皇太子
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その日、ヴィンセントは、朝から自分の執務室で書類に目を通していた。
天井に届く高さのガラス窓は曇り一つなく磨き上げられ、窓の周りを縁どるカーテンは重厚でたっぷりあるひだをタッセルでまとめ、太陽の日差しを余すことなく室内へと導いている。
壁には大きな油彩画が飾られ、家具は美しい木目と赤みがかった艶が特徴の重厚なマホガニー製で統一されている。
暖炉の上には金色の獅子があしらわれた時計があり、規則正しいゼンマイの音が微かに響く。
置いてある調度品は元々置いてあった物で、この部屋の落ち着いた雰囲気はヴィンセントの趣味ではない。
しかし、部屋の模様替えをする気にはならなかった。
何故ならこの部屋は元々ヴィンセントの父の使用していた執務室だったからだ。幼い頃に亡くなった両親の事は、おぼろげな記憶でしか残っていない。しかし、周りの大人達からは素晴らしい人であったと聞き、この部屋を使えば少しでも近づける、そんな気がしたからだ。
そのためヴィンセントが新たに持ち込んだものと言えば、机と椅子の高さを調整するためにお尻に敷いているクッションくらいだ。
時計のゼンマイの音の他に聞こえるのは、ヴィンセントがめくる書類の音と時折走るペンの音だけ。
その静寂は、部屋の扉がノックされるまで続いた。
ヴィンセントが書類から視線を上げると、扉の前に控えていた文官が扉から顔を出した。
「スコット・ケイフォード様がいらっしゃいました」
「スコットが? どうぞ、入って」
予定外の来客にヴィンセントは首を傾げた。
扉から入ってきたのは、漆黒の髪を後ろでまとめ、深い海の様に清んだ瞳の若い男だった。髪を長くするのは貴族に多い特徴で、スコットも伯爵家の人間だ。真面目なスコットらしく、アイロンの効いた軍服のボタンを首元まで全てきっちりと締めている。
スコットは、軍人らしい切れのある礼を取った。
「皇太子殿下、おはようございます。本日は良い天気ですね」
皇太子と呼ばれたヴィンセントは、にこやかに挨拶を返した。
「おはよう。そうだね、良い天気だ」
「こんな良い天気の日に、デスクワークですか?少し太陽の下出て体を動かしたらいかがですか?」
「おじい様が任せて下さった仕事だから、頑張りたいんだ」
スコットの呼びかけの通り、ヴィンセントはリディカ帝国の皇太子だ。
高齢の現皇帝の祖父に代わり少しずつ仕事を覚えている最中で、今も大量の決裁待ちの書類に目を通していた所だ。
「どれも複雑で難しくて。皆に教えて貰いながらだから、中々進まないんだ。迷惑を掛けているのはわかっているけど、適当になんて出来ないから」
恥ずかしそうに言うヴィンセントの様子に、スコットは嬉しそうに笑う。
読んでいた書類を伏せると、スコットを備え付けのソファーセットに案内した。
「大変そうですね。自分としては国のトップが、真摯に国の事を考えてくれるのはとても喜ばしい事です。貴方が皇太子で心強い限りですよ。私が十五歳くらいの頃は、まだ呑気に士官学校に通っていた頃です。少しずつ慣れて行かれれば良いのですよ」
「そうかな」
「ええ、そうですよ」
穏やかに言うスコットに、ヴィンセントは少しだけ肩の力を抜いた。
「今日は、会う予定はなかったよね? どうしたの?」
いつもは面会を申し込んでから来るので、不思議だった。
「そうでした。辞令が来まして、帝都から移動になりました。その前にご挨拶をさせて頂こうと思いまして」
「え!」
「軍人になれば色々な場所を経験するのは必要な事です。特に上に行こうと思うなら大切な事です」
「だって、近衛隊に配属になっていただろう? 近衛隊は帝都を守るのが仕事じゃないか」
「近衛から、第三師団へ移動になりました」
