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鏡星学園ファントム事件簿

バレンタインの魔法使い〜恋だけは魔法じゃない〜

作者: 秋月キアラ
掲載日:2008/04/05

第1話 魔法使いになりたいです


 みなさん、こんにちは。


 いきなりですが、わたしの名前は珠瀬那々美(たませななみ)といいます。


 鏡星学園の二年生です。


 読書が好きで、運動は苦手で、人前で話すのも得意ではありません。作文も、感想文も、レポートも、できれば静かに提出だけして誰にも読まれたくないタイプです。


 でも、これは書いておかないといけない気がしました。


 だって、信じてもらえないかもしれませんけど――。


 わたし、魔法使いになってしまったんです。


 ……たぶん。


 話は、変な夢から始まります。


 そこは、真っ白な場所でした。


 空も地面もなくて、ただ白いページの中に立っているみたいな場所です。


「ここ、どこでしょう……?」


 わたしがつぶやくと、後ろから声がしました。


「それは、君が決めることだね」


「ひゃっ!?」


 振り返ると、そこにウサギがいました。


 茶色い毛並みの、大きなウサギです。耳まで入れたら、わたしより背が高いかもしれません。


 しかも、水色のジャケットを着て、シルクハットをかぶって、ステッキを持っていました。首からは古い懐中時計を下げています。


 普通なら、絶対におかしいです。


 でも、夢の中のわたしは、それをおかしいと思いませんでした。


「こ、こんにちは」


「やあ、こんにちは」


 ウサギは礼儀正しく帽子を持ち上げました。


「いい朝だね」


「朝なんですか?」


「朝かもしれないし、夜かもしれない。目覚める前なら、どちらでもないかもしれない」


「えっと……?」


「つまり、今は夢だ」


「夢なんですか?」


「たぶんね。でも、夢だとわかっている夢は、本当に夢なのかな?」


「すみません。もうわからないです」


 ウサギは満足そうにうなずきました。


「素直でいいね」


「褒められたんでしょうか」


「褒めたとも言えるし、褒めていないとも言える」


「困ります」


 ウサギは懐中時計を開きました。


 時計の針は、十二時で止まっていました。


「君さ」


「はい」


「世の中って、つまらないと思ったことはある?」


「えっ?」


「毎日同じ時間に起きて、学校に行って、授業を受けて、帰って、また明日が来る。そういうの、つまらないと思ったことは?」


 わたしは少し考えました。


「つまらない、とは思いません。学校も嫌いじゃないですし、本も読めますし」


「優等生の答えだね」


「すみません」


「謝ることじゃないよ」


 ウサギはステッキをくるりと回しました。


「では、質問を変えよう。世の中は二つに分けられる」


「二つ?」


「ウサギか、そうでないか」


「……わたしは、そうでない方です」


「正解」


「正解なんですか?」


「たぶんね」


 ウサギはまた時計を見ました。


「では、もうひとつ。世の中は、魔法使いか、そうでないかに分けられる。君はどっち?」


「わたしは……」


 そこで、言葉が止まりました。


 魔法使い。


 小さいころから、ずっと好きでした。


 絵本の中の魔法使い。


 児童書の中の魔女。


 杖を振って空を飛んだり、困っている人を助けたり、願いを叶えたりする人たち。


 でも、高校二年生にもなって、そんなことを本気で言うのは恥ずかしいです。


「わたしは、魔法使いではありません」


「なりたくもない?」


「それは……」


 ウサギが、じっとこちらを見ました。


 不思議な目でした。


 責めているわけではありません。


 でも、逃がしてくれない目でした。


「魔法使いになりたい?」


 わたしは胸の前で手を握りました。


「なりたいです」


 言った瞬間、自分でも驚きました。


 声が思ったよりはっきりしていました。


 ウサギは耳をぴんと立てました。


「では、君は今から魔法使いの方だ」


「えっ、あの、そんな簡単に?」


「簡単なことほど難しく、難しいことほど簡単に見えるものだよ」


「やっぱりわかりません」


「わからなくてもいい。時計は動いた」


 チク、と音がしました。


 止まっていた懐中時計の針が、一つ進みました。


 その瞬間、白い世界に警報みたいな音が響きました。


 ジジジジジジジジジジ。


「な、何の音ですか!?」


「目覚まし時計」


「えっ?」


「起きる時間だ」


「待ってください、魔法使いってどういう――」


 ウサギは二本足でぴょんと跳ねました。


「使いすぎには気をつけて」


「使いすぎ?」


「それから、恋に魔法はおすすめしない」


「こ、恋!?」


「では、よいバレンタインを」


「ちょっと待ってください!」


 ウサギは白いページの向こうへ消えました。


 ジジジジジジジジジジ。


 音が大きくなります。


 わたしは手を伸ばしました。


「待って――!」


 目が覚めました。


 そこは、わたしの部屋でした。


 布団の中。


 枕元で、スマホのアラームが鳴っています。


『七時です。起きる時間です』


「……夢?」


 わたしはスマホを止めました。


 部屋はいつも通りです。


 本棚。


 机。


 カーテン。


 昨日の夜、悩みに悩んでバッグに入れた、小さな紙袋。


 その中には、手作りのチョコレートが入っています。


 今日は二月十四日。


 バレンタインデーです。


「……無理」


 わたしは布団を頭までかぶりました。


 学校に行きたくありません。


 だって、バッグの中にチョコがあるんです。


 しかも本命チョコです。


 渡す相手は、鳴海愛(なるみまな)先輩。


 鏡星学園の生徒会長で、女子生徒の憧れで、凛としていて、かっこよくて、少し中性的で、でも笑うとすごく優しい人です。


 わたしにとっては、遠くから見るだけで一日がんばれる人。


 そんな人に、チョコを渡そうとしているんです。


 無理です。


 絶対無理です。


 考えただけで、顔が熱くなります。


 そのとき、部屋のドアがノックされました。


「那々美? 起きてる?」


 お母さんです。


「起きてます」


「じゃあ、どうして降りてこないの?」


「少しだけ……人生について考えてました」


「朝ごはんの前に?」


「はい」


「熱でもあるの?」


「ないです」


「声が変よ」


「人生について考えている声です」


「開けなさい」


 逃げられませんでした。


 わたしは布団から顔だけ出して、ドアを少し開けました。


 お母さんはわたしの顔を見るなり、目を丸くしました。


「那々美、顔が真っ赤じゃない」


「えっ」


 お母さんの手が、おでこに触れました。


「熱いわよ。今日は休みなさい」


「休みません」


「どうして?」


「無遅刻無欠席なので」


「そんな理由で?」


「大事なんです」


 本当は違います。


 休んだら、チョコを渡せません。


 でも、行っても渡せる自信はありません。


 つまり、どっちにしても詰んでいます。


「本当に大丈夫?」


「大丈夫です。風邪じゃないので」


「じゃあ何?」


「……バレンタイン性発熱です」


「何それ」


「聞かないでください」


 わたしはそっとドアを閉めました。


 お母さんが向こうでため息をつきます。


「無理しないのよ」


「はい」


 返事をしてから、わたしはベッドに座りました。


 着替えないといけません。


 制服に。


 でも身体が重いです。


 気持ちも重いです。


「自動で制服に着替えられたらいいのに……」


 ぽつりと言いました。


 次の瞬間。


 ふわっと風が吹いたような感覚がありました。


「え?」


 わたしは自分の身体を見下ろしました。


 パジャマではありません。


 制服でした。


 白いシャツ。


 リボン。


 ブレザー。


 スカート。


 靴下までちゃんと履いています。


「…………」


 わたしは固まりました。


 時計の秒針だけが動いています。


「え?」


 もう一度言いました。


「え?」


 制服です。


 完全に制服です。


 わたしはベッドから飛び起きました。


 姿見の前に立ちます。


 どこから見ても制服です。


 寝癖は残っていますが、制服です。


「寝ぼけて……着替えた?」


 そんなわけありません。


 だって、さっきまでパジャマでした。


 ボタンも留めた覚えがありません。


 スカートを履いた覚えもありません。


「落ち着いて、那々美。こういうときは深呼吸です」


 すう。


 はあ。


 すう。


 はあ。


「夢の続きですね」


 そういうことにしました。


 そうしないと怖いです。


 わたしは机に向かいました。


「眼鏡、眼鏡……」


 いつも机の上に置いているはずの眼鏡がありません。


 ないと困ります。


 世界がぼやけます。


 今も少しぼやけています。


「昨日、どこ置いたっけ……?」


 机の上。


 本の間。


 ベッドの横。


 バッグの中。


 ありません。


「こんなとき、魔法で眼鏡が手に出てきたら便利なのに」


 言ってしまいました。


 手のひらに、重みが乗りました。


「…………」


 眼鏡がありました。


 わたしの手の中に。


 いつもの眼鏡です。


 黒縁で、少し丸い、わたしの眼鏡です。


「ひゃっ!」


 思わず投げそうになりました。


 でも眼鏡なので投げられません。


 大事です。


 わたしは震える手で眼鏡をかけました。


 世界がはっきりしました。


 はっきりしたせいで、余計にはっきり怖くなりました。


「今の、出ましたよね? 手の中に。出ましたよね?」


 誰も答えません。


 部屋にはわたししかいません。


 そうです。


 答える人がいたら、それはそれで怖いです。


「落ち着いて。偶然です。制服も偶然。眼鏡も偶然。たまたまです」


 たまたま制服に着替わる人はいません。


 たまたま眼鏡が手に出る人もいません。


 でも、わたしは信じたくありませんでした。


 夢のウサギが言っていました。


 君は今から魔法使いの方だ。


「……まさか」


 わたしは部屋のテレビを見ました。


 リモコンは机の反対側にあります。


 手は届きません。


 わたしはごくりと唾を飲みました。


「テレビ……ついてください」


 テレビがつきました。


 朝の情報番組が映りました。


『今日は二月十四日、バレンタインデーです。各地の人気チョコレート売り場では――』


「消えてください!」


 テレビが消えました。


 静かになりました。


 わたしはその場にしゃがみ込みました。


「……本当に?」


 本当に、魔法が使えました。


 小さいころなら、飛び上がって喜んだかもしれません。


 魔法使いになりたかったんです。


 絵本みたいに。


 物語みたいに。


 でも、実際に使えてしまうと、怖いです。


 だって、どこまで叶うのかわかりません。


 もし「学校が消えればいいのに」と思ったら?


