に頬を膨らませていると、バスケットと手紙を持ったアレックスが戻ってきた。
バスケットを郵便屋に差し出す。
「お疲れ様。これいつもの」
「やった。いつもこれを楽しみに山を登って来るんですよ」
嬉しそうにバスケットの中から果実シロップの水割りとサンドイッチを取り出しほおばった。
「こんな山の中に郵便を届けてもらっているからな。麓の村まで休める様な場所も無いし、いつもここで少し休んでもらってるんだ」
アレックスは、ヴィンセントの様子を見て首を傾げた。
「何かあったのか?」
「特にはありませんよ」
「王様ごっこしてるんでしょう?」
「その話はもういいじゃないですか」
「何それ?」
「帝国の皇太子なんでしょう? だから俺は家来にでもなろうかなって今言っていたんですよ」
郵便屋の言葉にアレックスは目を丸くした。
「はぁ? 皇太子? もうその遊びは終わりだって言っただろ」
「楽しそうな遊びですね。姉妹じゃ無いって聞いたんですけど」
「あぁ、はとこだよ。療養に来てるんだ。ヴィー、手の怪我もあるんだからそろそろ家に入って大人しくしてろよ」
「はぁい」
「ヴィーっていうんだ。ばいばい」
不機嫌なままのヴィンセントは、郵便屋を一度睨むと、べっと舌を出してその場を離れた。
家に戻ってきたアレックスに、国を追い出されているのだから簡単に名乗るなとこっぴどく叱られたのは、それから直ぐの事だった。