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ティア・オブ・スチームキング

 なみだが血潮で贖われていると識ったのは何時の出来事であろうか。

 多分、悲しみ打ち拉がれるしか能の無い私はそれを生まれた瞬間から理解していたのかもしれない。

 泣くことは悪いこと。

 暮れる醜態は視る者全てを魂の根源から不快に歪ませ腐り堕とす。

 泣くことは酷いこと。

 歪み腐敗し澱む感情は誰も彼も巻き込みまるで流行病の悪辣さで広がり続ける無限致死の病原菌。

 泣くことは殺すこと。

 あったかもしれない選択すら泪で霞む瞳は捉えきれなくなる。

 それは当たり前な結末こうふくの欠如。

 視界の開けた広い道路の真ん中で足蹴にもならない小さな一粒石ころに進んでつまずいてしまうように、悠久の未来へ枝分かれする可能性の系統樹を虚無の血に染める赦すべからず大虐殺。私の泪は理由を問わず、遍く生命を汚し犯し嬲り殺す極罪。

 そんな私に、

 そんな私を、


 そんな私へまさか手を差し伸べてくれる人がいるなんて夢にも思わなかった。


 「聞こえた」

 彼はまず最初にそう発言した。

 音もなく流れ落ちる滴に耳済ませながら、

 「嘆きが聞こえた」

 彼に耳は無かった。

 生身ですら無かった。

 人か妖精か悪魔か神か、そもそもそれらに該当するのかすら怪しい巨大な人影。

 あえて上げるなら人の幻想ゆめ

 幻想ゆめがそのまま形を鋼の歯車と蒸気の動力へ織り成したような鉄塊巨人。

 悲しみの声ある限り悪に栄えたためしなし。

 鋼鉄の正義が今宵も嘆きを切り裂く。

 「待たれよ」

 私を夜の帳の魔手から救ってくれた彼。

 まるで正義の味方が形になった鋼鉄の徒。

 慌ててお礼を口にしてその場を立ち去ろうとした私の隠し事をピタリと当てる。

 「身体のバランスに著しい変調を観測した。恐らく先程の一連で右足首の筋肉へ過負荷が生じたと推測される」

 一瞬の浮遊感。

 私は冷たい鋼の両腕に優しく抱き上げられていた。

 「送ろう。傷付いた女性を一人闇に放置して去るは紳士の行為に在らず」

 月の綺麗な夜道。

 暴漢から助けてくれた彼の影が月明かりに溶ける。

 「あの、お名前は」

 「我が銘はチャールズ・バベッジ」

 再度、重ね重ねお礼を口にする。

 助けて下さって、本当にありがとうございます。と、

 「紳士として当然のことをしたまで。此の鋼鐵こうてつの聴覚素子は如何なる慟哭を利き違えず。闇路の寄辺として馳せ参じたまで」

 時間はあっという間。

 それでも抱き上げられるまま運ばれる私には何十年も連れ添ったような無限の時間。

 高鳴る鼓動が痛いぐらい鼓膜を揺さぶる。

 そして私の足首の捻挫を和らげる算段と自宅へ帰るための移動手段を立派なヒッチハイクで確保する。

 「それではこれにて」

 ふらりと鋼鉄の冷ややかさが肌の温もりを忘れる。

 生身はだ鋼鉄はだで触れ合っていた私の身体は安全な街路の軒に腰掛けさせられて彼と離れ離れる。

 鼻腔をくすぐる蒸気の香りが別れの前兆。

 「あーー」

 一瞬、閃光のように脳裏を突き抜ける予感。

 このまま別れたら、きっと、これが最後の機会。

 鋼鉄を纏う彼と自分の道は今後交わることはない。

 そんな予感が確かな未来として私の頭の中のノートへ羽根ペンを奔らせる。

 「ーー待って!!」

 気付くと、自分でも驚くほど大きな声で彼を呼び止めていました。

 「待って、下さい」

 後になって後悔してそんな自分が嫌になって、それでもそれでも、

 「お願いが、あります」

 手放したくないこの運命ひとを。

 自分でも、出逢ったばかり相手に何を強く執着しているのか意味不明で、だからこそ、必死に手を伸ばして掴んで引き止めてまるで駄々を捏ねる子供のように切実に。

 どこか余所余所しい私。

 どこまでも雄々しい彼。

 どこか恥ずかしい私。

 どこまでも逞しい彼。

 まったく釣り合わない彼と自分。

 それでも、

 この瞬間だけは、

 自分の小さくいじらしげな丸い背中を彼の大きな鋼鉄の肉体に負けないように一杯胸を張って、泣いてばかりの私はなけなしの勇気を振り絞って彼に伝えます。

 この刹那を一期一会に変えない為に、

 「私と、お、友達になってはくれませんか?」

 それがチャールズ・バベッジくんと私の縁結び。

 夏の始まる夜の出来事でした。



 「で、好きになっちゃったと」

 俺は終始語りに耳を傾けた。

 要約すると、

 「けど近すぎて友達としての今の関係が壊れるのが怖くて一歩を踏み込めないと」

 「はい、ハーロット先生」

 時は七月上旬。

 学生の一大イベントの一つ、夏休みが明けて数日。

 生徒たちの休みボケが幾分か和らいだその時分に俺はとある女生徒から甘く切ない相談事を持ち込まれていた。

 「それで何故、私もこの話し合いに参加しているのでしょうか」

 巻き込まれたペンドラゴンを含めて。

 ちなみに例の黒い竜は春のゴールデンウィークの前夜から今日に到るまで多々間々に顔を出すことはあったが最初期の盛大な破壊活動は大きく縮小傾向にある。

 そんな外界に現れるほど内面での不安が払拭されつつある頼りがいのある少女騎士が戸惑いげに彼女自身も気付かずに俺へ助け船を求めていた。

 「剣を振るい、礼節の道を説くならば十全に力となれましょう。仮にも一国を担った自負も実績もあります。しかし、恋愛事となりますと少々心許なく私では力になれるかどうか」

 「そんなことありませんって!!」

 何故かブリテンを預かる騎士王の言い分が大きく反論された。

 「だってペンドラゴンさんは恋愛経験豊富じゃないですか!」

 「そ、そうですかね」

 「もちろんです! だってペンドラゴンさんの名台詞『真実の愛とは自然と湧き上がるモノでなければいけない』はあまりに有名です。それを聞いた時は私感動して枕を濡らしちゃって」

 「へ、へえ、そこまで有名に、てて、照れちゃいますね。えへへへ」

 「極めつけに自分のお姉さんとの間に子供が出来ちゃったり結婚した奥さんが信頼できるお友達と不義理を結んだりお姉さんとの子供を認知しなかったばっかりに国中めちゃくちゃの滅亡のもう波瀾万丈ーーどうしたんですかペンドラゴンさん。そんな急に視線を床に向けてどんよりと肩を落としながら何か辛いことでもありましたか?」