 もし「今日は来なければいいのに」と願ったら?


 もし。


 もし、愛先輩が、わたしを好きになってくれたらいいのに、なんて願ってしまったら?


「だめ」


 わたしは小さく言いました。


「それは、だめ」


 胸がぎゅっとなりました。


 好きになってほしい。


 見てほしい。


 名前を呼んでほしい。


 チョコを受け取って、笑ってほしい。


 でも、それが魔法で作られたものだったら、きっと嬉しくありません。


 愛先輩の気持ちじゃなくなってしまいます。


「使わない」


 わたしは自分に言い聞かせました。


「もう魔法は使わない。絶対使わない。制服と眼鏡とテレビは、事故。今のはノーカウント」


 ノーカウントが多い気がします。


 でも、そう決めました。


 時計を見ると、七時四十分。


「……え?」


 登校時間が迫っています。


 さっきまで人生について考えていたせいで、完全に遅れています。


「大変!」


 わたしはバッグをつかみました。


 その瞬間、中の紙袋がかさっと鳴りました。


 チョコです。


 昨日の夜、何度も失敗して、やっと作ったチョコレート。


 少し形は歪んでいます。


 ラッピングも、動画で見たほど上手くできませんでした。


 それでも、わたしが作ったものです。


 魔法ではなく。


 自分の手で。


「……渡せるかな」


 答えは出ません。


 でも、バッグには入っています。


 入れてしまったのです。


 持っていくしかありません。


 わたしはバッグを抱えて、部屋を出ました。


 階段を降りると、お母さんが心配そうに見てきました。


「本当に学校に行くの?」


「行きます」


「顔、まだ赤いわよ」


「大丈夫です」


「何かあった?」


「ありません」


「本当に?」


「ありません」


 魔法使いになりました、とは言えません。


 バレンタインで好きな人にチョコを渡せるかもしれなくて死にそうです、とも言えません。


 お母さんは少しだけ首をかしげて、それから小さく笑いました。


「じゃあ、いってらっしゃい」


「いってきます」


 玄関で靴を履きます。


 扉を開けると、二月の空気が冷たく頬に触れました。


 わたしはバッグをぎゅっと握りました。


 中にはチョコ。


 頭の中にはウサギ。


 身体には、使えるかもしれない魔法。


 今日はバレンタインデー。


 好きな人に、何かを渡す日。


「魔法は使わない」


 わたしはもう一度つぶやきました。


 それから、小さな声で付け足しました。


「……でも、勇気だけは、ちょっと欲しいです」


 その瞬間、風が吹きました。


 胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなりました。


 魔法なのか。


 ただの気のせいなのか。


 今のわたしには、まだわかりませんでした。

第2話 魔法禁止のバレンタイン


 魔法は使わない。


 絶対に使わない。


 たとえ、玄関を出て三歩で手袋を忘れたことに気づいても、魔法で呼び寄せたりしない。


 たとえ、信号が赤で、学校に遅れそうになっても、魔法で青にしたりしない。


 たとえ、バッグの中のチョコが気になりすぎて、いっそ消えてくれたら楽なのに、と思っても。


「消えちゃだめです」


 わたしはバッグを胸に抱え直しました。


 危ない。


 今のは危ないです。


 軽い気持ちで「消えて」なんて思ったら、本当に消えるかもしれません。


 中に入っているのは、鳴海愛先輩へのチョコ。


 昨日の夜、何度も何度もやり直して作った、本命チョコです。


 形は少しだけ歪んでいます。


 文字も少しだけ震えています。


 でも、ちゃんと作りました。


 魔法ではなく、自分の手で。


「大丈夫。今日は、魔法禁止です」


 小さくつぶやきながら、校門をくぐりました。


 鏡星学園の朝は、いつも少し変です。


 まず、校門の横に謎の観葉植物があります。


 季節によって花が咲くのは普通ですが、あの植物は時々、生徒の遅刻を注意します。


 今日は黙っていました。


 よかったです。


 次に、正門から校舎までの道に、なぜか鶏が一羽歩いていました。


 鏡星学園では、たまにこういうことがあります。


 誰かが飼っているわけではありません。


 たぶん、玉藻先生の実験です。


「あ、珠瀬さん」


 昇降口で声をかけられました。


 振り向くと、クラスメイトの佐藤美咲さんが手を振っていました。


 明るくて、運動が得意で、わたしと違って声がよく通る人です。


「おはよう、佐藤さん」


「おはよ。今日、顔赤くない?」


「えっ」


 わたしは両手で頬を押さえました。


「そ、そうですか?」


「うん。熱?」


「違います。これは、その……」


「バレンタイン熱?」


「どうしてわかるんですか!?」


「あ、当たった」


 佐藤さんがにやっと笑いました。


「珠瀬さん、チョコ持ってきたでしょ」


「も、持ってません」


「今、バッグ抱えた」


「これは普通の防御姿勢です」


「防御する必要あるんだ」


「あります。今日の学校は危険です」


「たしかに」


 佐藤さんは真顔でうなずきました。


「玉藻先生がいるからね」


 その言葉を聞いた瞬間、校内放送が鳴りました。


『生徒のみなさぁん、おはようございまぁす』


 甘ったるい声。


 聞き間違えるはずがありません。


 担任の玉藻妖狐先生です。


『本日はバレンタインデーということで、職員室前にて、特別限定商品を販売いたしまぁす』


 佐藤さんが空を見上げました。


「ほら来た」


 わたしは嫌な予感しかしませんでした。


『食べた相手の好感度が、ほんの少しだけ上がるかもしれない、可学式恋愛支援チョコ。限定二十個。一個一万円。効果には個人差がありまぁす』


「学校で何を売ってるんですか!」


 思わず叫んでしまいました。


 周りの生徒たちもざわざわしています。


「一万円?」


「高っ」


「でも玉藻先生の発明だろ?」


「効くのかな」


「怖いけど欲しい」


「職員室行く?」


「行くな!」


 わたしと佐藤さんが同時に言いました。


 そのとき、別の声が放送に割り込みました。


『ただいまの販売告知は、生徒会の許可を得ていません』


 落ち着いた、低めの声。


 胸がどきんと鳴りました。


 鳴海愛先輩です。


『恋愛感情を誘導する可能性のある食品、薬品、可学製品の販売・譲渡は禁止されています。玉藻先生、ただちに職員室前の商品を提出してください』


『えぇー、愛ちゃんったら厳しいんだからぁん』


『提出してください』


『でもぉん、これは愛と平和のために』


『提出してください』


『一個くらい買わなぁい?』


『提出してください』


 放送越しなのに、愛先輩の圧がすごいです。


 廊下にいた生徒たちが、自然と背筋を伸ばしました。


『……はいはぁい。生徒会長さまには逆らえないわねぇん』


 そこで放送は切れました。


 佐藤さんが感心したように言いました。


「鳴海先輩、強いなあ」


「はい……」


「珠瀬さん、今すごく幸せそうな顔してる」


「してません」


「してる」


「してません」


「耳まで赤いよ」


「これは寒さです」


「二月だもんね」


「はい」


「昇降口、暖房ついてるけど」


「……佐藤さん、意地悪です」


 佐藤さんは楽しそうに笑いました。


 わたしは上履きに履き替えながら、心の中で何度も唱えます。


 魔法禁止。


 魔法禁止。


 恋愛チョコ禁止。


 魔法も禁止。


 愛先輩に好きになってほしいなんて、絶対に願わない。


 絶対です。


 教室に入ると、バレンタイン特有の空気が広がっていました。


 女子が小さな紙袋を交換しています。


 男子は平静を装っていますが、全員どこかそわそわしています。


 机の上にチョコが置かれていないか、さりげなく確認している人もいました。


 わたしは自分の席に座り、バッグを膝の上に置きました。


 中のチョコが気になります。


 すごく気になります。


 世界で一番気になります。


「那々美」


 その声に、心臓が止まりかけました。


 顔を上げると、愛先輩が立っていました。


 朝の光を背に受けて、黒を基調にしたクラシカルな制服アレンジが、今日もきれいです。


 白いリボンタイ。


 細いレースの手袋。


 すっと伸びた背筋。


 まるで、学園の中だけ時間の流れが違っているみたいでした。


「あ、ああああ愛先輩!」


「そんなに驚かせたか?」


「い、いえ、驚いてません。全然、平気です。普通です。日常です」


「日常にしては、声が裏返っている」


「これは、その、発声練習です」


「朝から?」


「はい。健康にいいので」


 愛先輩は少しだけ笑いました。


 その笑顔を見た瞬間、頭の中が真っ白になりかけます。


 だめです。


 ここで「ずっと笑っていてほしい」とか願ったら、何が起こるかわかりません。


「那々美、体調は大丈夫か?」


「えっ?」


「顔が赤い。朝も走ってきたように見えたから」


「あ、はい。大丈夫です」


「無理はするな。今日は体育もある」


「体育……」


 忘れていました。


 今日の一時間目は体育です。


 しかもバスケットボール。


 世界が終わりました。


「苦手か?」


「得意では、ないです」


「それは意外だ」


「意外ですか?」


「真面目だから、何でもきちんとこなす印象がある」


「真面目と運動神経は別なんです」


「そうか」


 愛先輩は納得したようにうなずきました。


「何かあったら、無理せず言うんだ」


