逃走
流血描写があります。ご注意ください。
ドネリーは、話し合った内容をヴィンセントに確認する。
「では、この方向で計画を立て直す様に指示してきましょう」
「うん、よろしく頼みます。ドネリー宰相、私はこれからおじい様の見舞いに行きますが、一緒に行きませんか?」
「いえ、私はこちらの仕事をしなくてはいけませんから。明日には時間が取れますので、見舞いに行かせていただきます。では……」
ヴィンセントは、さっそく指示を出してくると言って部屋を出るドネリーを見送った。
机の上の書類を片付けると、席を立った。
皇帝である祖父の寝室は、城の奥にある。表の執務室から続く長い廊下には、歴代の皇帝達が宮廷画家に描かせたり、収集した絵画がずらりと飾られている。
ヴィンセントは、祖父である皇帝から、絵画の前でどんな時に描かれたのかという逸話をよく教えて貰ったなと、懐かしく思いながら絵画の間を抜けていく。
初代皇帝の絵画には三頭の獣が一緒に描かれている。赤い獅子、青い鷹、緑の鹿の三頭の獣は、リディカ帝国の国旗にも描かれている大切な獣だ。初代皇帝が使っていた強力な三体の晶喚獣。魔力を帯びた宝石から作られた人造の獣だ。
血継でしか動かせない鍵がかかっており、皇位継承の血統の正当性を示すために使用されてきた。しかし、その晶喚獣も長い間に二体が行方不明となり、今は赤い獅子の一体しか残っていない。
赤い獅子に騎乗して描かれているのは、遠征帝の異名がついている皇帝だ。戦いに明け暮れ、歴代で一番高大な領土を手に入れた皇帝だ。彼の頃から既に、肖像画には赤い獅子だけ。赤い獅子は、歴代の皇帝が象徴の様に傍に置いているのがわかる。
壁に掛けられている絵画は、皇帝の肖像画以外にも、狩りの光景に戴冠式や神話の一場面など色々な場面が描かれている。絵画を横目に見ながら歩いていると、祖父の部屋に辿り着いた。ヴィンセントは、ためらうことなく扉を開けた。
静かなはずの祖父の寝室で、白衣を着た医師や数人の看護助手達が慌ただしく働いていた。
いつもは祖父の眠りを妨げないように静かに動いている医師達の違う様子に、ヴィンセントは胸騒ぎを覚えた。
「なにかあったんですか?」
医師達が驚いて振り返った。血の気が引いた顔というのはこういう顔を言うのだろう。医師達の様子を見たヴィンセントは、慌てて祖父に駆け寄った。
「おじい様!?」
ヴィンセントの声に反応を見せず、血の気の無い顔色。恐る恐る頬に触れると、まだ温かいが、呼吸をしている様子は無かった。
「何をしている! 早く治療を!」
焦るヴィンセントに対し、医師達は気不味げな表情をするばかり。不審に思い、一人一人の顔を良く見ると、見覚えの無い者達ばかりだ。
「主治医は? 医療室長はどうしたんです。早く呼んで来て下さい」
「い、今は、私が医療室長です」
白衣を着た一番小太りの男が名乗り出た。
ヴィンセントは眉を潜めた。
「貴方が? 私は貴方を知りませんしそんな話聞いていません」
「き、昨日付で辞令を頂きました。皇帝陛下のサインがありました」
「おじい様の? 室長補佐にもなっていない貴方が、医療室長に昇進された? 前の室長補佐はどこに?」
不信感をあらわにしてヴィンセントがたずねる。
「ぐ、軍部の医療部に指導教官として出向いていると聞いています。私の辞令が出たのと入れ違いと聞いています」
ヴィンセントは、混乱している頭を鎮めようと深く息を吐いた。
「ゆっくりこんな話をしている場合じゃないでしょう。早くおじい様の治療を始めて下さい」
「もう、手は尽くしました。先ほど息を引き取った事を確認しました」
「なぜ、直ぐに私に連絡を入れなかったんです!」
「慌てていたので……」
医療室長だという小太りの男は、脂汗を掻いて視線は辺りを彷徨い落ち着きの無い素振り。一番視線を彷徨わせている場所を見ると、小さな薬瓶が一つ。