 もう止めてやれ。

 騎士王の体力がデッドラインで限界だ。

 「泣沢なきさわ

 俺は相談を持ち込んだ生徒の名を呼ぶ。

 「大筋は聞かせて貰ったが、まだお前が具体的に何をどうしたいのか分からないままだ」

 骨子を曖昧にされては相談の意味が無い。

 「お前は何をしたい」

 「好きって云いたいです」

 その為にまず、

 「デート……誘いたいです」

 「じゃあ直接バベッジにそう伝えるしかないな」

 「…………っ」

 沈黙があった。

 言い淀む。

 言葉が出ないのではなく出せない。

 喉奧に引っかかるその台詞を吐き出したら血を噴き出して喉元が切り裂かれてしまう切実な表情。

 俺は泣沢が言葉を選び終わるまで何時間でも待ち続けるそんな姿勢を自分自身へ心掛けた。

 「怖いんです」

 一言は短く。

 その発言に至るまで泣沢はおそらく無限にも等しい体感時間を味わっていたに違いない。

 「可笑しいですよね。返事して貰いたいのに、その瞬間を思うと、もしかしたらって考えて、怖くて、口が開けなくなっちゃうなんて」

 勇気が欲しい。

 彼女が欲するのはそんな前を進む最初の原動力。

 それは欠いた状態の瞳には軒先の風景が断崖の絶壁に等しく。

 「カナン先生」

 「言われてもなあ」

 「100%想いが伝わる恋文とかありませんか」

 「そんなの都合のいいものあるわけーーあ」

 さも何か思い出した素振りで手を打つ。

 俺の所作に狙い通りに二人視線が釘付けになる。

 「まさかっ!?」

 「手紙はない。自分で書け。だが」

 相談場所として活用していた放課後の人気が失せた教室。

 俺は座していた自分の仕事机の引き出しの奥を開き手探りで弄る。

 確か、ここに、よし在った。

 コロンと灰色のデスク上へ転がる包み紙入りキャンディー。

 「飴玉なら前に押し付けられたな。葦原禁制の」

 一見、普通の飴玉。

 されど葦原の飴玉。

 八百万随一の女誑しによる飴玉。

 「この飴玉を最後まで噛み砕かずに舐めしゃぶってから告白すると必ず想いが成就する」

 泣沢が期待する効能を簡潔に纏めた。

 葦原ーーブリテンの円卓ではマーリンの名前ではっちゃけていた魔法使いでもあるーー古事記に語られる国作りの色男にはこんな逸話を口にしていた。


 ある日、彼が美女を漁りもとい国作りの為に諸国漫遊していたとある旅路から主屋へ帰宅したあくる日の出来事。

 彼には、葦原には一人の友がいた。

 葦原が国作りを初めてから長いこと相方として苦楽を共にした間柄。この友情が永久に続くと信じ抜いていた葦原へその友人は唐突に、

 「私は明日、海の向こうへ旅立たねばならない」

 避けられぬ離別を口にした。

 これが永遠の別れになるだろうと。

 私は大海原の果てたる常世の国へ還らねばならぬと。

 そして葦原は気付いてしまった。

 自分の胸の裡で燃え盛り叫びを上げる友への渇望に。

 それはどんな大恋愛より熱く切なく心臓を締め上げる。

 堪らず一晩寝ずに調合した霊薬。


 「これはそんな由緒正しい効果抜群な霊薬を現代風にアレンジした飴玉。もしくはトローチだな」


 ざわめく胸中を飴玉舐めしゃぶり一時静め爆発しそうな魂を抱えて去ろうとする友の背に手を伸ばし大声で呼び掛けた。


 「いくなスクナヒコナぁ!! 僕は千の妻よりも無二の友である君が一番大切なんだぁ!!」


 「最低ですねその人」

 「まあ仕方ない」

 「マーリン……あなたは……どこまでっ……」

 「それで、それから二人の親友同士はどうなったかと言うと」

 「「言うと?」」

 人差し指と親指で摘まみ上げた飴玉をヒョイッと泣沢へ投げ渡すと、慌てて彼女はその一粒の包み紙を必死に受け止めた。

 「その親友だちは、今じゃアイツの嫁の一人だって話。これ以上の言葉いるか?」

 「お腹一杯ですありがとうございますご馳走様でしたあああ!!!」

 「そんなものが……実在するなんて……」

 「いや、案外こんな話は世界中の至るところにあるもんだぜペンドラゴン。中にはその効果を悪用して無理矢理自分に惚れさせたりするクズもいるが。俺は担任として泣沢を信用してこれを託す。くれぐれも使う相手は限れよ」

 「そんなの当然です!!! ハーレム断固反対です!!!」

 よしよし、どうやら今の話は効果覿面。

 見るからに泣沢からまだ視ぬ未来への不安が取り除かれている。

 これなら十分に事を為せると俺は判断した。

 「よし、じゃあ早速行って来い。勇気、出ただろ?」

 「はい!!」

 「ちゃんと告白する前に全部舐め切れよ」

 「ご忠告ありがとうごさまいました!! では、行って参ります!!」

 廊下は走るなよと言うより早く速く泣沢は教室から廊下の彼方までを全力疾走。

 喜び勇み過ぎて怪我したら元も子もない。

 ふと、葦原をよく知るブリテン王がどこか不思議そうに走り去った泣沢の残影へ目を細める。

 「初耳でした。まさかあのマーリンがそんなものを」

 「識らねえのは当たり前だ」

 と言うか、

 「全部俺がでっち上げた嘘八百だからな」

 「ふえ!!?」

 泣沢が欲しかったのは未来の確約ではない。

 未来を確約させる為の勇気そのもの。

 それを与えられるなら嘘もまた方便成り得る。

 「嘘なんですか!? それじゃあ」

 「恋愛の秘訣は後にも先にも変わらない」

 意中へ届く恋文も必ず成就する飴玉もその秘訣を前にしては二番手三番手。

 何よりまず大切なことそれは、

 「真っ正面からぶつかる以外に道はねえよ」

 まあそれでもこのまま騙して終わらすのでは無責任が過ぎるのも事実。

 よって、俺たちは廊下を走り去った泣沢女生徒の行き先にショートカットルートで先回りして情勢を見守ることにした。

 場合によっては適切なフォローを考慮に入れて。

 飴玉を噛まずに舐めしゃぶるだけの猶予があれば追いつき追い越すのは容易い。

 チャールズ・バベッジの自宅はアーサーたちの通う学園のすぐ近くというか校庭なかにある。

 広いグラウンドの長い四方の一辺を陣取る形で安置された徒歩0分の長大な鉄と歯車と蒸気シンリンダーの複合構成物。

 なにしおう蒸気王は普段、自作の蒸気機関車の内部で居住している。登校前や放課後そして休みの日などは機関車内に常設されている開発室で己の科学技術を錬磨している。

 チャールズ・バベッジ。

 早過ぎた蒸気文明の異才。

 死後、有する想念と妄執によって人でありながら幻想の領域へ到達した鋼鉄巨人。存在の許す限る邁進を止めない泣沢女神(なきさわめ)が想い寄せる鉄血の異性。

 「結果は良好か。泣沢」

 呼び掛けに答えたバベッジに偽りの飴玉の効力によって背中を押された泣沢が一歩前に踏み出す。

 覗き見がバレない程度にほとぼりが冷めてから俺は泣沢へ声を掛ける。

 真夏の向日葵に負けない笑顔がそこにはあった。

 「先生! あの魔法の飴玉すっごい効き目です!」

 その魔法は飴玉の力じゃない。

 「今度の週末に」

 お前の勇気だよ。

 「バベッジくんと一緒にデートしてきます!!」



 大西洋海抜三千メートル。

 日本列島沖合い四百海里の通話。

 「情報提供感謝する」

 太陽が二つあった。

 片や、遥か天上の彼方から祝福の光を降り注ぐ。

 片や、うみねこが鳴く海原をまるで裁きの鮮烈さで灼熱の砂漠へ干上がらせる。

 とても生命が、幻想に属する存在ですら一秒で燃え尽き灰と化す地上の煉獄。だがしかし、その存在はそんな灼熱地獄の具現の只中で玉座に腰掛け悠然と感謝の言葉を口にしていた。

 「幾ら感謝を重ねても足りぬ。貴殿の忠言はまさに黄金に等しい」

 大海を穿つ空中移動物体の正体は博識がある者が目撃すれば精緻にして豪華絢爛な神殿の威容を理解し得たかもしれない。

 「どれほどこの刻を待ち侘びたか。待たれよ我が麗しの君」

 進路を湧き上がる情動のままに舵を切る。

 葦原より高天原へ至る八百万の学都へ。



 さて、己から生じた黒き破壊衝動に一端の幕を引いた私であったが、解決と呼ぶにはまだ内面的にほど遠くとも一段落付いたものはものとしてならばこうして永らえた命で為すべきことを為そうと再燃発起して行動を開始した。

 それは何かと言うとこの学園都市タカマガハラの全てを熟知・把握する道程。

 トラブルを未然に防ぐ名目で自分の手が届き触れられる或いは今後接触可能と予測される範囲を領域的に支配すると呼んで差し支えない。やはり王として生まれ王として育ち王として死して生まれ変わった者として、こういう現状把握とそこから段階的に今後の政策を最低数千通りのおおよそ100年単位のスパンで国政予算と配分を構築する行為は何度思考しても好ましい。楽しくて手が止まらない。世の為、人の為、遍く生命の安否の為にこの命を賭して事を為さねばならぬと己に律していたそんな死の呪縛から解き放たれた影響も好意的に影響を及ぼしていた。なのでついつい自分の手に負えない他人からの相談事に安請け合いしてしまったことが多々存在する。そんな相談事の依頼主である泣沢に自分の存在の是非を問うたが実際ほとんど自分から首を突っ込んでいるに等しい。よって私は最後まで見守る責務がある。だからこうしてデート当日。私は私の責務を完遂すべく二人の恋路に完璧ストーキング行為に及んでいた。

 「30点」

 そしてそのハイド&シークな私を背後から採点する声が気配を完全遮断していた私の旋毛に裏拳の衝撃を木霊させる。

 またも不覚に潤む視界に痛み響く旋毛を両手で押さえて俯く膝立ち姿勢。

 「何するんですか」

 「お前が何しとるんだ」

 カナン先生が私に呆れた風に旋毛を押してくる。

 押さえた掌の上からグリグリとゴリゴリと、うう、そんなに押さないで下さい。

 地味に響くんです痛い痛いあいたたたッ。

 「こんなところで何してる」

 「あああたたたふっ二人の行く末が気になってええええ」

 信じられない。

 仮にも無数の戦場を無敗で駆け抜けた王たる我が身。

 血風迅雷の鉄火場で研ぎ澄まし鍛え上げた反射神経と警戒心をこうもいとも容易く潜り抜けて拳骨をグリグリさせるなんてあいたたたッーーこの先生、やっぱり並の人間じゃない。終末誘発体マザーハーロットの顕彰体なのは葦原マーリンから聞いて入るがそれとは別に生身の人間としての身体能力が際立っている。まるで私と同等あるいはそれ以上の地獄にどっぷりと全身を浸からせて歴然の兵士が如く出で立ちーーっ!!!

 「シリアスな空気醸し出して誤魔化そうとするな。お仕置きとしてグリグリ5分間」

 うわあああん、止めてエエエっっっ!!!

 さすがに無様に泣き叫ぶ真似だけは遵守したが、ジャスト5分で拳骨万力から解放されるまで、先生の拳先に翻弄される私は叫き喘ぐしか能を無くす。

 「懲りたら帰れ」

 それは出来ない!!!