「はい」


「本当に顔が赤い」


「こ、これは、えっと……」


 わたしは言葉に詰まりました。


 愛先輩がわたしの顔を覗き込んできます。


 近いです。


 近いです。


 とても近いです。


 わたしの心臓が、校内放送より大きな音を立てています。


 愛先輩の手が、わたしのおでこへ伸びました。


「熱があるのかもしれない」


「あ、あの、愛先輩、近――」


 その瞬間。


 ぽんっ。


 わたしの頭の上で、小さな音がしました。


「ん?」


 愛先輩が目を瞬かせました。


 佐藤さんが叫びました。


「珠瀬さん、花!」


「え?」


 わたしの髪に、小さな白い花が咲いていました。


 比喩ではありません。


 本当に、小さな白い花が、髪飾りみたいにぽんぽん咲いています。


「えええええ!?」


 わたしは両手で頭を押さえました。


 花びらが一枚、机に落ちます。


 周囲のクラスメイトがざわめきました。


「え、かわいい」


「何それ、髪飾り?」


「今、咲かなかった?」


「玉藻先生の実験?」


「やっぱり?」


 違います。


 たぶん、わたしです。


 緊張で頭が花畑になった、ということなのでしょうか。


 いえ、そんな冷静に分析している場合ではありません。


「これは、その……」


 愛先輩が花を一つ、そっと見ました。


「綺麗だな」


「き、綺麗!?」


「那々美に似合っている」


「あっ」


 だめでした。


 その一言で、また胸が熱くなりました。


 ぽんっ。


 今度は机の上に、小さなハート型の紙吹雪が出ました。


 赤とピンクの。


 完全にアウトです。


「……那々美」


 愛先輩が真剣な顔で言いました。


「やはり、玉藻先生に何かされたのか?」


「されてません!」


「本当に?」


「されてません! たぶん!」


「たぶん?」


「いえ、絶対です!」


 愛先輩は少し心配そうに眉を寄せました。


 その顔も綺麗です。


 だめです。


 これ以上見ると、また何か出ます。


 わたしは慌てて机に突っ伏しました。


「大丈夫です。これは、静かにしていれば治ります」


「そういう症状なのか?」


「そういう……体質です」


「花が咲く体質?」


「今日だけです」


「今日だけなら、なおさら心配だ」


 佐藤さんが横から小声で言いました。


「珠瀬さん、バレンタイン体質?」


「変な体質を作らないでください」


 そこで教室のドアが勢いよく開きました。


 白衣を着た玉藻先生が、にこにこしながら入ってきます。


「みんなぁん、おはようございまぁす」


 愛先輩の表情がすぐに引き締まりました。


「玉藻先生」


「あらぁん、愛ちゃん。朝から生徒会長のお仕事ご苦労さまぁ」


「職員室前のチョコはすべて回収しました」


「えぇ、ひどぉい。限定商品だったのにぃ」


「危険物です」


「危険じゃないわよぉ。ちょっと好感度が上がるだけ」


「それが危険です」


 玉藻先生は頬に手を当てました。


「あらぁ、でも恋って、少しくらい背中を押してあげるものじゃなぁい?」


「背中を押すことと、感情を操作することは違います」


 愛先輩の声は静かでした。


 でも、強かったです。


 わたしは膝の上のバッグをぎゅっと握りました。


 その中のチョコは、ただのチョコです。


 魔法も可学も入っていません。


 ただ、わたしが何時間もかけて、失敗して、作ったチョコです。


 それでいいんですよね。


 それが、いいんですよね。


 玉藻先生が、ふとわたしを見ました。


「あらぁん? 那々美ちゃん、髪にお花ついてるわよぉ」


「こ、これは違います!」


「何が違うのかしらぁ?」


「これは、その……自然現象です!」


「教室で?」


「はい!」


「おもしろぉい」


 玉藻先生の目が光りました。


 嫌な光です。


「那々美ちゃん、ちょっとあとで研究室に――」


「先生」


 愛先輩が一歩前に出ました。


「生徒を勝手に実験対象にしないでください」


「あらぁ、まだ何も言ってないわぁん」


「言いかけました」


「愛ちゃん、厳しぃ」


「校則です」


 玉藻先生は肩をすくめました。


「じゃあ、朝のホームルームを始めるわねぇん。今日はバレンタインだから、浮かれるのはいいけど、可学製の怪しいチョコ、呪術チョコ、召喚チョコ、爆発チョコは禁止よぉ」


 クラスの何人かが、そっとバッグを隠しました。


 今、何を持ってきているんですか。


「それから一時間目は体育ねぇん。ベルバラちゃんが張り切ってたわよぉ」


 教室全体が、少しだけ沈みました。


 ベルバラ先生。


 体育教師の伊原尚美先生。


 通称、ベルバラ先生。


 美人です。


 とても美人です。


 でも、テンションと芝居が過剰です。


 体育の授業というより、舞台稽古みたいになります。


「じゃ、適当にがんばってねぇん」


 ホームルームはそれで終わりました。


 短いです。


 いつも通りです。


 愛先輩は教室を出る前に、もう一度わたしを見ました。


「那々美、本当に無理はしないように」


「はい」


「あと」


「はい?」


「その花、取らないのか?」


 わたしは慌てて頭に手をやりました。


 まだ咲いていました。


「と、取ります! すぐ取ります!」


「似合っているが、体育では邪魔になるかもしれない」


「似合っ……」


 ぽんっ。


 今度はわたしの机の上に、小さな白い花が一輪咲きました。


 愛先輩が目を丸くしました。


 佐藤さんが口を押さえました。


 玉藻先生が遠くで「きゃあ、素敵ぃ」と言いました。


「……那々美」


 愛先輩が言いました。


「本当に、玉藻先生ではないんだな?」


「違います!」


「では、何なんだ?」


 わたしは机の花を見ました。


 髪の花を見ました。


 ハートの紙吹雪を見ました。


 そして、小さな声で言いました。


「……バレンタインです」


 佐藤さんが吹き出しました。


「バレンタインってすごいね」


「すごくないです!」


 愛先輩は少しだけ笑いました。


「そうか。バレンタインなら、仕方ないのかもしれないな」


「仕方なくないです!」


 でも、愛先輩が笑ってくれました。


 その笑顔を見てしまったので、わたしはまた顔が熱くなりました。


 けれど今度は、何も出ませんでした。


 たぶん。


 たぶん、です。


 五分後。


 体育のために、わたしたちは体育館へ向かいました。


 わたしは更衣室でどうにか花を外し、紙吹雪を片づけ、深呼吸を繰り返しました。


「魔法禁止。魔法禁止。絶対禁止」


「珠瀬さん、さっきから何の呪文?」


 佐藤さんに聞かれました。


「自己管理です」


「自己管理で魔法禁止って言う?」


「言います。今日は言います」


「今日の珠瀬さん、面白いね」


「面白くありません。わたしは真剣です」


「それが面白い」


 体育館に入ると、すでにベルバラ先生が中央に立っていました。


 白いジャージ。


 薔薇柄のスカーフ。


 そして、なぜかフェンシングの剣。


「遅いぞ、乙女たち!」


 ベルバラ先生の声が体育館に響きます。


「今日はバレンタイン! 愛と情熱と青春が、チョコレート色に燃え上がる日!」


 佐藤さんが小声で言いました。


「チョコレート色に燃えたら焦げてるよね」


「言わない方がいいです」


 ベルバラ先生は剣を天に掲げました。


「だが、青春に浮かれる前に、身体を動かせ! 今日の授業はバスケットボール!」


 体育館がざわつきました。


 わたしは心の中で小さく泣きました。


 バスケットボール。


 球技。


 走る。


 跳ぶ。


 投げる。


 全部苦手です。


「チーム分けはくじ引きだ!」


 ベルバラ先生は、どこからともなく薔薇の刺さった箱を取り出しました。


 どこに隠していたのでしょう。


 この学園の先生たちは、収納が謎です。


「運命とは残酷! だが、残酷だからこそ美しい!」


 ベルバラ先生は一枚ずつくじを引かせていきます。


 わたしも引きました。


 赤チーム。


 愛先輩は。


 白チーム。


「…………」


 世界が終わりました。


 愛先輩と敵です。


 無理です。


 戦えません。


「那々美」


 愛先輩が近づいてきました。


「よろしく」


「よ、よろしくお願いします」


「手加減はしないぞ」


「してください」


「正直だな」


「本当に苦手なんです」


「大丈夫だ。ボールは怖くない」


「怖いです」


「では、私だと思って受け取ればいい」


「もっと無理です!」


 愛先輩は不思議そうに首を傾げました。


 その瞬間、わたしの背後で、ぽんっと音がしました。


 振り返ると、体育館の床に小さなハートの紙吹雪が落ちていました。


 またです。


 また出ました。


 佐藤さんが遠くから親指を立てました。


 やめてください。


 ベルバラ先生が目を輝かせました。


「素晴らしい! 試合前から青春が可視化されている!」


「可視化しないでください!」


 愛先輩が紙吹雪を一枚拾いました。


「那々美、これは君のものか?」


「違います!」


「違うのか?」


「違うことにしてください!」


 愛先輩は少し笑って、紙吹雪をわたしに渡しました。


「では、落とし物だ」


「あ、ありがとうございます」


 指先が触れそうになりました。


 触れていないのに、触れそうなだけで、心臓が跳ねます。


 魔法禁止。


 魔法禁止。


 お願いですから、今だけは何も起きないでください。


 わたしはぎゅっと目を閉じました。