ヴィンセントは、薬瓶を手に取った。
「あっそれは!」
小太りの男の慌てた様子にヴィンセントは疑惑を深めた。
「これは何です? いつも処方されている薬と違うように見えます」
「……病状が悪化したので、強い薬を使いました。返して下さい」
「まだ、中身が残っていますね」
ヴィンセントが瓶を振ると、底に残った液体が跳ねた。
「貴方、これを少し舐めてみてください」
「え……」
「これは、治療に使ったんですよね?」
「は、はい。ですが、薬は使い方を誤れば毒になると申しますか、えっと、その……」
「少し舐める程度ですよ」
小太りの男は、額にべっとりと汗を浮かべ助けを求めて視線を彷徨わせたが、助けに入る者はいない。
ヴィンセントは、薄い笑顔を浮かべた。
「薬なんですよね?速攻性の高い毒物ではない。そうでしょう?」
小太りの男は、もちろんだと言わんばかりに顔を力いっぱい縦に何度も振る。しかし、額には大粒の汗が浮かぶ。
ヴィンセントがもう少しで追い詰められそうだと思ったその時、冷静な声が割って入った。
「おや、皇太子殿下が手にしているのは、毒物ではないか?」
「そのようですね」
振り向くとドネリーとその後ろには彼の秘書がいた。
「ドネリー宰相。良い所に、この男が……」
強力な味方の登場に、明るい表情のヴィンセントだったが、ドネリーの言葉に凍りついた。
「ふむ。皇帝陛下がお亡くなりになったと聞いたから急ぎ足を運んだのだが、その枕元で毒物を所持している者がいる。ということは、その毒物を持った者が、陛下を毒殺したと考えるべきかね」
「その可能性が高いかと」
「え?」
ヴィンセントは、ドネリーの言葉に茫然とした。
「何を言っているんですか? この薬瓶は、そこの男の持ち物です。皆さん、彼が瓶を持った私に返してと言ったのを聞いていたでしょう?」
周りを見ると、周囲にいた医師達は無言で視線をそらした。
そして理解した。
罠にはめられたのだと。
「容疑者を捕まえろ」
ドネリーのその言葉に背中を押された。
逃げなければ。
ふと視線を落とした先の、祖父の遺体。
よく見ると長いはずの髪の毛が切られていた。
リディカ帝国の皇位を継承するための血継の晶喚獣。祖父が皇帝に就く前に起こった争いの結果、今、血継の晶喚獣を継承出来るのはヴィンセントしかいない。
しかし、無理やり動かす方法はある。
血継の晶喚獣を所有している貴族の家は皆、髪の毛を伸ばすのが伝統だ。契約者の髪の毛を使えば、血統以外の者も契約を誤魔化して使う事が出来る。本来は、契約者が動けない場合の保険として使われるのだが、それを悪用されようとしている。
隙を見て、一番手近の衣装室に飛び込むと傍のチェストを動かし扉を塞ぎ、そのまま使用人用の扉から部屋の外へ出る。
ヴィンセントが子供の頃からずっと過ごしている城だ。表の貴族用の通路も裏の使用人用通路も、そして王家しか知らない隠し通路も、良く知っている。
背後から、慌ただしい声と複数の足音が聞こえる。
何故こんな事なったのだろうと思考を廻らせる。
思い起こすと、最近ヴィンセントに近い者達の移動が多かった。スコットや前医療室長、女官長に事務官。ヴィンセントが皇帝になった時、先を見越して経験を積むため、後継を育てるための移動だとばかり思っていたけれど、たぶん違う。
誰を信じればいいのかわからない。
城勤めの全てがドネリーに味方しているとは思えない。現に、ヴィンセントが走る抜ける様子をただ驚いて見送るだけの使用人や貴族もいる。
しかし、味方かどうかの区別がつけられない。
味方だと断言できるスコットは、別れてから時間が経っている。近衛隊の宿舎は離れた場所にある上に、ヴィンセントを追いかけてくるのは殆どが近衛隊の制服を着ている。味方もいるが、敵も確実にいる場所だ。早々に、スコットに助けを求めるのは諦めた。