 私には二人を見守る義務がある。

 見守りたい。今だって、一瞬でも目を離せない。二人の一挙手一投足が最高の名場面。

 しかし、

 今は少女の笑みに陰りが見える。

 泣沢はどこか無理している様子がこうして立ち寄った公園のベンチに腰掛けながら談話を楽しんでいる現状ですら見て取れてしまう。

 やはり、好きな男子と初めて二人きりでショッピングは荷が重すぎたのか。こればっかりは時間しか解決出来ないのか。あるいは何某の切っ掛けでストンと収まるか。拭えぬ緊張と言うなの苦悩を微笑みの裏へひた隠す泣沢。そんな彼女を3メートル大のドラム缶に手足を付けたモノアイ鉄塊は眺め下ろす。

 そして、

 トントンとプルトップを引く前のスチール缶みたいな指先で器用に泣沢の肩を軽く突いてから視線をある方向へ誘導する。

 パンっ!!!ーーと花咲く鋼鉄の五指。

 虚空を散る色取り取りの花吹雪。

 どこから飛び出したのか鉄拳のマニュピレーターから白い鳩がつぶらな瞳で少女の驚き顔を小さく仰ぐ。

 舞う白羽。

 宿り木を鋼鉄の巨躯へ見つけ寄り添う。

 無数の鳩がバベッジの頭部外装へ羽休める姿はどこか笑いを誘う滑稽さに充ちていて、

 あっーー。

 お腹の底から笑う泣沢。

 その彼女の双肩。一時間以上前に待ち合わせ場所に到着して更に三時間前から不動の姿勢で待ち続けていた鋼鉄紳士との出会い頭から背負わされていた余計な気負いが自然と綺麗さっぱり雲散霧消している。

 彼女を抱腹させた蒸気王の手品はひとえに緊張を解き解すささやかな贈り物。全て計算尽くでやったとしたら中々に腕前の立つそして他者の心の機微を悟れる大した男前である。

 二人の現状はまさしくカップル。

 余計な気負いが排された絶好のシチュエーション。

 鋼鉄と微笑みのまなじりに泪を浮かべる少女の間に流れる暖かな空気が彼らを祝福するラッパの音色を奏でる様を幻視する

 ーーほほう。

 ほうほう、これはこれは、傍目から観ても中々良い空気でありませんかお二人とも。

 これはもしや、最後まで、っちゃいますか?

 私は夢中で、夢中の私を先生は諫める。

 無防備な背後を警戒する。

 「そろそろ止めにしておけ」

 「なりません。まだ一番の告白場面クライマックスがっあいたたたッ」

 「ペンドラゴン。今後の学園生活の為にも憶えておけ」

 カナン先生の言葉が私に釘を刺す。

 強く深く。

 「蒸気王あいつの最大索敵範囲は半径7億7万7千キロだ」

 曰く遮蔽物の皆無な宇宙空間でならば高速移動するデブリにすら未然に対応可能と本人談。

 「地上だと精度は落ちるようだが、この近距離なら、俺もお前もとっくの昔に気付かれている」

 先生に指摘されて私は明らかに自分自身の周囲に対する認識が疎かになっていたと理解した。

 追う側である私は不覚の内に追われる側へ転向を余儀なくされた。

 影に潜む形で密集する虫の鳴く不快な羽ばたき。

 軍隊規模の鮮血色単眼が瞳孔代わりのレンズによる凝視の集中放下で私の全身を睨め回し貫き尽くす。

 それは蒸気王を付け狙う外囲へ放たれた自動機械人形オートマータ

 創造主の意志に従い紫電を漲らせ鋼鉄の細胞たちが不審者二名へ狙いを定める。

 「……まさか俺も?」

 教師の問い掛けに一斉に頷き返される肯定の自動所作。

 そうかそうか、と頷き困り顔で自身の頭髪を掻き毟りながら、

 「逃げるぞ」

 先生は私の手を強引に掴んで後ろ手に逃走を開始した。

 「人の恋路を邪魔して馬に蹴られたら洒落にならねえ」

 連動して、鉄と鋼が牙を剥き互いに貪り尽くす赤錆色の鈴鳴りが背後で一層気配を増した。

 遁走を選択した私たちへ迫らんとうなじがチリチリと火鉢の先端を押し当てられるように圧迫される。巻き込まれたら一溜まりもない断頭台。渦巻きこちらへ接近してくる。頭から飲み込まれてしまうのは時間の問題。

 「こっちだ来い」

 先生は私の手を握って力強くそこに在ってないような小道へ誘導した。

 正確に言えば本当にそれは現実に存在しない通路。

 タカマガハラは人類が繁栄を謳歌する地上とは同一にして異質の空間に都市を構えている。

 物理法則が支配する現実と隣り合う形で存在するのが私たちが今居るこの重層領域。

 そしてこの重層領域には所々小さな綻びが点在している。

 これらは現実と異相である重層領域の摩擦により生じる。

 異なる時空間に対して土台である三次元は一つだけ。

 自然と両界は互いの領域を浸食し合い鎬削り続ける。これは人間が呼吸を止められないのと同様の世界の生理反応。時空間を絵の具に例えると分かり易い。

 塗り重ねられた時空間えのぐいず三次元がばんは限界を迎える。時空間えのぐ三次元がばんを突き抜ける。そうやって生まれた世界の空隙、虚実の狭間、真の無間を差してこれを便宜上風穴ジャックスポットと呼称する。通常では観測すら困難なしかし確かにそこに確立された虚構三次元平面体。それをカナン先生は容易く当たり前に近場の店の出入口を通過するように私を引き連れて入り込んでしまう。

 「知ってたんですか。そこに風穴があると」

 「いんや、見回したら丁度良い隠れ場所を見つけたから入ってみた」

 やはりこの人は瞳が優れている。

 つまり所見で看破。

 あり得ない。加えて一番私が驚いたのは、

 「よし先回りするぞ。こっちの路地裏から裏口シャーロック・ホームズを抜ければ泣沢たちより7分早く現地到着出来る」

 誰より凄まじくカナン先生が裏道に至るまでの移動ルートを熟知以上に理解していたこと。

 時には道ならぬ路すら利用して先に進む猫の器用さ。

 ちなみにシャーロック・ホームズはタカマガハラストリートの四番街にある喫茶店兼ビールバーの名称。夜になると出されるTボーンステーキが格別だとか。けど勝手にお店の裏口を使ったら怒られるのでは不思議に尋ねると私を後ろ手で引き連れる先生は、

 「許可取ってあるに決まってる」

 どこまで冗談なのか、それとも全て本気か。

 「但しうちの生徒の為って条件付きだけどな」

 この人は本当に自分の生徒のことになると全力以上の力を発揮する。

 「飛び降りるぞ」

 「それはもう裏道じゃなきゃああああ!?」

 時には都会の森でターザンに為りきる。

 小さなインディージョーンズになった気分を私は今日一日で沢山過ぎるほど味わい尽くした。

 夕暮れが遠くとも日はいずれ眠りにつく。

 「どーーどこまで、ぜえぜえ、何時まで、ふうはあーー逃げるつもりですか先生え」

 「何時までも、どこまでもーー冗談だ顔を青くするな」

 逃走に遁走を重ね合わせた4時間45分の大脱走劇の幕引きに息切れた私を連れて先生は舞台を空の一坪に選んだ。

 四角く空を区切られた茜色。

 くすんだ鼠色の路地裏と網目状に張り巡らせた小道が交差した一点に形を為す群像地帯。誰も、人も、幻想の類すら知らず識らず内に忘れた日溜まりの空白。

 「悩みを抱えていたのは泣沢だけじゃない」

 どこへも行けるのに、そこにしか居場所がない罫線上の濁点。

 先生がぽつりと自分がここにいる訳を口にした。

 「バベッジも最近、変な視線に悩まされていた。俺はその正体を探っていたーービンゴだ」

 私には見えない。

 伽藍堂を過たず隠れ蓑とする空白へカナン・ハーロットは人差し指を突き立てる。

 「そこまでだニコラ・テスラ」

 高笑いが木霊した。

 「フハハハっバレていては致し方なし! ならばこの身を隠す謂われはなくなった!! では思う存分堪能してくれたまえ我が偉大なる痩身を!!!」

 光が眩く輝いた。

 虚空を視る双眸が青白い閃光に遮られる。

 目蓋の裏に焼き付いた残光を掌で覆い隠し拭い去るとそこに大電量の稲光を蓄えた巨漢が天を抱き大地に突き立つ。

 「雷電駆ける天才。ニコラ・テスラ推参っ!!!」

 中等部所属のニコラ・テスラ下級生。

 確か、度々バベッジ同級生の背後か右隣に合い立つように付き従っていたと記憶されている。

 「ご名答!! 私こそがニコラ・テスラである!! 時に我が先達の教師殿。一つ聞いて宜しいかな」

 何故、この場所が分かったのか。

 何故、姿を隠していた自分の正体に気付いたのか。

 「簡単だ。あれ、お前が創った機械コイルだろ。あとは感だ」

 「直感とは!! フハハハハっなんとまあ我が忌み嫌う単語がなばえの如く耳を障ることこの上なし!!」

 「笑ってないで答えろ。テスラ、お前なんでバベッジにストーキングなんてかまかけてる。尊敬する先輩なんだろ」

 「問うかこの天才に。ならば答えよう我が偉大して壮大なる展望を!!!」

 洛陽を背景に

 「よいか、私は天才だ。故に世界は天才を求め欲する」

 独自の思考回路から繰り出される難解な台詞を随時翻訳していくと以下のようになる。

 天才を理解する者もまた天才。

 我等は引かれ合いそして互いに高め凌ぐ運命の元に存在する。

 「だが私たちの蜜月を邪魔する不穏分子を天才たるこの私は鋭敏にこの未来予知に迫る多機能満載高機能頭脳でこの天才たる我等の覇道に転がってきた石ころにーー気がつかない訳がぬぁい!!!」