 そのとき、ベルバラ先生の笛が鳴りました。


「試合開始!」


 体育館にボールが弾む音が響きました。


 わたしの魔法禁止のバレンタインは、まだ始まったばかりでした。

第3話 バスケと超能力者と魔法少女


 試合開始の笛が鳴りました。


 きゅっ、きゅっ、と体育館の床をシューズがこする音。


 だん、だん、とボールが弾む音。


 「こっち!」「パス!」という声。


 体育館は、一瞬で戦場になりました。


 わたしはその戦場の端っこにいました。


 正確には、赤チームの一員としてコートに立っていました。


 でも、気持ちは完全に見学者です。


「珠瀬さん、動いて!」


 佐藤さんが叫びます。


「動いてます!」


「足が!」


「心は動いてます!」


「心じゃボール取れない!」


 正論です。


 でも無理です。


 バスケットボールは速いんです。


 人も速いし、ボールも速いし、展開も速いです。


 わたしは本を読むのは好きですが、目の前で人とボールが高速移動する情報量にはついていけません。


「那々美!」


 反対側から、愛先輩の声がしました。


 白チームの愛先輩は、体育着姿でもかっこよかったです。


 黒を基調にした普段のクラシカルな装いとは違って、白い体操着にジャージ姿。


 それだけなのに、立っているだけで絵になります。


「ボールを見るんだ。怖がらなくていい」


「はい!」


 わたしは元気よく返事をしました。


 そして、飛んできたボールから反射的に逃げました。


「珠瀬さん!?」


 佐藤さんが悲鳴を上げました。


「す、すみません! ボールを見るのと受け止めるのは別問題です!」


「別にしないで!」


 ボールはそのまま白チームに渡りました。


 愛先輩が受け取ります。


 ああ、受け取り方まで綺麗です。


 片手で軽くボールを制し、身体をひねって、味方へパス。


 無駄がありません。


 美しいです。


「鳴海先輩、かっこいい……」


「珠瀬さん、敵! 今、敵だから!」


「敵なんて言わないでください!」


「試合だから!」


 佐藤さんが必死です。


 わたしも必死です。


 でも、必死の方向が違いました。


「よし、そこだ!」


 ベルバラ先生の声が体育館に響きます。


「愛! その切り返し、美しい! まるで戦場に咲く白薔薇!」


「先生、試合中です」


 愛先輩は落ち着いて答えました。


「そうだった! 続けたまえ!」


 ベルバラ先生は無駄に感動していました。


 この先生は、体育の授業を見ているのか、舞台を見ているのかわからなくなることがあります。


 そのとき、わたしはある人と目が合いました。


 見上宙さんです。


 同じ学年の女子で、いつも少し眠そうな顔をしています。


 髪は長く、前髪で目元が少し隠れていて、どこか不思議な雰囲気があります。


 そして今、見上さんはコートの隅にいました。


 体育座りで。


「…………」


「…………」


 目が合いました。


 見上さんは、にやりと笑いました。


 わたしは少しだけ安心しました。


 あ、仲間です。


 戦力外仲間です。


 そう思った次の瞬間、見上さんが立ち上がりました。


「……そろそろ」


 見上さんが小さくつぶやきました。


「え?」


 わたしが聞き返す前に、コートの空気が変わりました。


 佐藤さんがドリブルしていたボールが、ふわりと浮いたのです。


「えっ?」


 佐藤さんが固まりました。


 ボールは誰の手にも触れられていないのに、空中へ上がっていきます。


 そして、ふわふわと移動しました。


 まるで見えない手で運ばれているみたいに。


「ちょっと、ボール!?」


 佐藤さんが追いかけます。


 ボールはするりと逃げました。


 白チームの生徒も手を伸ばします。


 ボールはまた逃げました。


 体育館全体がざわつきます。


「何あれ?」


「風?」


「体育館で?」


「玉藻先生の実験?」


「また?」


 違うと思います。


 たぶん、見上さんです。


 見上さんはコートの隅で片手を軽く上げ、指先をくるりと動かしていました。


 ボールはその動きに合わせて、空中をすいっと進みます。


「見上さん……」


 わたしがつぶやくと、見上さんはもう一度にやりと笑いました。


 完全に確信犯です。


 ボールはそのまま、見上さんの手元に落ちました。


 見上さんは両手でボールを持ち、なぜか床に置きました。


「え、何する気?」


 佐藤さんが言いました。


 見上さんは低い姿勢になり、ボーリングのようにボールを転がしました。


「バスケですよ!?」


 わたしは思わず叫んでしまいました。


 でも、転がったボールは、ただ転がったわけではありませんでした。


 床の上をすべるように進み、人と人の間をぬって、相手チームの足元を避け、最後に急に跳ね上がりました。


 ぽん。


 ボールはリングに当たり、きれいにゴールへ入りました。


 しゅぱっ、という音。


 赤チーム得点。


 体育館が静まり返りました。


 見上さんは小さくピースしました。


「……やった」


 佐藤さんがぽつりと言いました。


「やった、じゃないよね?」


 わたしも、こくこくうなずきました。


「今の、バスケットボールじゃないです」


 ベルバラ先生は笛をくわえたまま固まっていました。


 そして、ゆっくり笛を外します。


「見上」


「はい」


「今のは……」


「シュートです」


「そうか。シュートか」


「はい」


「ならば得点だ!」


「いいんですか!?」


 わたしと佐藤さんが同時に叫びました。


 ベルバラ先生は薔薇を取り出し、無駄にポーズを決めました。


「青春には、時として常識を超える瞬間がある!」


「先生、超えすぎです!」


 愛先輩が冷静に言いました。


「先生。今のは反則では?」


「ルールブックに、超能力でボールを動かしてはいけないとは書いていない!」


「超能力と認めるんですか」


「いや、まだ認めてはいない!」


「では何ですか」


「気合いだ!」


「気合いでボールは浮きません」


 愛先輩の正論がきれいに突き刺さりました。


 でも、ベルバラ先生は強いです。


「とにかく、授業を続ける! ただし見上、次からはもう少しバスケらしく!」


「はい」


 見上さんは素直にうなずきました。


 でも、絶対またやる顔でした。


 わたしは心の中で思いました。


 この学校、おかしいです。


 いや、前から知っていました。


 知っていましたけど、今日ほど強く思ったことはありません。


「珠瀬さん」


 佐藤さんがわたしの肩をつかみました。


「はい」


「見上さんに負けてられないよ」


「何をですか?」


「珠瀬さんも何かやろう」


「無理です」


「大丈夫。気合いで!」


「気合いでわたしは動きません」


「でも、さっき紙吹雪出してたし」


「あれは忘れてください!」


 忘れてほしいです。


 本当に。


 でも、そう言われたせいで、わたしはまた思い出してしまいました。


 魔法。


 朝から暴発している、よくわからない力。


 制服。


 眼鏡。


 テレビ。


 花。


 紙吹雪。


 次は何が起きるかわかりません。


 だから、使ってはいけません。


 絶対に。


「魔法禁止。魔法禁止……」


「珠瀬さん、また言ってる」


「自己管理です」


「自己管理、大変そうだね」


「はい。とても」


 試合が再開しました。


 ボールは赤チームからです。


 佐藤さんがドリブルで進みます。


 見上さんは今度はちゃんと立っています。


 ただ、目がボールを追っています。


 たぶん、また何かする気です。


 わたしはコートの端をうろうろしました。


 邪魔にならないように。


 目立たないように。


 ボールが来ないように。


 でも、こういうときに限って来るんです。


「珠瀬さん!」


 佐藤さんの声がしました。


 見ると、ボールが飛んできています。


 わたしの方へ。


 まっすぐ。


「ひゃあっ!」


 避けようとしました。


 でも、なぜか身体が動きません。


 いえ、違います。


 逃げたらまた迷惑をかけると思ったんです。


 だから、目をつぶって、両手を前に出しました。


 ぽすん。


 ボールが手の中に収まりました。


「取れた!」


 自分で驚きました。


 佐藤さんが叫びます。


「珠瀬さん、そのままシュート!」


「シュート!?」


 見れば、わたしはいつの間にかゴール下にいました。


 なぜここにいるのか、自分でもわかりません。


 目の前にはリング。


 手の中にはボール。


 周りには人。


 そして。


「那々美」


 愛先輩が、わたしの前に立っていました。


 白チームのディフェンスです。


 あまりにもかっこよくて、わたしは心臓が止まりそうになりました。


「え、あの、愛先輩」


「来い」


「来い!?」


「全力で来るんだ」


「無理です!」


「無理じゃない。ボールを持っているなら、君は今、攻める側だ」


「攻める側……」


 言葉が強いです。


 愛先輩が言うと、何でも名言に聞こえます。


 でも、わたしは攻める側に向いていません。


 できれば一生守る側でいたいです。


 というか、今すぐベンチに戻りたいです。


「珠瀬さん、打って!」


 佐藤さん。


「那々美、落ち着け」


 愛先輩。


「珠瀬、青春の一投だ!」


 ベルバラ先生。


「……飛べば入る」


 見上さん。


 いろんな声が聞こえます。


 わたしは混乱しました。