近衛隊は、軍の中でも花形だ。ずっと帝都にいられるし、式典などではかなり派手な儀礼服を着て皇帝を側近くで警備する。
「そうなのか……寂しくなるな」
最初に会ったのは、兄弟のいないヴィンセントのために遊び相手として呼ばれた貴族の子弟の一人としてだった。良く遊んでもらったし、勉強も教えて貰った、悪戯を諌められた事もあった。兄がいたらこんな感じなのかと思ったものだ。
スコットの士官学校時代は、長期休暇の時にしか会いに来てくれなかったが、軍に入り近衛隊に配属が決まると、仕事の休みの時に顔を見せてくれる事が増え、内心とても喜んでいたのだ。
スコットは、落ち込んだ様子のヴィンセントに少しだけ困った様子で笑った。
「昇進してまた戻ってまいります。期待して待っていてください」
「……うん。スコットなら、きっと直ぐに昇進できるよ」
「ありがとうございます」
スコットは、昇進させろとは言わない。そんなところをヴィンセントは尊敬している。
二人が別れを惜しんでいると、再び扉がノックされ、文官が姿を現した。
「ドネリー宰相閣下がいらっしゃいました」
ヴィンセントは、入室の許可を出す。
「では、皇太子殿下、自分はこれで失礼いたします」
「もう、行くのか?」
「はい、他にも挨拶をしたい所もありますし、荷物もまとめないといけませんから」
「そうか……落ち着いたら手紙でも書いてくれないか? 帝都の外の事も知りたいし」
「わかりました。それでは、失礼いたします」
ヴィンセントとすれ違うように、文官に案内されたドネリーが入ってきた。
白に近い金髪は綺麗に整えられ後ろで縛られ、金縁の眼鏡の奥には色彩の薄い灰色の瞳が光る。
ドネリーの背後には、影のようにひっそりと栗色の髪をした宰相秘書の女性が控えていた。
「皇太子殿下、おはようございます。彼は……スコット・ケイフォードでは?」
「おはよう。そうだよ、知り合いでしたか? 移動の挨拶に来たのだけど、呼び止めましょうか?」
「いえ、結構です。名前を知っている程度ですので。それより、皇太子殿下が私をお呼びだと伺ったのですが?」
「ああ、そうなんだ。お忙しい所、呼び出して申し訳ありません。早速ですが、気になる書類があったので教えて頂きたいのです」
ヴィンセントは、慌てて机に書類を取りに戻った。
わからない事や疑問があれば、宰相や大臣を呼んで説明を受けてから、決裁の可否を決めるようにしている。
いちいち呼び出し説明を求めるので、最近は迷惑そうな様子を隠さない大臣もいるが、ヴィンセントは帝国の行く末を決める大切な仕事だと思っている。これからも納得のいかない書類に決裁のサインはしない。
「ほう、気になる書類ですか?」
「そうなんだ。ええと、この書類だったかな」
机の上に幾つかに分けて積まれていた書類の一束を手に取り中から数枚の書類を選び出す。
「ええと、まずは、軍備再編計画なんだけど……」
ヴィンセントは、気になった点を挙げて質問と懸念事項を上げる。
その間、宰相の連れていた秘書は、筆記具を取り出すと止まる事無くメモを取っていく。その場で回答出来る事は宰相が答え、検討する必要がある事は後日追加訂正された書類が上がってくる、という流れがすでに出来上がっていた。
ヴィンセントの意見を静かに聞いていた宰相は、あっさりとヴィンセントの意見を聞き入れた。
「なるほど、皇太子殿下のご指摘はごもっともですな。近隣の国々とも交易も盛んで関係が良好な今、要らぬ懸念を呼ぶ恐れもあります。こちらは私からも規模を縮小して再考するように指示を出しましょう」
祖父の信頼が厚く宰相という地位に就いているドネリーが、理解を示してくれた事が嬉しかった。
「ありがとう、ドネリー宰相」
ヴィンセントは、心からの礼を言った。
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目指せ長編を合言葉に頑張っていきます。