 その偉大なる星辰の運びに有象無象の凡俗が入り込む余地などさらさら無いと沈みゆく太陽へ吼える。

 「というかあんな女神・よ・り・もおおおーーこの私がいるではないか!!!」

 一気に話が奇想天外に舵を切った。

 「バベッジ先輩の右腕こそーーこのニコラ・テスラが真に相応しいのだあ!!!」

 つまり犬も喰えない痴話喧嘩。

 しかも片方はそんな稚気に微塵も気付かない一方的な片想い焦がれ。

 名高き雷電博士は尊敬し敬愛する先達の恋愛模様に気に食わない私だけを見ろと天才的頭脳で適確に妨害に及んでいたのだ。まるで科学の発展に恋愛など不要と断言するかのように。

 「そ・し・て・いかな尊敬し敬愛する先達でろうとなかろうとーーこのニコラ・テスラより先に恋人できるのが純・粋・にっ!!!嫉ましいのだあ!!!」

 「かなり下世話な目的!!?」

 「黙って頂こうブリテンの騎士王っ!! 中学~高校に掛けての恋愛経験がどれだけ高ステータスかーー貴様に分かる道理か」

 「下らない」

 「ふむふむそうであろうそうでーーぬあああにいいい下らぬだとおおお!!?」

 「その通りです。愛や恋を、高々見栄を張る装飾品程度にしか考えられないなんて」

 「ぐうううぬぬぬぬーーーーレディ、貴殿に崇高なる天才の理念は概算するとまだまだ一世紀ほど早過ぎたようだ」

 「女扱いしないで下さい。元は私も男です」

 「なんだと貴様!!! モロッコか!!? エジソンなのか!!?」

 「いいえ歴とした女子です。ただし生前むかしは男性でした。と言うか、何故そこでエジソンくんの名前が出るのですか」

 「決まっている。奴が、そうだからだあーーッッッ!!!」

 ハイテンション&トップスピードな会話は何度か続き、

 「なあテスラ」

 ズレた論争に介入する先生が論点を起点へと戻す。

 「ストーカー止めろ」

 「叶わぬ相談だ。そして間違っているぞ教師殿」

 早過ぎた天才肌は他者を拒絶で寄せ付けない。

 既に結論付けた相手に何を言っても無駄なこれは代表例。

 なまじ頭が良いから取り返しが付かなくなる。

 「これは誅伐である。邪魔立てするならば先達の教師と同級生であろうと私は躊躇せずに兇器を振るうだろう」

 私は場の空気が変わる一瞬を悟った

 「かの悪鬼エジソンが為した忌むべき虐殺が如くこの雷電を血に汚すことも厭わない」

 同時に自分自身すら根本から魂の底までとある用途に限定されていく。

 生徒としての少女から、王者としての騎士の在り方へ。

 これは暴力渦巻く闘争の気配。

 既に相手は害意的解決を何十通りも模索している最中。

 「痺れるぞ。怪我したくなくば潔く散れーー!!!」

 紫電が虚空を引き裂き口火を切った。

 狐の嫁入りならぬ雷神の降臨。

 天空から突き立つ無数の雷光が全てテスラへ集約・収束・収斂されていく。

 「充! 電! 完! 了ッツツツ!!! 世界機構ワールドワイドーー殲滅形態デストラクションモード!!!」

 狂気なる電流戦争。

 醜き鮮烈な闘争の幕が此処八百万の大地に万雷を喝采として再臨を果たす。

 「次元屈折ロジカルバースト超電迷彩フィラデルフィア

 時空間がゆがむ。

 たわみ砕け三次元の位置座標がテスラの消失と同時に書き換えられる。

 0・000000000001秒後。

 零に等しい時の流れが雷電なる科学者を騎士王の背後へ押し流した。1・5ジゴワット相当の雷鳴轟く剛腕が騎士である手弱女わたしの無防備な背中へ大きく振り下ろされる。青白い先駆けが火花を散らし殺到する。激突、衝突、刃鳴り慟哭する。

 寸前で召喚した聖槍の柄頭が落雷の拳を防いでからの流れるような石突きによる刺突が両者の距離を再び開ける。適確に鳩尾を突き上げられる形で多々良を踏む紫電の仕手は鋭い痛みに胸を抑えながらも構わずに再度右腕に閃光を滾らせる。

 下手をすればこの地球の大地そのものを破壊しかねない威力が騎士の少女たる柔肌へ放たれる。

 直撃すれば一撃必死が瞬時に刹那を踏破する。

 私は雷電の穂先へ自らの聖槍を切っ先へ叩き込む。

 連ね重ね白濁に沈む閃光の路地裏で雷を斬り伏せる。

 これがニコラ・テスラ。

 幻想ならぬ現実の身で無限を実現しかけた孤高なる天才。

 「生温い」

 なるほど、貴方の実力は十分に把握しました。

 その上で申し上げます。

 「この程度で私に勝とうとは十年早い」

 古のブリテンの戦場はこれほど甘くない。

 幾ら天の威光を振り翳そうと騎士にして竜たる王のこの身に敗北は訪れない。

 単純な破壊力だけを鑑みても、かつての円卓にテスラを上回る騎士は五万と所属していた。

 十三人しかいませんでしたが。

 「次はこちらが行かせて貰います」

 私は己を組み換える。

 敵対者を殲滅すべく相応に適応に心身の歯車を回し蹄鉄を鳴らす。

 万全ならざる身体状況ながら十分に許容範囲。

 限界を迎える遥か手前で聖槍が雷電を切り裂く未来が用意に想定される。

 あの程度の雑兵なら例え千人、万人、億兆束になろうと一網打尽に、

 「無理するな」

 完全なる戦闘思考に切り替わる直前で先生はやんわりと私の髪の毛をグシャグシャにして最初の踏み切りを台無しにした。

 出鼻を挫かれた私は騎士としての己に再起動を余儀なくされて、その間に先生が代わりに踏み出す。

 「ゴールデンウィーク直前の怪我。まだ治りきってねえだろ」

 私以上に私の状態を把握した発言に言葉を無くすばかり。

 「病み上がりが一番危険だ。ここは先生に任せろ」

 「喋っている暇など与えんぞふあああライトニングっ!!!」

 任せろと私を後ろへ下がらせた彼の行動は一択。

 前に進み出るそれだけ。

 他には何もしない。

 己へ突撃してくる死の八雷へ無防備に突き進む。

 「先生ッ」

 私は叫ぶ。

 「大丈夫、大丈夫だって」

 先生が宥める。

 だが歩みは止めない。

 眉を八の字に振り返るその身に殺到する危機。

 しかし結果は予想を反した。

 地を疾走していた天の黄雷がまるで見えない硝子細工の岩戸を突き抜けたように目に見えて減衰した。そして、カナン先生に辿り着く遙か手前で力尽き雲散霧消してしまう。

 先生は歩く。

 急がず、弛まず、確たる一歩を見定めながら、

 「これは一体全体何事なのだあああ!!?」

 それだけでテスラの強靭無比なる閃光は散りゆく雷光の粒子ですら先生の身に一辺たりとも触れられはしない。

 ーーあっ。

 背筋がゾクリとする感覚に、私は今日何度も体験したあれを思い出す。

 ーーまさか、これは。

 見えない、存在しない抜け道。

 先生の手に引かれてその場所を通過する度に生じた肌寒い感触が今そこから、先生の歩く近辺から断続的に肌へ伝わってくる。

 ーー風穴を開いている……?