 リングが高いです。


 ボールが重いです。


 愛先輩が近いです。


 顔が熱いです。


 心臓が変です。


 そして、最悪なことを思ってしまいました。


 届けばいいのに。


 ほんの少しだけ。


 リングまで、届けば。


 その瞬間、足元が軽くなりました。


「あ」


 床を蹴りました。


 自分でも信じられないくらい、身体が浮きました。


 高い。


 高いです。


 体育館の天井が近づいている気がします。


 リングが目の前に来ました。


 愛先輩の驚いた顔が、下に見えました。


 佐藤さんの口が開いています。


 ベルバラ先生が薔薇を落としました。


 見上さんだけが、なぜか楽しそうに笑っていました。


「え、ええええええっ!?」


 叫びながら、わたしはボールをリングに叩き込みました。


 どんっ。


 ダンクシュート。


 というやつだと思います。


 バスケット漫画で見たことがあります。


 現実のわたしがやるものではありません。


 でも、やってしまいました。


 しかも、勢いでリングにつかまってしまいました。


 ボールは床に落ちました。


 しゅぱっ、ではなく、どん、でした。


 体育館は完全に静まり返りました。


 わたしはリングにぶら下がったまま、足をぶらぶらさせていました。


「…………」


「…………」


「…………」


 沈黙。


 長い沈黙。


 そのあと、佐藤さんが小さく言いました。


「珠瀬さん、すご」


 それを合図に、体育館が爆発しました。


「今の何!?」


「ダンク!?」


「珠瀬さんが!?」


「魔法少女?」


「いや、玉藻先生の実験だろ!」


「やっぱり?」


「朝から花咲いてたし!」


「バレンタイン体質じゃなかったの!?」


 全部聞こえています。


 やめてください。


 わたしは泣きそうでした。


 なぜなら、問題はダンクをしたことではありません。


 降りられないことです。


「あの……」


 わたしは小さく言いました。


 誰も聞いていません。


「あの!」


 今度は少し大きく言いました。


 全員が見上げました。


「降りられません……」


 また沈黙が来ました。


 佐藤さんが両手を口に当てました。


「珠瀬さん、かわいい……」


「かわいくないです! 助けてください!」


 ベルバラ先生が我に返りました。


「よし、私が受け止めよう!」


「先生は嫌です!」


「なぜ!?」


「勢いが怖いです!」


「ならば、愛!」


 ベルバラ先生が振り返りました。


「君が受け止めたまえ!」


「はい」


 愛先輩が即答しました。


 わたしの心臓が、また変な音を立てました。


「え、あ、愛先輩!?」


 愛先輩はリングの下に立ち、両腕を広げました。


「那々美、手を離せ。私が受け止める」


「む、無理です!」


「大丈夫だ」


「そういう意味じゃなくて!」


 愛先輩の腕の中に落ちる。


 それは危険です。


 わたしの心臓にとって、とても危険です。


 でも、腕が限界でした。


 手が汗で滑ります。


 指がしびれます。


「那々美、こっちを見ろ」


 愛先輩の声は落ち着いていました。


 わたしは恐る恐る下を見ました。


 愛先輩が、まっすぐこちらを見ています。


「大丈夫。受け止める」


「本当に……?」


「ああ。約束する」


 その言葉を聞いた瞬間、少しだけ怖さがほどけました。


 でも、別の意味で怖さが増えました。


 愛先輩に受け止められるなんて。


 そんなことが現実に起きたら。


 わたしはきっと、たぶん、絶対。


「じゃ、じゃあ、いきます」


「来い」


 わたしは目をつぶりました。


 手を離します。


 身体が落ちる。


 浮遊感。


 空気。


 そして、あたたかい腕。


 愛先輩が、わたしを受け止めてくれました。


 思っていたより、ずっと安定していました。


 思っていたより、ずっと近かったです。


 愛先輩の顔がすぐそばにありました。


「大丈夫か?」


「あ、あ、あ……」


「那々美?」


「だ、大丈夫、です」


「顔が真っ赤だ」


「そ、それは……」


 愛先輩の腕の中です。


 いわゆる、お姫様抱っこです。


 体育館の真ん中で。


 クラスメイト全員の前で。


 ベルバラ先生の前で。


 見上さんの前で。


 世界が終わりました。


 でも、少しだけ、終わってもいいと思いました。


「鳴海先輩、保健室!」


 佐藤さんの声で、わたしは現実に戻りました。


「珠瀬さん、顔真っ赤だし、今のジャンプ絶対おかしいし、休ませた方がいいです!」


「そうだな」


 愛先輩はうなずきました。


「先生、那々美を保健室へ連れていきます」


「許可する!」


 ベルバラ先生はなぜか感極まった顔をしていました。


「愛が乙女を抱いて退場する……美しい! これぞ青春の名場面!」


「先生、そういうのではありません」


「わかっているとも!」


「たぶんわかってません」


 愛先輩はわたしを抱えたまま歩き出しました。


「お、下ろしてください! 歩けます!」


「本当に?」


「歩け……たぶん、歩けます」


「たぶんでは困る」


「でも、みんな見てます!」


「見ているな」


「恥ずかしいです!」


「落ちた直後だ。無理をさせる方がよくない」


「愛先輩……」


 優しいです。


 優しすぎます。


 このままだと、また魔法が暴発しそうです。


 お願いです。


 花も紙吹雪も出ないでください。


 今ここでハートなんて出たら、本当に生きていけません。


 でも、わたしの願いは少し遅かったようです。


 愛先輩が体育館の出口へ向かう途中、わたしの周りに、ふわっと小さな白い羽根が舞いました。


 どこからともなく。


 きらきらと。


 完全に演出みたいに。


 体育館がまたざわめきました。


「やっぱり魔法少女だ」


「玉藻先生の実験だろ」


「いや、バレンタイン体質」


「どれ?」


 わたしは愛先輩の腕の中で、両手で顔を隠しました。


「違います……違うんです……」


 愛先輩が小さく笑った気がしました。


「那々美」


「はい……」


「君は本当に、不思議な子だな」


「すみません……」


「謝ることじゃない」


 その声が優しすぎて、わたしは顔を上げられませんでした。


 体育館を出る直前、見上さんの声が聞こえました。


「……珠瀬さん」


 振り返ると、見上さんが口元だけで笑っていました。


「次は空中戦しよ」


「しません!」


 わたしは全力で叫びました。


 愛先輩の腕の中で。


 白い羽根が、また一枚、ひらひらと落ちました。


 魔法禁止のバレンタインは、どう考えても失敗していました。

第4話 チョコレートの告白


 保健室までの廊下は、いつもより長く感じました。


 いえ、たぶん本当に長くなったわけではありません。


 わたしが、鳴海愛先輩に抱えられていたからです。


 いわゆる、お姫様抱っこです。


 人生で一度あるかないかの状況です。


 でも、今じゃなくてよかったです。


 いや、よくないわけではありません。


 すごくよかったです。


 よすぎて困っています。


「あの、愛先輩」


「なんだ?」


「本当に、歩けます」


「さっきもそう言っていたな」


「今度は本当です」


「顔が真っ赤だ」


「それは、その、運動したからです」


「運動?」


「ダンクシュートを……」


「たしかに、あれは運動だったな」


 愛先輩が少し笑いました。


 わたしはその笑顔を見て、また心臓が跳ねました。


 だめです。


 近すぎます。


 近すぎて、思考が全部あたふたします。


「あの、下ろしていただけると……」


「無理をして倒れたら困る」


「でも、重くないですか?」


「軽い」


「か、軽い……」


「もう少し食べた方がいいかもしれないな」


「そこまでですか!?」


「いや、冗談だ」


「愛先輩、冗談言うんですね」


「私も人間だからな」


「人間……」


「何だと思っていたんだ?」


「えっと……王子様、みたいな」


 言ってから、わたしは自分の口を押さえました。


 終わりました。


 今のは完全に変な人です。


 愛先輩は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑いました。


「王子様か」


「す、すみません。変な意味ではなくて」


「変な意味だったら?」


「死にます」


「死なないでくれ」


「努力します」


「そこは約束してほしい」


 そんな会話をしている間に、保健室に着きました。


 愛先輩は器用にドアを開けると、わたしをベッドの上へそっと下ろしてくれました。


 カーテンが少し揺れます。


 保健室の先生はいませんでした。


 机の上には「会議中。急用は職員室へ」と書かれた札があります。


「先生、いませんね」


「会議らしい」


「じゃあ、わたし、もう教室に……」


「駄目だ」


「即答」


「しばらく休め。さっきの跳躍は普通ではなかった」


「普通では、なかったですね……」


 わたしは布団の上で小さくなりました。


 思い出すだけで顔が熱いです。


 体育館で。


 みんなの前で。


 ありえないジャンプをして。


 ダンクシュートをして。


 リングから降りられなくなって。


 愛先輩に受け止めてもらって。


 そのあと、白い羽根まで出ました。


 どう考えても、魔法禁止は失敗です。


「那々美」


「はい」


「玉藻先生の実験ではないんだな?」


「違います」


「本当に?」