ヴィンセントは、逃げ隠れをしながら真っ直ぐに宝物庫を目指した。
「いたぞ。早くお連れしろ」
とうとう、近衛隊に見つかった。
宝物庫はすぐ目の前。
宝物庫は施錠されているが、宝物庫の鍵はいつだって身に着けている。急いで首から下げた鍵をつかって扉を開ける。近衛隊の手が届く直前、間一髪で滑り込むと、中に入ってそのまま内鍵を掛ける。外から扉を叩く音が聞こえる。
高い位置の明かり取りから差し込む光で室内は明るかった。
ヴィンセントは、目についたナイフを手に取り、そのまま宝物庫の奥へ。
背後から扉を開けようとする音に追われながら、宝物庫の奥にある金庫室へと急ぐ。首から下げた鍵は合計二つ。二つ目の鍵を使って金庫室を開ける。
金庫室には窓が無い。入り口の横に置かれていた燐寸を擦り、壁に掛けられていたランプに火を灯す。扉を閉める。内鍵も締めたかったが、金庫室として作られた部屋には内鍵は無かった。
ランプに照らされた室内は、武骨なむき出しの石造りの壁で、ほとんど締切の室内の空気は埃っぽい。棚には、戴冠式で使う王冠、錫杖、皇后に代々受け継がれてきた宝石類が並べられ、壁には古いタペストリーが掛けられ、遠征帝が使っていたという剣や宝剣、甲冑も所狭しと並んでいる。
ここには日常では使わないが、王家にとって価値のある宝物が厳重にしまわれている。
棚に置いてある笏に駆け寄る。
それは、頂上には獅子がそびえその足元には大きなルビーを筆頭にダイヤモンドなどがびっしりと配置された金色の杖だった。ただの宝飾品としての価値があるが、核に魔石のルビーが使われた、細工晶喚技士の手による晶喚獣を呼ぶための鍵だ。
血継晶喚獣の契約更新は簡単だ。
ヴィンセントは、持ち込んだナイフを掌に当てる。深呼吸をしてナイフを滑らせると、薄らと細い筋が出来た。走った痛みに顔を顰めたが、思った深さにはならなかった。
金庫室の外でけたたましい音がした。宝物庫の扉を無理やり破ったのだろう。
もう躊躇っている暇は無かった。
ナイフの刃を力を入れて握る。
一滴、また一滴とこぼれ始めた赤い雫がルビーを染めていく。
どれだけの血を吸った後だろうか、ルビーが鈍く光ったり消えたりを繰り返し始めた。
契約の更新が始まった合図だ。
これで、祖父の髪の毛では動かせない。
笏を持って逃げようかと考えたが、皇位継承には欠かせない物だから血眼になって探すだろう。契約の更新が始まったが、まだしばらく時間がかかる。となると、ほとんどが金と宝石で出来ている笏は、とうぶんの間は重りでしかない。
ヴィンセントは、笏を置いて行く事に決めた。
置いて行くだけだ。後で、取り返す。
壁のタペストリーを捲り、血だらけの手で石の壁をなぞる。壁の一部が発光し、複雑な模様を描く。城は秘密の抜け道や脱出装置といったものがいくつか存在している。これは、この部屋を作った当時につくられた古い脱出用の転送陣だと聞いている。
今は亡くなった技術、一方通行の皇族にしか反応しない装置。
大きな音を立てて背後の扉が開いた。
振り向くと、近衛隊の制服を着た男達が追いかけてくる所だった。
装置が古すぎてどこに繋がっているかも聞いていないが、捕まるよりは良いと、ヴィンセントは壁の模様の中に飛び込む。
転送装置に飛び込んだヴィンセントは、強烈な眩暈と吐き気に襲われた。出血の影響もあったのかもしれない。体が石畳の上に倒れるのを薄れゆく意識の中で感じていた。
先ほどまでいた閉鎖された埃っぽい空気とは違う、明るい太陽の日差しを感じる。
何かが聞こえるが、ぼやけた頭では良くわからない。小さくなってゆく視界に、黒い影が過った。
そこまでが、限界だった。