 昔、生前の幼年期。

 マーリンから遠い東洋の魔術について教わっていた頃。

 彼から教授された知識の中に、詠唱や呪物を用いず、特殊な歩法によって東西南北・天地海面の吉凶を事と為す技法について説かれている。

 名称を禹歩と寿ぐ。

 カナン先生はまさにその足跡を意味していた。

 彼は禹歩によって作為的に生じさせた風穴を有り得ざるしかし確かにそこへ遍在する虚数の防壁として転用したのだ。それが理解できない相手にはまるで先生が悠然と自然に己の一撃必殺の雷鳴をものともせず歩み寄ってくるように感じられるだろう。そしてその様は理解不能の未知なる恐怖心を煽ぐ。

 「おおのれええ小賢しいっっっ!!!」

 そして喘鳴を途切れさせる焦燥が雷の行使者が有する脆弱性を一つ証明する。

 ニコラ・テスラは戦士ではない。

 無論、彼の科学力は生前多くの軍事技術へ秘密裏に転用されていたが本人は血に塗れた闘争と無縁の人生を全うした。

 故に、どれほど威力を誇ろうと操り手であるテスラ自身が全くの素人では粗雑な棍棒に劣る。どれほど貴方が博識高い天才であろうと百聞は一見に到底及ばない。それが経験こそものを言う闘いの規範であればなるほど余計に先生に軍配が上がる。

 観察して確信を深める。

 この人ならきっとナイフ一本だけで大軍を相手取れる。

 徒手空拳でも一対一ならば敗北の道理は欠片として介在しない。彼の、先生の動きは、体験でしか得られない鋭く研ぎ澄まされた殺陣の結晶。

 確かなことは太く長い立派な菩提樹の盤石。

 先生と、この人と居ると、私は一人じゃないんだと無責任な安堵が胸のどこからか溢れて仕方ない。

 「ぐぬおおおおーーーーっおあ!!!」

 そして紫電を防ぎ時にかいくぐりすり抜け握られた拳が振り上げられ、

 「頭冷やせ」

 鈍い濁音が頭蓋と拳で打ち鳴らされた。

 うわ、あれは痛い。

 諸に脳天と旋毛を裏拳で串刺しにされた。

 経験した身として、衝撃が頂点より下り、左右の頭蓋に挟まれ、まるで音叉のように何十にも増幅された痛みが容易に想像できた。

 「かぺっーー」

 言葉にならない天才の頭脳を襲う言葉にし難い鈍痛。

 テスラ下級生の双眸があらん限り引き裂かれ、後方へ蹈鞴を踏み、不安定な独楽のように首を大きく回して、

 「む、ねん」

 雷電中学生は堪らず泡を噴いて仰向けに失神した。

 「明日の始まりまで寝てろ」

 こうして私たちはテスラ下級生の捕縛に成功した。

 不思議である。

 本当にどんな方法で、如何なる直感が働けばこの世から消滅した覗き魔を発見出来ると言うのか、と私が訪ねると、

 「別に難しくはない。こいつ自身を見つけようとしても無駄骨だが、バベッジと泣沢なら何時でも居場所を見つけられる」

 あ、なるほどと私はピンと来た。

 「考え無しに逃げてばかりじゃねえ。最初からここを目的地に走ってた。すぐにここへ来ることも出来たがさすがに勘付ーーお、居た居た」

 方程式が分からなければ結果から逆算すればよい。

 如何に虚空へ存在を希釈しようと定めた目的が不変ならば行動は目視可能な領域。

 「つまり付かず離れず泣沢たちを見張れる場所を誘導すればあとは勝手に網へ掛かる寸法だ」

 私たちがテスラ下級生を捕まえた一坪は、一歩二歩と表通りへ出て周囲を窺えば、歩道の奥の向こうの先の視界ギリギリで朧気だが一挙手一投足を観察可能なすぐ傍に泣沢同級生たちが笑い合う陽だまりと隣接していた。

 「帰るぞ」

 あともう少しあ痛いいいグリグリらめえ……ッ!!!

 そんなに頭を圧搾されたら変形してしまう。

 逆に先生は気にならないのだろうか。

 あの二人は大丈夫なのかと先行きを見守りたくならないのか。

 泣沢同級生は果たして想いを告げ、そして遂げられるのだろうか。

 あるいは儚く散ってしまうのだろうか。

 満面の笑顔で鋼鉄の異性へ対する純真無垢な好意を臆面も無く私へ語っていた彼女を思うと心が苦しくなる。勝手に不安を抱いてしまう。

 「顔に出てるぞ」

 私の不安を先生は余計と断言する。

 「お前が悩んでどうする」

 無用の長物とあっけらかんと心配無用の根拠を口にする。

 「両想いならどうにでもなるだろ」

 本当にこの人は他者の心が詠めるのか。

 彼の言葉は真実を鋭く射抜く。

 「ーーーー」

 まただ。

 風穴の看破に次いで。

 前から思うに、この担任教師は奇妙に鋭い部分がある。

 私の転校初日でもそうだ。

 誰にも知られないように細心の注意を払い入学した先で万全の用意と共に放った偽りの名を此の教師は一発で嘘と見抜いた。不思議でならない。妖精の秘術ですら軽く看破して、彼はどうやって私の真贋を見抜いたのか。妖精眼のような特殊な眼力の作用は残念ながら魔力の残滓が存在しないことから可能性は皆無。そんな魔眼じみた洞察力に裏打ちされても私は自分で生んだこの不安を打ち消すには足らなかった。

 「----ふはは、は」

 力の無い哄笑が静かに湧き出でた。

 先生が引き摺る手元から、

 「く、はは、はッ」

 「まーだ意識保ってるのか。随分と石頭だなおい」

 「天才、の、灰色脳細胞は、鋼鉄なりし」

 今度こそ明日の朝まで気絶させようと先生が拳を握り直そうとすると、

 「私の、勝ちだ、教師どのぉ」

 指一本動かせない死に体が勝利の凱歌を口ずさんだ。

 既に手遅れ。

 最早どれほど急ごうと間に合わないと確信した聡明さが狂気に頬を歪める。

 「この天才わたしが、まさか一人だと御思いではなかろうなぁぁぁ……?」



 今日は最高の一日だった。

 この世に顕彰うまれ落ちて紀元前。

 西暦以前から紡がれた私の認識において一番楽しい一時を味わえたと自分で自分へ断言する。

 こう言うのを人生で一番と言うのだろうけど、残念ながら私は人間ではないのでその言葉は当て嵌まらない。人が生きると書いて人生と読むなら、しいて言うなら神生かな? うん、読み方と発音も原文に似通っているからさしずめこう表現するのが正しい。

 「今日は神生で一番楽しかった」

 思わず口して喜びが胸の中から飛び出してしまう。

 言霊が歓喜の森羅万象を謳い上げたい気持ちで一杯一杯。

 一つだけ心残りなのは、

 「結局、告白までは勇気が足りなかった。しょぼん」

 良い所まで行けたのは確か。

 何度も切り出させる瞬間と場面は無数に巡ってきた。

 だが一歩が、一歩を踏み出す半歩の先駆けを押し出せる勇気が訪れるかもしれない未来の恐怖に負けてしまった。それだけが神生で一番最高な日に取り残されてしまった唯一無二の心残り。

 「うん、でも、今度こそ」

 それにまた明日教室で会える。

 何時もと同じように。

 そんな誰が約束した訳でもない、ある種の無責任な絶対性を私はこの時に信じ切っていた。

 何時もと同じ明日なんてどこにも存在しないのに。

 それは私に聞こえない唸るような呟きを発して、

 「クックックッ……油断したな教師殿」

 夜の帳へ沈んだ月下の街路から静かに雷電を現した。

 「たぁしかにこのニコラ・テスラの本体はお縄に付いたが……フフッ天才の頭脳が固有である断定はあまりに楽観的あまりに油断が過ぎるというもの。我が叡智を用いれば独りの天才を一時ながら二分割する方法は容易なる肯定」

 ハーロットやペンドラゴンと異なり正真正銘の戦とは無縁の素人。

 完全なる死角の背後から気配を消して叩き込まれようとする危険な一撃を避ける所か防ぐ行為も容易ならざる不可能の領域。 

 「消えぃ泣沢女神。貴様如き淑女レディに先達を渡して堪るかアアアアアアッ」

 振り返っても遅い。


 そして総重量1トンを超える全身から繰り出された鉄拳が天才へぶちこまれた。


 一瞬の刹那に展開した背部装甲の高圧縮噴射機構から爆発的推進力をもたらした蒸気の残り香を薫らせ、愛しい少女に傷を負わせぬようにパイルバンカーじみた可動超過で灰色の脳細胞を収める眉間を狙い射貫き貫通する。

 「バベッジくん!?」

 「我が演算処理ーー虫の知らせがざわつきはせ参じた」

 何故かハーロット先生とペンドラゴンちゃんが息を切らしてそこにいた。

 こんな夜も深けた頃合に、

 「まさかペンドラゴンちゃんとカナン先生はそんな関係!? いやん、ダメダメ、そんな教師と生徒がそんなふしだらな交際なんて」

 「かかか、勘違いしないでくれませんか、ぜえぜ、もう今日は走りっぱなしで」

 「結局間に合わなかったけど平気そうだな。それにしても簀巻きにしたテスラが内側から人体破裂したと思ったら急に次元の壁が避けて飲み込まれるとは思っても見なかったぜ。どうやら中と外の時間の流れも異なるみたいだなフィラデルフィア」

 二人が危うく全身を電子レンジの中でこんがりローストされかけたと私は知る由も無く現実としてバベッジくんに危機を助けられた点だけが、

 「それではこれにて」

 バベッジくんが離れる。

 彼が背中を向けて私とは別方向へ月光を浴びながら消えていってしまう。

 このままではまた次にあった時に私と彼はただのクラスメイトのままであるのに何もせずに見送ろうとする自分がいる。

 ふと思った。

 明日、教室であえるのだから。

 そんな考えでは何時までも今日は今日のままではないのか?

 明日とは今この彼を目の前にして胸の鼓動が高鳴るこの刹那なのではないか?