「はい。たぶん」


「また、たぶんか」


「だって、わたしにもよくわからなくて……」


 愛先輩は椅子を引き寄せ、ベッドの横に座りました。


 その仕草が自然で、落ち着いていて、わたしは余計に落ち着かなくなります。


「何があった?」


「え?」


「朝から様子がおかしい。髪に花が咲いたり、紙吹雪が出たり、さっきは跳んだ。何か原因があるなら、話してほしい」


「原因……」


 夢のウサギ。


 魔法使いか、そうでないか。


 魔法使いになりたいです。


 そして、翌朝から起きた変な出来事。


 言えるでしょうか。


 言ったら、信じてもらえるでしょうか。


 愛先輩に変な子だと思われたら。


 怖いです。


「……笑いませんか?」


「笑わない」


「本当に?」


「ああ」


「絶対?」


「約束する」


 わたしは布団を少し握りました。


「今朝、変な夢を見たんです」


「夢?」


「ウサギが出てきました」


「ウサギ」


「大きくて、ジャケットを着ていて、シルクハットをかぶっていて、懐中時計を持っていて」


「それは……ずいぶん童話的だな」


「はい。そのウサギに聞かれたんです。世の中は、魔法使いか、そうでないかに分けられる。君はどっち、って」


「それで?」


「わたし、言ってしまったんです。魔法使いになりたいです、って」


 愛先輩は黙って聞いてくれました。


 笑いませんでした。


 馬鹿にもしませんでした。


 だから、わたしは続けられました。


「そしたら、朝から変なことが起きて。着替えたいと思ったら制服になって、眼鏡が出てきて、テレビがついて、緊張したら花とか紙吹雪とか出て」


「なるほど」


「なるほど、ですか?」


「那々美は、それを魔法だと思っているんだな」


「思っているというか……思いたくないです」


「どうして?」


「怖いからです」


 口にしたら、少しだけ胸が軽くなりました。


「何でも叶うかもしれないって、怖いです。自分が何を願ってしまうかわからないし、願ったことが本当に起きたら、取り返しがつかないかもしれないし」


「だから、使わないようにしていたのか」


「はい。でも全然だめで……」


「緊張すると出る?」


「たぶん」


「私と話すと?」


「……はい」


 小さな声になりました。


 愛先輩は少しだけ首を傾げました。


「私と話すと、緊張するのか?」


「します」


「怖い?」


「違います!」


 わたしは慌てて顔を上げました。


「怖いんじゃなくて、その、えっと、愛先輩はすごくて、綺麗で、かっこよくて、優しくて、見ているだけで緊張して、話しかけられると心臓が忙しくなって、近くに来られると頭が真っ白になるだけで」


「それは、かなり大変だな」


「はい。大変です」


「私が原因か」


「いえ、違います! 悪いのはわたしの心臓です!」


「心臓か」


「はい」


「では、心臓を叱ればいいのか?」


「叱らないでください。止まります」


 愛先輩がふっと笑いました。


 優しい笑い方でした。


 そのせいで、ベッドの脇に小さな白い花が一輪咲きました。


「……また」


 わたしは頭を抱えました。


「すみません」


「綺麗だ」


「そう言われると増えるので、言わないでください」


「それは難しいな」


「難しいんですか?」


「綺麗だと思ったものを、綺麗と言わないのは」


 ぽんっ。


 今度は二輪咲きました。


「愛先輩!」


「すまない」


「謝り方が楽しそうです」


「少しだけ」


「楽しんでますね!?」


「いや、不思議だと思っているだけだ」


「絶対少し楽しんでます」


「少しだけ」


 愛先輩は素直に認めました。


 わたしは、なぜか少しだけ笑ってしまいました。


 怖かったはずなのに。


 魔法なんて、どうしたらいいかわからないはずなのに。


 愛先輩が笑ってくれると、それだけで少し落ち着きます。


「那々美」


「はい」


「その力を、誰かの気持ちを変えるために使いたいと思ったことはあるか?」


 胸が、どきっとしました。


 わたしはバッグを見ました。


 体育館から保健室へ来るとき、愛先輩が持ってきてくれたわたしのバッグ。


 ベッドの足元に置いてあります。


 中には、チョコがあります。


 わたしはすぐに答えられませんでした。


 愛先輩は急かしません。


 だから、わたしは正直に言いました。


「……あります」


「そうか」


「でも、したくないです」


 わたしはバッグから目をそらさずに言いました。


「誰かに好きになってほしいって、思わないわけじゃないです。でも、それが魔法だったら、たぶん違うんです。うれしくないと思うんです」


「うん」


「本当は、すごく勇気がほしいです。魔法で勇気を出せるなら、少しだけ欲しいです。でも、相手の気持ちは変えたくないです」


「那々美らしいな」


「そうですか?」


「真面目で、臆病で、でも大事なところでは誠実だ」


 胸が熱くなりました。


 でも今度は、何も出ませんでした。


 不思議です。


 もしかしたら、今の言葉は、ちゃんと胸の中にしまっておきたかったからかもしれません。


 わたしはバッグに手を伸ばしました。


「愛先輩」


「なんだ?」


「その……」


 指が震えます。


 バッグのファスナーを開けます。


 紙袋が見えます。


 昨日、何度も何度も確認したラッピング。


 渡すつもりで持ってきたのに、いざ目の前にすると、手が止まりました。


 魔法を使えば。


 そう思ってしまいました。


 たとえば、チョコが勝手に愛先輩の手の中へ移動してくれたら。


 たとえば、わたしの代わりに、きれいな言葉がカードに書かれていたら。


 たとえば、愛先輩が絶対に笑って受け取ってくれるようにできたら。


 でも。


 それは、違います。


 違うんです。


 わたしは、手で紙袋を取り出しました。


 自分の手で。


 震えているけど。


 落としそうだけど。


 ちゃんと、自分の手で。


「これ……」


 声が小さすぎました。


 愛先輩は静かに待ってくれています。


 言わないと。


 言葉にしないと。


 魔法ではなく。


 わたしの声で。


「受け取ってください」


 言えました。


 好きです、までは言えませんでした。


 言いたかったけれど、まだ無理でした。


 でも、受け取ってください、は言えました。


 それは、わたしにとって、とても大きな一言でした。


 愛先輩は、差し出された紙袋を見ました。


 それから、わたしを見ました。


「私に?」


「はい」


「那々美が作ったのか?」


「はい。あの、形は少し変かもしれません。あと、味も保証できません。でも、ちゃんと作りました。魔法は使ってません」


「そうか」


 愛先輩は、やわらかく笑いました。


「ありがとう」


 その一言で、泣きそうになりました。


 愛先輩は手袋を外しました。


 そして、両手で丁寧に紙袋を受け取ってくれました。


 指先が、ほんの少しだけ触れました。


 今度は、花も紙吹雪も出ませんでした。


 ただ、胸の中があたたかくなりました。


「開けてもいいか?」


「えっ、ここでですか!?」


「駄目か?」


「駄目ではないですけど、あの、心の準備が」


「では、待とう」


「いえ、待たれると、それはそれで緊張します」


「難しいな」


「はい。わたし、面倒くさいです」


「そうは思わない」


 愛先輩はリボンをほどきました。


 わたしは布団をぎゅっと握ります。


 中から出てきたチョコは、ハート型でした。


 とても普通です。


 とてもベタです。


 でも、他に思いつかなかったんです。


 表面には、白いチョコペンで小さく文字を書いてあります。


『いつもありがとうございます』


 それが限界でした。


 本当は、別の言葉を書きたかったです。


 でも、書けませんでした。


 愛先輩はそれを見て、少し目を細めました。


「綺麗だ」


「言わないでください、何か出ます」


「今は出ていない」


「たぶん、心臓の方が忙しいからです」


「食べても?」


「はい……」


 愛先輩は小さく割って、ひと口食べました。


 その瞬間、わたしは息を止めました。


「……おいしい」


「本当ですか?」


「ああ。優しい味がする」


「優しい味……?」


「無理に飾っていない。丁寧に作った味だ」


 そんなことを言われるとは思いませんでした。


 わたしの中で、何かがじわっと広がります。


「よかった……」


 気づいたら、そう言っていました。


 愛先輩はチョコを見つめました。


「那々美」


「はい」


「これは、義理か?」


 息が止まりました。


 今度こそ止まりました。


「えっ」


「いや、聞き方が悪かったな」


「い、いえ、その」


「答えにくいなら、答えなくていい」


 愛先輩は優しいです。


 逃げ道を作ってくれます。


 その優しさに甘えたくなります。


 でも、全部逃げるのは嫌でした。


「義理では、ないです」


 言えました。


 それ以上は無理でした。


 でも、ここまで言えました。


 愛先輩は、ほんの少しだけ驚いたような顔をしました。


 それから、今までで一番やさしく笑いました。


「そうか」


「はい」


「大切に食べる」


「一気に食べても大丈夫です」


「それではもったいない」


「もったいない……」


「那々美が、魔法を使わずに渡してくれたものだから」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥があたたかくなりました。


 ふわりと、ベッドの横に小さな花が一輪だけ咲きました。


 でも今度は、恥ずかしいと思いませんでした。


 愛先輩はその花を見て、静かに言いました。


「今のは、悪くない魔法だな」


「……はい」


 わたしは小さくうなずきました。


 魔法を使ってしまったのかもしれません。


 でも、愛先輩の気持ちを変えるためではありません。


 自分の気持ちが、少しだけ形になっただけ。


 それなら、少しだけなら、悪くないのかもしれません。


 保健室の窓の外で、二月の風が吹いていました。


 わたしのバッグは空っぽになりました。


 チョコは、愛先輩の手の中にあります。


 好きです、とは言えませんでした。


 でも、受け取ってください、は言えました。


 それだけで今日は、わたしにとって、魔法みたいな日でした。

第5話 恋だけは魔法じゃない


 保健室は、静かでした。


 体育館のざわめきも、廊下の足音も、少し遠くに聞こえます。


 白いカーテン。


 消毒液の匂い。


 窓の外を流れる冬の雲。


 ベッドの横には、愛先輩が座っています。


 そして、愛先輩の手には、わたしのチョコがあります。


 受け取ってもらえました。


 食べてもらえました。


 おいしい、と言ってもらえました。


 義理ではないです、とも言えました。


 ここまで来たら、もう今日は十分です。


 わたしにしては、人生最高得点です。


 だから、ここで終わってほしい。


 何も起きないでほしい。


 そう思った瞬間でした。


 チョコが、ふわっと光りました。


「……え?」


 わたしの声が裏返りました。


 愛先輩も、手の中のチョコを見下ろします。


 ハート型のチョコの表面から、小さな金色の光が浮かび上がっていました。


 粉雪みたいに細かくて、蛍みたいにやわらかい光。


 それが、ゆっくりと空中にほどけていきます。


「あ、あの、違います!」


 何が違うのか、自分でもわかりません。


 でも、反射的に言っていました。


「これは違うんです!」


「落ち着いて、那々美」


「落ち着けません! チョコが光ってます!」


「見えている」


「見ないでください!」


「光っているから、目に入る」


「正論を言わないでください!」


 光は止まりません。


 むしろ、少しずつ形になっていきます。


 文字でした。


 小さな光の文字。


『愛先輩が好きです』


 わたしは固まりました。


 愛先輩も黙りました。


 保健室の空気が、完全に止まりました。


「…………」


「…………」


 終わりました。


 全部終わりました。


 世界も人生も宇宙も終わりました。


 しかも、光の文字は一つでは終わりませんでした。


『笑った顔が好きです』


『名前を呼ばれると心臓が大変です』


『かっこよすぎて直視できません』


『チョコを受け取ってくれてうれしいです』


『本当は好きですって言いたかったです』


「わあああああああああっ!」


 わたしは布団を引っつかみ、頭からかぶりました。


「見ないでください! 読まないでください! 消えてください! あ、消えてはだめです! でも見ないでください!」


 布団の外で、愛先輩の声がしました。


「那々美」


「いません!」


「いるだろう」


「今のわたしは布団です!」


「布団にしては、よくしゃべる」


「布団にも事情があります!」


 光の文字は、布団の上にもぽんぽん浮かんできました。


『布団になりたい』


『でも愛先輩の前から消えたくない』


『どうしよう』


「もうやだぁ……」


 わたしは布団の中で小さくなりました。


 魔法禁止。


 あれほど決めたのに。


 最後の最後で、一番見られたくないものが出てしまいました。


 好きです、と言えなかったから。


 チョコに込めた気持ちが、代わりにしゃべってしまったのでしょうか。


 最悪です。


 いえ、最悪という言葉では足りません。


 とても最悪です。


「那々美」


「……はい」


「出てこないのか?」


「出られません」


「なぜ?」


「恥ずかしいからです」


「そうか」


「笑いましたか?」


「笑っていない」


「本当ですか?」


「ああ」


「からかいませんか?」


「からかわない」


 布団の中で、わたしは息を止めました。


 愛先輩の声は、いつもと同じでした。


 静かで、優しくて、少し低い声。


 笑っていませんでした。


 面白がってもいませんでした。


「那々美」


「はい……」


「見えてしまったものを、なかったことにはできない」


「うう……」


「でも、勝手に見えたからといって、君を責めるつもりはない」


「……本当に?」


「本当だ」


 布団の端を、そっと持ち上げました。


 目だけ出します。


 愛先輩は、そこに座っていました。


 わたしのチョコを、両手で大事そうに持っています。


 光の文字は、まだ少しだけ周りを漂っていました。


 でも、愛先輩はそれを笑っていませんでした。


「魔法かどうかは知らない」


 愛先輩は言いました。


「でも、これは君が作ったものだろう?」


 その言葉に、胸がぎゅっとなりました。


「……はい」


「君が材料を選んで、溶かして、固めて、包んで、持ってきた」


「はい」


「それなら、そこに込められた気持ちも、君のものだ」


「でも、勝手に見えてしまって……」


「見えたことには驚いた」


「ですよね……」


「だが、嫌ではなかった」


 わたしは、布団の中で目を見開きました。


「嫌では、なかったんですか?」


「ああ」


「重くないですか?」


「重いというより、まっすぐだと思った」


「まっすぐ……」


「那々美は、魔法で私の気持ちを変えようとはしなかった。自分で作って、自分の手で渡した」


「それしか、できなかっただけです」


「それが一番難しいこともある」


 愛先輩は、光の文字を一つ見上げました。


『本当は好きですって言いたかったです』


 わたしはまた布団に隠れそうになりました。


 でも、愛先輩が静かに言いました。


「言えなかった言葉があっても、渡したことは消えない」


「……はい」


「私は、それを受け取った」


 目の奥が熱くなりました。


 泣きそうです。


 でも泣いたら、また何か魔法が出るかもしれません。


 涙が星になったりしたら困ります。


 いえ、この流れなら本当にあり得ます。


「泣くなとは言わないが」


 愛先輩が言いました。


「泣きそうな顔をしている」


「愛先輩は、何でも見抜きすぎです」


「顔に出ている」


「そんなに?」


「かなり」


「恥ずかしいです」


「今日はずっと恥ずかしがっているな」


「今日はずっと恥ずかしいことが起きてるんです」


「それは、そうだな」


 少しだけ、愛先輩が笑いました。


 わたしも、布団の中から少しだけ笑いました。


 その瞬間、漂っていた光の文字が、ふわっと形を変えました。


 文字ではなく、小さな花になりました。


 白くて、金色に光る花。


 それが一輪、愛先輩の手の中のチョコの横に落ちました。


「また……」


「綺麗だ」


「そう言うと増えます」


「増えてもいい」


「だめです。保健室がお花畑になります」


「それは少し見てみたい」


「愛先輩、意外と好奇心ありますね」


「君を見ていると、そうなる」


「わたしのせいですか?」


「そうだ」


 責めている言い方ではありませんでした。


 むしろ、少し楽しそうでした。


 わたしは布団から、少しだけ顔を出しました。


「あの、愛先輩」


「うん?」


「怖くないんですか?」


「何が?」


「わたしの魔法、というか、変な力というか……」


「怖がった方がいいのか?」


「普通は、怖いと思います」


「普通か」


 愛先輩は考えるように、少しだけ目を伏せました。


「鏡星学園にいると、普通の基準が少しずれる」


「それは、たしかに」


「玉藻先生は可学製の恋愛チョコを売ろうとする。見上はバスケットボールを浮かせる。ベルバラ先生は薔薇をどこからでも出す」


「先生の薔薇は魔法なんでしょうか」


「私は、深く考えないようにしている」


「賢いです」


「その中で、君の魔法だけを怖がるのは、少し不公平だ」


「そういうものですか?」


「そういうものだ」


 愛先輩はチョコを見ました。


「ただし、人の気持ちを変える力なら、使い方には気をつけた方がいい」


「はい」


「君はもう気をつけているようだが」


「気をつけていても、暴発します」


「暴発しても、止めようとしていた」


「止まりませんでした」


「それでも、止めようとした」


 愛先輩の言葉は、わたしの失敗を、失敗だけにしませんでした。


 朝からずっと、わたしは魔法に振り回されていました。


 でも、愛先輩はそこだけを見ていませんでした。


 わたしが何をしないようにしたか。


 何を選ばなかったか。


 そこを見てくれていました。


「那々美」


「はい」


「魔法で勇気を出すことは、悪いことだと思うか?」


 わたしは少し考えました。


「……わかりません」


「うん」


「でも、魔法で相手の気持ちを変えるのは、違うと思います」