 果たして泣き虫な私の背中を押したのはなんであったのか。

 今日一日、彼と共に居た事で得られた多幸感か。

 それともあの飴玉のお陰か。

 もしくは私自身から込み上げる何かなのか。

 「あ、あ、ああの、い、いきなりでごめんなさい」

 ずっと前から好きでした。

 私はついに秘めたる想いを言葉へ紡ぎ上げる。

 紡ぎ挙げようとした。


 幕を終えたばかりの闇夜が早過ぎる夜明けの爆発的閃光に根本から打ち砕かれた。

 その光源に雷電を押し潰して星空が太陽の鮮烈さに輝きを奪われる。


 「はて、なにか巻き込んだと感じられたがーー気の所為のようだ」

 光の爆発にうっかり吹き飛ばされた数多の影などいざ知らず。

 身の丈ある顎門が牙を濡らす緊張感。

 取り戻した視界が不確かに瞬いた後に良好となった双眸が捉えたのは無傷の表参道。

 それから夜空を裂いて現れてしまった最も出会いたくなかった青年。

 その私自身が誰よりも知り過ぎる屈託の無い笑顔を浮かべて、

 「あ、あ、あ」

 最高の一日と肯定した一瞬前が永遠の彼方へ遠ざかった。

 目の前の青年は私が、泣沢女神になる前に、そしてなった理由そのもの。

 この人から逃げたくて私は二千年以上前にあの砂漠の故郷へ全てを捨て去ったのだから。

 私は、この人を見て、

 いいや、見るのではなく囚われて、

 だから、あの砂漠から逃げて、

 逃げて逃げて、そしてこの極東へ

 でも、もしかしたら、私は、

 この人に、

 こうして再び見つかってしまう避けられぬ未来を予知してーー

 自分の感情に形を付けようとしたその時である。

 「危うく即死しかけたが鋼鉄灰色脳細胞で現状復帰!」

 幸福な鋼鉄の思い出を彼方へ消し去られた泪の女神を背景にして、

 「フハハハハハーーーーニコラ・テスラ!! 颯爽と再登場ッ!!! ゆくぞ我等碩学の道程を阻む者は潔く砕け散れえええ!!!」

 晴れ渡る夜の星空から特大の落雷が月下の目標目掛けて雷槍の矛先を投擲された。

 亜光速規模のジグザグ模様が天を仰ぐ視界を真っ白に染め上げる。

 「フハハっ後悔はバックザカーニバル!! 我等天才の間を阻む者。ことごとく灰燼へ帰するが相応しいブワハハハハハっ!!!」

 一切の被害を街並みへ与えなかった眩い太陽光とは打って変わって正反対の破壊痕が深く学園都市の一区画を削り落とした結果は、

 「ぶわぁかな……1.5ジゴワット×3相当を避けるのではなく防いだだとお……?」

 ニコラ・テスラ始まって以来、二度目となる屈辱と雪辱の到来。

 まさか同じ日に二度に渡って渾身の雷鳴を阻む者とこぞって巡り合うとはどんな星の運びか。

 「貴方ッーーなんてことを」

 泣沢女神は五体無事。

 恋敵への誅雷は雷電中学生を危うく消し炭にし掛けた光源の主によって阻まれた。

 天の振り飛車をその手に有する錫杖で迎撃された。

 「おのれおのれおののれ不遜にもこのニコラ・テスラと我が親愛なるバベッジ先達の仲ぅお妨げんとしたその腰付き胸付き肉付きだけはぶっちゃけ理想的なエキゾチックスタイルへディープな」

 「逃げて」

 「なんですと?」

 「早く逃げてえ」

 不可解な呼び掛けに怪訝に足と手先が止まる。

 その思考が迷う瞬きの一回ですら見ている側からすれば心臓が弾けてしまいそうになる。

 相手が自分に危害を加えようとした月夜の雷電だろうと関係ない。

 「彼が貴方に死ぬより残酷なことをする前に」

 刹那。

 世界が極寒の地獄と化した。

 「ーーっ!!?」

 高電圧高電流の化身であるニコラ・テスラが思わず寒気に身を竦め肩を抱く。

 しかし、現実は何一つ変化していない。

 「下郎が」

 ただ一つ。

 大気圏という濾過機構を地球が惑星表面に備えていなければ太陽の恩恵は核融合時に放たれる放射線と何ら変わらない事実を物語るように灼熱の太陽神は絶対零度の殺意をのべつまくしたて発散していた。

 まるで周囲から奪い去った膨大な熱量を全て注ぎ込まれたように女神の眼前へ壁となり立ち塞がる双肩は煮えたぎる紅蓮の意志に煌々と照らされる天蓋の絶壁。

 直接、怒気を向けられている訳でもないのに障り病に祟られたような鳥肌が全身を総毛立たせる。

 ここから、私からでは背中が邪魔で窺えない褐色の表情。

 その眼前と真っ正面に位置するテスラ下級生は青ざめた様子でカチカチカチと不出来な火打ち石のように上下の歯を打ち鳴らして震えている。これまでの盛大な身の振る舞いが嘘であったかのように、まるで巨大な蛇に睨まれた人間大のカエル。

 「どうした? 不遜にも我が愛しき脊の君を害すなどと妄言をのたまっていたが」

 恐ろしくて尋ねられない。

 「それは殺しても構わないと温情を持って解釈すればよいのか」

 彼の問いかけが何を意味しているのか、そしてそれにうっかりと答えてしまったらどうなってしまうのか、身を裂くような冷たい感情に晒され、日暮れ前までの暖かな日常との落差が大きすぎて自分が温度差でひび割れる陶器の器に変じてしまったと錯覚する。幾ら頑強であろうとこの極寒に耐えられる精神構造はきっとこの地上のどこにも存在しない。

 「一瞬の虚無と永劫の冥府、どちらだ選べ」

 雄叫び、咆哮、勇猛。

 冷笑、断罪、魂喰らい。

 紫電が日輪に敵う道理は得られず、空と地の狭間で響く雷鳴は三千世界を照らし遍く満たす陽光の前に奈落の底へ電圧急降下。

 「俺はこんなに強くなったよ」

 ボロ雑巾と化した雷電中学生の首筋の動脈が褐色の五指に握り圧搾される。

 「俺は誰にも負けない無敵の存在へ至った。どんな敵意と悪意が愛しい君へ襲い掛かっても全て打ち滅ぼし虐げ支配するに足る力を俺は手に入れた」

 高熱に灼熱を帯びた万力が絶え間なく鷲掴む不埒者の喉元を抉り粒さんとする。

 「俺は強い俺は負けない俺は君の物だ君は俺のものだ君は俺だけの運命の人」

 握られる。

 潰される。

 こわされてしまう。

 うばされてしまう。

 全ては太陽なる御手の思うが侭。

 「さあこの杯を溢れさせて俺たちの再会の祝福としよう」

 彼が祝杯と定めた肉体さかずきを握り砕こうとする直前。

 私は失われる命を見過ごせずに嘆願した。

 奪われてしまいそうな魂の尊厳を救わずにいられない。

 「もう奪わないで」

 泪を零さんと叫んでいた。

 「君はそうやって何時だって他者の為に嘆くから美しい」

 だが、堰き止められる。

 私の泪を甘く蕩ける囁きが留める。

 「安心して欲しい。こんな静電気の塊に君の愛しい泪を流させはしない」

 「ごめん、なさ、い」

 その謝罪を皮切りに絶対零度から解き放たれた。

 見知らぬ男子中学生の肉体が重たい音を響かせて彼の足元へ転がる。

 「ごめんなさい……ッ!!!」

 私は膝を屈して謝罪を口にする。

 これ以上、私の罪が誰かを傷付けない為に。

 私の所為で大切な誰かが傷付いて欲しくないから。

 「もう……どこにも……逃げませんから……貴方だけの……私でいますから……どうかこれ以上……」

 太陽の恩恵の具現たる褐色の肌と相反して、錫杖を片手に大地を踏む幽玄は月光の儚さ。

 私の絶望と、黒曜肌の笑みと、視線が交差する。

 「ツタンカーメン」

 ある砂漠の大地で栄華を誇った紀元前の古代文明。

 その王朝に記された最後の神ファラオの名を私は震える声で口にした。

 「古き世の名で呼ばないでくれ愛しの君」

 幽玄なる神王は愛しいと唱える少女の口にした固有名詞を否と拒絶する。

 その名残は不完全な人の身であった頃の証と王者は自らをこう唱える。

 「我が名はアメンラー。天に燦然と無限の栄華を誇る万物生命賛歌の黄金神。そうだろう我が麗しの泪」

 手を伸ばす。

 手を伸ばされる。

 「あああ……君は幼き日に出会ったあの頃から寸分たりとも色あせない。その瞳。その唇。その泪。どこを取っても我が憧憬は幾分たりとも見間違う愚行を犯さない」

 女神の命運を手に掴もうと掌が花開く。

 「迎えに来たよイシス。さあ、かつて父の冥福に誓い合った婚姻を果たそうじゃないか」

 元夫が私を取り戻しにやってきた。



 騎士にして王なる私が察知した時には既に遅かった。

 彼女の幸福そうに笑う姿に感じていた一抹の不安は即日現実のものとなる。

 翌日のホームルームでハーロット先生が切り出した現実は彼女の、泣沢同級生の唐突過ぎる転校であった。

 今日一日で彼女はこの学園から居なくなってしまう。

 直面した騒然たる事態に対応すべくわたし騎士わたしとしての役割と本懐を遂げる。



 放課後である。

 本来ならある程度の残業を終えて肩を鳴らして帰宅の途へ着けば万事休す。

 なのだが、今日は教師として仕事が一つ取り残されている。よって校門の片側に背を預けて雲を数えている次第。無心に青空模様のくすんだ空白部分を数え上げるのはそれほど苦痛ではない。

 一番辛いのは、悲しいのを隠して無理に笑顔を作る生徒の横顔だ。

 「そろそろか」

 腕時計を確認してタイミングを計る。

 キンコンカンコンと登校を告げる鐘の音が先に外で張り込んでいる俺の耳に届き、

 「はい、そこまで」

 音速の7倍で疾走して思いっ切り衝撃波を放ちながら校門を潜り抜けようとした太陽神の疎かな駆け足をちょびっと伸ばした爪先を引っ掛けて盛大に転ばせた。

 その天高く大飛翔大前転四回空中錐揉み軌道独楽踊り途中の物体へ俺は人差し指で照準を合わせてステップを踏み、風穴を開いた。俺は自分自身ごと勝手に担当生徒目掛けて突っ走ろうとした輩を重層領域の閉鎖空間へ丸ごと監禁処理したのだ。

 「不敬であるぞ」

 隔離した空間が震えた。

 大地が響めく。

 王の怒りは神の激怒に等しい。

 「我が尊顔を穢した罪。妻たるイシスの教鞭を担う者である恩赦を持ってしようと刎頸に値する」

 「勇み足はそっちの方だろ。契約は泣沢がこの学園の敷地内から出るまで。それを越えたら俺たちに何の権限も無いが、逆に言えばそれまではこっちのテリトリーなんだよ。治外法権を甘く見るな。それにだ」

 有り得ざる非実在三次元の檻の中。

 誰の目も声も届かず触れられない完璧な密室へ頭から連れ込まれた小麦色と黒髪の月下美神に対して俺は胸元のネクタイに指を掛けて僅かに緩める。

 「バベッジの姿が見当たらない。太陽神あんたが何かしただろ」

 「纏わりつく鉄錆を掃っただけよ」

 「なるほどつまりお前は俺の敵だということで間違いない」

 俺の所作は気配として見れば鞘から鋭い刃を引き抜く闘士の構え。

 「ここから出すがよい先生。でなければ我が愛しき脊を抱き締められぬではなかろうか」

 「駄目だ。お前は話し合いが付くまでレッツゴー保護者面談」

 意見の相違による突発的な生徒の保護者おっとと教師の戦闘行為。

 ままあることだ。

 「ようやくイシスを迎えに行けるのだ。この時をどれだけ待ったか貴様は知らない」

 君は美しい。

 君は麗しい。

 誰よりも何よりも神羅万人の母なる大海ですら我が愛しき泪の清らかさに到底及ばない。

 「故に、だからこそ、まさしく運命として、一目見て彼女に恋をした。彼女という存在に愛の実在を創めてこの胸に得た。我が母の企みがなんであろうと、我が仮初の妻が何をのたまおうと、俺の瞳には徹頭徹尾あの死せる父の骸へ泪を零す愛しき脊しか映らない。俺は君しかいらない。だからだから俺だけに微笑んで俺だけに俺だけ俺だけ俺だけに俺だけの愛しい后と望んで砂塵の最果てたる此の永劫まで辿り着いた。俺は人を越え神すら超越した。全ては愛しい泪の脊があったればこそ」

 「知るかそんなの。つか、泣沢がバベッジの為にお前に歯向かうとは考えられないのか」

 「ありえぬ」

 教師生活45年で熟れた体裁きで鋭いビーム状の太陽光線連擊の応酬をベルトコンベアの流れ作業で処理しながら頬にかすらせる。

 「泣いてばかりのイシスに襲い掛かる難関を切り払えるだけ力があるとは到底予想が付かん」

 「つまりお前も外面だけであいつの本質を悟れなかった馬鹿ってことか」

 「なに?」

 こうなることは予測していた。

 彼女がこの行動を取るのは理解できた。

 だから俺はその救済好意を全力で支援する。

 「優しいよペンドラゴン。優しすぎるほどにお前は優しい」

 分かってるさ余計な事なのは。

 俺たちがどんなに心配したところで所詮は部外者。

 あの二人の問題はあの二人の手によって解決されなければいけない。そうでなければ今後二人の前に立ちはだかる幾多の難関をどうやって乗り越えられていくのだろうか。

 他者を労り支えるのは構わない。

 けど、支えすぎていざ手を離したら元の持ち主はその重みに耐えられずに潰れちまう。

 だからこれはあの二人にとって必要な出来事。

 寄り添えるだけの力を互いに蓄えるための試練。

 未来の行く末を決する錦の滝。

 二人の未来は彼と彼女だけのもの。

 教師であろうと同級生だろうと二人の試練を勝手に奪ってはならない。

 それでもまだ手を出したいなら。

 「こんな終わり俺が認めて堪るかってんだ」

 未だに苦難にこそ輝ける尊い命の真価へ疑いの目を向けるなら賭けをしよう。

 駆けつけられなければ訪れると思い込んでいる余計な破滅思想を、そして先生は、

 「俺はあの二人の、泣沢とペンドラゴンの絆を信じる」



 此の身は一刀の鋼。

 其の信念に一遍の曇りはなく万夫不当。

 そんな自律神経と機能中枢を司る機関部が何時から彼女の後ろ姿を追っていたかは定かではない。

 はっきりしているのはそれが彼女がこの鋼鉄なる我が身へ微笑みながら顧みてくれるようになるより前の記憶。この鋼鉄紳士チャールズ・バベッジはある時期から泣沢女神女子に懸想していた。

 「我が師よ」

 「なんだバベッジ。早速質問か」

 それはある日の授業後の放課後。

 自らの担任であるハーロット教師に暇を貰い受けて相談した覚えがある。

 「好いた女子を諦める方法を教えて欲しいか」

 「可能な限り穏便にして即決に痛覚をセンサーが感知する前に一気加勢に責め滅ぼす。そんな適切な処方箋の極意を」

 「それってどうしても諦めなくちゃならねえのか? 自分の本音を打ち明ける前なのに」

 「無論、我が鋼鉄たる魂に一片の狂いなし。何よりこれは我が知覚機関が熱暴走寸前で留まるほどに汽笛を鳴らし懸想するあの泣沢女神女生徒の為にもなる」

 「ん? それはどゆ意味だ」

 「我が心臓部の早駆けは彼女の害になる。故に致命的な機械的齟齬の発生により間違えを引き起こす要因を萌芽の時点で摘み取らねばならぬ」

 「ふーん、はーん、ふーむ」

 ハーロット師は両腕を組みながら腰掛けた椅子の上で頭を捻らせながら、

 「一回さ、怖がらずに盛大に間違えちまえよ。思いっきりズバーンと清水から飛び降りるぐらいの気持ちでさ。そしたら良い事あるかもしらないぜ?」

 この身で決して選べぬ幻想を提示する。

 「不可能」

 鋼鉄に其の幻想は叶えられない。

 「どうしてだ。何で出来ないんだ?」

 「我が鋼鉄の誉れは死して輝き放つ夢想世界。我が生なる身にて得られぬ虚構未来」

 「なるほどな、人として生きてた頃に渾身の発明を誰にも認めて貰えなかったらそりゃあ自信が無くなる訳だ。でも今はこうして時代がお前に追いついて上手く行ってるんだから昔の失敗をそこまで気に病んでたら勿体無い」

 「然り、我が身に無垢なる彼女の想いは不相応」

 「そうかぁ? バベッジも負けず劣らず純粋に馬鹿で阿呆だろ」

 「馬鹿ではない天才である」

 「はいはい、飛びぬけて部活棟を研究目的で爆破させる向こう見ずな天才様々ね。じゃあそれで良いとして、ところでお前の論法じゃ泣沢に起こる危害やら負担やら負債やらは未然に防げるけど」

 トンと鋼鉄なる我が胸板を教師の拳がコンコンと叩く。

 「今こうして、傷ついている真っ最中のお前はーーーーバベッジはどうなるんだ」

 「我が、損傷しているとは?」

 怪訝な発言に、急ぎ全天周囲モニターからシステムスキャン。

 検査結果を照合完了。

 「外部に際立つ損壊箇所は見当たりません」

 「外じゃなくて中の話」

 「内燃機関、動力伝達回路、共にオールグリーン」

 「身体じゃなくて心の話。まあ心も身体の一部でもあるけど」

 教師は言う。

 お前の魂は彼女を焦がれすぎて傷だらけなのだと。

 「恋愛なんてのは互いが互いを傷付け合う消耗戦みたいなもんだ。相手を想って、想われて、先にもうダメだ耐えていられないって根負けした方が楽になりたくて告白する。まあこれは両思いの場合で、どっちかだけの片思いだと無傷な告白相手にバッサリと切り捨てられちゃうんだよなーそれはそれで良い経験になるけど」