「そうだな」


「それに、今日、少しだけわかりました」


「何を?」


「魔法で出した勇気と、自分で出した勇気は、たぶん違います」


 わたしは、バッグの方を見ました。


 空っぽになったバッグ。


 チョコはもう、愛先輩の手の中にあります。


「チョコが勝手に渡っていたら、きっとこんなに怖くなかったです。でも、こんなにうれしくもなかったと思います」


「うん」


「だから……」


 わたしは布団を少し下げました。


 ちゃんと、愛先輩の顔を見ました。


「恋だけは、魔法じゃない方がいいです」


 言えました。


 好きです、ほどはっきりした言葉ではありません。


 でも、今のわたしには、大事な言葉でした。


 愛先輩は、まっすぐ聞いてくれました。


 そして、静かにうなずきました。


「君らしい答えだ」


「そうでしょうか」


「少し臆病で、でも誠実だ」


「臆病は余計です」


「では、慎重」


「そっちの方がいいです」


「わかった。慎重で、誠実だ」


 愛先輩はそう言って、残りのチョコをもう一口食べました。


「やはり、おいしい」


「ありがとうございます……」


「来年も、もらえるだろうか」


「えっ」


 わたしは固まりました。


 今、何かすごいことを言われた気がします。


「ら、来年?」


「ああ。無理にとは言わないが」


「それは、その、えっと……」


 顔が熱くなります。


 今度こそ何か出そうです。


 でも出ませんでした。


 代わりに、胸の奥が静かに温かくなりました。


「……作ります」


「そうか」


「魔法なしで」


「楽しみにしている」


 わたしは、もう限界でした。


 恥ずかしいのに、嬉しくて、どうしていいかわかりません。


 布団をもう一度かぶりたい。


 でも、愛先輩の顔も見ていたい。


 矛盾しています。


 人間って大変です。


 そのとき、保健室の時計が鳴りました。


 チク。


 チク。


 チク。


 音が妙にはっきり聞こえます。


 壁の時計ではありません。


 もっと近く。


 でも、どこにもない場所から聞こえる音。


「那々美?」


 愛先輩の声が、少し遠くなりました。


「愛先輩?」


 視界が、ふわりと白くなります。


 保健室の白いカーテンが、白いページみたいに広がっていく。


 消毒液の匂いが薄れ、代わりに紙とインクの匂いがしました。


 愛先輩の姿が遠ざかります。


 でも、不安はありませんでした。


 目を閉じる直前、声が聞こえました。


「やあ」


 目を開けると、そこは真っ白な場所でした。


 空も地面もない。


 白いページの中のような場所。


 そして、そこにウサギがいました。


 水色のジャケット。


 シルクハット。


 ステッキ。


 懐中時計。


 夢で会った、あのウサギです。


「あなたは……」


「また会ったね」


「ここは夢ですか?」


「夢とも言えるし、目覚める前の余白とも言える」


「また難しいことを」


「君は少し慣れてきた」


「慣れたくはなかったです」


 ウサギは楽しそうに耳を揺らしました。


「魔法使いの一日を過ごして、どうだった?」


「大変でした」


「楽しくはなかった?」


「……少しだけ」


「怖くはなかった?」


「とても」


「それで、まだ魔法使いになりたい?」


 わたしは黙りました。


 朝なら、答えに困ったと思います。


 でも今は、少し違います。


「わかりません」


「正直だね」


「でも、魔法があっても、何でも叶えたいとは思いません」


「なぜ?」


「叶えちゃいけないものがあるからです」


「たとえば?」


「人の気持ちです」


 ウサギは懐中時計を開きました。


 針は、今度は止まっていませんでした。


 ゆっくり、でも確かに動いています。


「君は魔法使いになった」


「はい」


「でも、魔法を使わないことも、魔法使いの選択だ」


 その言葉は、不思議とすとんと胸に落ちました。


 使えるから使う。


 叶えられるから叶える。


 それだけが魔法使いではない。


 選ぶこと。


 使わないこと。


 自分の手でやること。


 それも、魔法使いの選択。


「じゃあ、わたしは……」


「君は君のままでいい」


 ウサギはステッキで、わたしの手元を指しました。


「ただし、忘れ物だ」


「忘れ物?」


 見ると、わたしの手のひらに小さなチャームがありました。


 懐中時計の形をした、金色のチャーム。


 ウサギの持っている時計に少し似ています。


「これは?」


「お守り」


「魔法の道具ですか?」


「そうかもしれないし、ただの飾りかもしれない」


「どっちですか?」


「君が決めることだね」


「便利な言い方ですね」


「ウサギだからね」


「関係ありますか?」


「あるとも言えるし、ないとも言える」


 ウサギは帽子を持ち上げました。


「よいバレンタインだったね」


「……はい」


「では、日常へ戻る時間だ」


「また会えますか?」


「時計が進めば、いつかは」


「それは、会えるんですか?」


「さあね」


 ウサギはぴょんと跳ねました。


「でも、君が本を開くなら、道はどこかにつながる」


 白い世界がほどけていきます。


 ページがめくられるような音がしました。


 わたしはチャームを握りしめました。


 そして――。


「那々美」


 愛先輩の声で、わたしは目を開けました。


 保健室でした。


 カーテン。


 ベッド。


 窓。


 チョコを持った愛先輩。


 さっきまでと同じ景色です。


 でも、少しだけ違います。


 手の中に、小さな金色のチャームがありました。


 懐中時計の形をしたチャーム。


 わたしはそれを見つめました。


「夢……?」


「眠っていたようには見えなかったが」


 愛先輩が不思議そうに言いました。


「急にぼんやりしていた」


「そう、ですか」


「体調は?」


「大丈夫です」


「本当に?」


「はい。たぶん」


「たぶんか」


 愛先輩は少し笑いました。


「それは?」


 彼女は、わたしの手の中のチャームを見ました。


「えっと……お守り、です」


「いつから持っていた?」


「今から、です」


「不思議な答えだな」


「今日にぴったりです」


「たしかに」


 愛先輩はチャームを見つめました。


「懐中時計か」


「はい」


「似合っている」


「またそういうことを言うと……」


 わたしは慌てて周りを見ました。


 花は咲きませんでした。


 紙吹雪も出ませんでした。


 羽根も舞いません。


 ただ、チャームが小さく光った気がしました。


「……出ませんでした」


「少し残念だ」


「愛先輩?」


「冗談だ」


「本当ですか?」


「半分」


「半分」


 わたしは思わず笑ってしまいました。


 愛先輩も笑いました。


 保健室の空気が、少しだけ軽くなりました。


 遠くでチャイムが鳴ります。


 授業の終わりを告げるチャイムです。


「戻れるか?」


 愛先輩が聞きました。


「はい」


「無理はしないように」


「はい」


「チョコは、持っていてもいいか?」


「もちろんです」


「大切にする」


「食べてください」


「大切に食べる」


 その言い方が優しくて、わたしはまた顔が熱くなりました。


 でも、今度は魔法は出ません。


 その熱は、ただのわたしの気持ちでした。


 わたしはベッドから降りました。


 少しふらつきましたが、愛先輩が手を差し出してくれます。


 今度は、魔法ではなく、自分の手でその手を取りました。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 保健室を出る前に、わたしはチャームを制服のポケットにしまいました。


 小さな重みが、そこにあります。


 魔法使いになった証なのか。


 ただの夢の名残なのか。


 まだわかりません。


 でも、一つだけわかりました。


 魔法があっても、恋だけは魔法じゃない。


 チョコを作る手も。


 差し出す勇気も。


 受け取ってもらえた嬉しさも。


 全部、自分のものだから。


 廊下へ出ると、佐藤さんが駆け寄ってきました。


「珠瀬さん! 大丈夫!?」


「はい。大丈夫です」


「魔法少女、大丈夫?」


「その呼び方はやめてください」


「じゃあ、バレンタインの魔法使い?」


「もっと恥ずかしいです!」


 佐藤さんの後ろから、見上宙さんがひょこっと顔を出しました。


「……次、空中戦」


「しません」


「残念」


「残念じゃないです」


 愛先輩が隣で小さく笑いました。


 わたしはその笑顔を見て、胸の奥があたたかくなりました。


 魔法は出ません。


 出なくていいのです。


 今日はもう十分、魔法みたいな日だったから。


 ポケットの中で、小さな懐中時計のチャームが、ちく、と鳴った気がしました。


 わたしはそれをそっと押さえて、いつもの教室へ戻っていきました。


 魔法使いとしてではなく。


 珠瀬那々美として。

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