 でも、お前ら二人ならその心配はなさそうだとハーロック教師は付け加えていた。

 その意味をこの時の我が明晰なる演算回路は思考の袋小路によって理解不可能であった。

 自ら理解を拒んでいた。

 「それとバベッジは好きな女に幸せになって欲しいようだけど、ははッ」

 「何が可笑しいのですか我が師よ」

 「いやね、別にそんなことしなくていいんじゃないかなーって」

 「?」

 我が精細な未来予知すら可能とする頭脳ですらハーロック教師が何を言いたいのか汲み取らなかった。

 「そのうち分かるさ」

 含んだ言い分で、我が過去回想は終わりを迎えようとする。

 そしてハーロック教師は最後に気の抜けた手振りで簡潔にそして身勝手に我が背を押す。

 「たまには人に迷惑掛けて張り切ってもバチ当たらんさ」

 その結果が全機能の致命的な損壊。

 彼女が、泣沢が他の異性と婚姻を結ぶと知り及んだ鉄塊は住居である万能蒸気機関車をフル回転させてあえなく玉砕した粉砕させられた。

 神聖なる婚姻の式場に熱を失った蒸気弁や塵と化した歯車の残骸が至る所へ散乱する有様。

 無様に挑み死体を晒す体たらく。

 まさしく愚者に相応しき末路。

 「絶対離さない」

 花嫁は砕けた重量たましいを感じない歯車仕掛けに肌を寄せる。

 無垢の衣装を汚れた潤滑油の色に染めながら重ね合わせる。

 ああーー私はなんて罪深い女。

 貴方の骸を抱いてようやく温もりを分かち合うとはどうしようもなく愚か。

 そして、

 「貴方がこうして私を求めてくれた事実に歓喜を覚えずにはいられない」

 愛しい貴方が傷だらけの腕の中より、そんな貴方が私を欲して手を伸ばしてくれた証に胸の奥が痛いほど熱く燃え上がる。

 嬉しくて、悲しいけど、それ以上に歓喜が勝って、

 「自分の為に泣いてもいいですか?」

 無論と、音声出力用の外部端子を損失していなければそのように音階を奮わせて答えていた。

 我が傍らこそ幸いなのだとすれば。

 ならばその願いをこの鋼鉄なる身は例え三千世界の彼方より放たれようと悉く凌駕して貴女の元へ駆けつけよう。

 「貴方を愛しくて堪らない私のために泣いてもいいですか?」

 貴女がこの身の傍に在ることを幸いと唱えてくれるなら。

 我が鋼鉄なる思惟は例え死が別つとも永遠普遍に君と共に在ろう。

 女神の泪が奇蹟を導く。

 砕けた鋼鉄の機構。

 鋼の心鉄へ粒となり零れ墜ちた雫が冷めゆく鉄塊の残熱によって沸点突破、揮発列びに重大な破損状況から容易に想像される密閉性の損壊部より停止した歯車の螺旋へ吸い込まれた。

 刹那、朽ちゆく巨人は再生の汽笛を鳴らす。

 泪の女神イシス。

 冥王オシリスの妻である彼女は死を司ると同時に本人でも識らぬ内にとある特性を有していた。

 それは即ち死と対を為す生命論理。

 彼女は他者の死を嘆き浄めると相対して新たなる命の産声を祝福する女神でもあった。

 これは彼女ではなく彼女を崇め信奉したかつてのそして今のさらにはこれから生まれ死にゆく魂が求めた幻想ゆめ

 死を尊ぶ悲しみがあるなら生まれ来る愛し子を慈しむ喜びもある筈だ。

 彼女を、イシスを、そして泣沢女神へ奉じられた祈り。

 それは悲しみも喜びも合わせ持つ掛け替え無き真理。

 「多彩構造解析機関マルチウェラブル・ディファレンスエンジン獅子心炉コルレオニス全力解放オーバードライブ

 冷めた鉄屑が生まれた落ちた赤子のように蒸気の産声を高らかに叫び挙げる。

 生と死の螺旋より流れ落ちた一滴が朽ちゆく定めの鋼鉄を無限なる槌を打ち振るわせ万夫不当の巨人へ鍛造練成する。

 星屑の残骸に導かれ多目的蒸気機関車〝帝国一座(グローブ)〟が鳴動した。

 「段階移行(フェイズシフト)

 我ら幻想ゆめと同じもの。

 皆すべからく一片の影法師。

 過去より辿り永遠へ紡がれろ。

 万雷の喝采こそ其方に相応しい。

 「〝簒奪王マクベス顕彰完了リアライズエンド

 出力400パーセントへ高騰。

 第二、第三炉心機関、並列稼働出力強制安定化。

 戦闘続行ーー可能ッ!!!

 「圧縮蒸気噴射飛行装置(スチームバーニア)

 --その汽笛の音色を耳にしながら私は諦めようとしていたこの泣沢イシスを必死に引き止めた友人を思い返す。

 「逃げるんですか」

 終業の鐘の音と共に学園を後にしようとした私へ全力で、

 「自分の気持ちから逃げるつもりですか」

 「ペンドラゴンちゃん。どうかこの場は謹んで」

 「しますよお節介。それが王様わたしのお仕事ですから」

 特に、

 「本音では未練たらたらな癖に澄まし顔で整えようとする根暗インケン女にはたっぷりと」

 何時から取っ組み合いの大喧嘩に発展したかは定かではなくお互いに罵り合い時に噛みつき髪を引き千切るほど掴んだり、

 「誰がッーー根暗だ!!」

 「薄っぺらい笑顔なんて貼り付けてる貴女に決まってます!! そんな縁起の悪い見せつけられるぐらいなら湿っぽい面の方が何倍もマシで!!」

 地獄の底まで添い遂げろ。

 それが彼女の言い分。

 出来る訳がないと、鼻で笑う私にペンドラゴンちゃんはまるで自分のことのように激怒した。

 「貴女の背負う十字架を一緒に分かち合いたい人だっているんですよ!? 好いた惚れたが苦労掛けない言い訳にーーなっていい筈あるかぁ!!!」

 殴って、殴られて、罵って、罵られて、私も彼女も自分の感情を吐き出してぶつけ合い、

 「何故我が手を離れる最愛の女神よ」

 罪深い私はその罪を背負いかつての少年に歯向かう。

 愛しかったあの子に、イシスという存在に魅入られ人の身を逸脱して神になってしまった幼子の残骸へ。

 私はもう逃げない。

 かつて恐ろしさの余り悪逆の突き進む幼い彼を見捨て母なる砂塵より逃げ去り、遙か東方の島国で偽りに身を隠してしまった過去からも。

 今、この瞬間も。

 「貴方が人の恋路を邪魔したからです」

 「騎士王ッ」

 そしてそのツタンカーメンに対して颯爽と飛び蹴りをかましたペンドラゴンちゃんが仁王立ちで胸を張る。

 「不敬上等。人の恋路を邪魔する王様よ。私の馬に蹴られなかった幸運を噛み締めなさい」

 「蒙昧もうまい赤竜つちくれ風情が仰ぎ敬うべき天体かみたる神おれに敵う道理があるか」

 そして現在、我が頭脳回路は鋼鉄なる四肢の複合センサーより先に動力炉を爆発的に沸騰させた。

 躯体が内部複合防壁を突き抜けて弾けてしまいそうな破壊本能に思考が支配されかけた。

 思考回路を彼女のはにかむ笑顔しか想い返せなくなるウイルスに全面侵食される。

 我が師が数週間前の過去に押した背中がこの瞬間になって我が行動を思わずそして思えぬ方向へ駆り立てていく。

 「砕けよ太陽神(アメンラー)ッーーツタンカーメン」

 この手に残された激情は一片の願い。

 愛しい彼女と未来を描く幻想ゆめだけである。

 「そうだたま曝せ蒸気王。好きな女一人口説けない科学者おとこなんてなるもんじゃねえ」

 天に燃える偉大なる化身を疾走する夢想科学力で見事ロケット推進力で打ち砕いた生徒の栄える姿を、彼をツタンカーメンの手によって封じられていた移動式古代神殿アブシンベルから救い出した教師は仄かに笑う。

 トラップとかに使われる落石を両手で支えながら。

 「ところでーーそろそろ先生をーーたた、たしゅけてくれませんかーー?」

 プルプルと内股で許容範囲ギリギリ臨界点。

 「もうーー限界ーーっあ」

 プチンと筋肉の切れる音と肉塊が押し潰れる地面との激突音が衝撃と化して重なり合った。

 後日談。

 「じゃあこのまま敷地内で暮らせばいい」

 契約により、私はこの学園を去った後にツタンカーメンと契らねばらない。

 それは彼を撃退した今でも変えようのない盟約。

 それをハーロット先生は以下のように解釈した。

 「実際、バベッジも学内で衣食住を満たしている訳で、そこに恋人が一人追加された程度なら問題は見当たらない」

 解決策はある。

 ならば、

 「本当に、ここに居ていいんですか」

 「それを聞く相手は俺たちじゃない」

 そして私の前に路が開けた。

 「行って来い。お前にもう飴玉は要らない筈だ」

 私は彼の前で、彼を見つめる。

 彼に自分の気持ちを真っ直ぐに打ち明ける。

 「ずっと前から好きでした」

 「こちらこそ」

 「婚姻を前提としてお付き合いして下さい」

 「駄目」

 「えええッツツやっぱり!?」

 「我に言わせてくれないと駄目」

 「ふえ?」

 「泣沢女神殿」

 下らないと一蹴される紳士の沽券。

 笑いを誘おうとこれだけは譲らない。

 「以前より貴女を好いていた。契りを交わしても宜しいですかな?」

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