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黄道十二星座の物語

ゼウスもつらいの――おうし座

作者: イプシロン

 ぬけるような青空では、告天使(ひばり)たちが舞いおどり、やけに楽しげに歌をうたいあっていた、ある五月のことです。

 大神ゼウスは、どこからか帆香(ほのか)に漂ってくる甘い薫りに惹かれて、白亜造りの神殿にある張出台(バルコニー)へと出て行きました。

「こっちのほうかな?」

 立派な神様であるゼウス様なのですが、こういうときばかりはいただけません。前かがみになって首をつきだし、きょろきょろしながら鼻をくんくんさせているからです。

「こっちかな?」

 ユズリハの樹の皮で編んだサンダルを履いた足がピタリと止まりました。

「ここじゃな。おお、咲いておる咲いておる。満開じゃな」

 ゼウス様はそういって目を細めながら、下界を見おろしました。うっすらと霞がかった遥か彼方の人間界で、紫陽花に似たイベリスが、小ぶりな薄桃色の花弁を開いて咲き誇っています。

「おや、あれは花じゃあなかろう。なにかな?」

 ゼウス様は、イベリスが咲き誇っているなかで、なにやらごそごそと動くものを目にとらえられたのです。

「おーい!」

 あ、待った!

 いつものことなのですが、何か用事があると、ゼウス様は美しく着飾った侍女や、年端のゆかない愛らしい少年の従者を呼んでは、用事をいいつけるのですが、どうやらこのときは、何をおもわれたのか、「あ、待った!」などと胸の中でお呟きになって、口を閉じてしまわれたのです。

「これで見えるじゃろう」

 ゼウス様は、ぽつりとひとり言をおっしゃったあと、両手を双眼鏡のようにして、顔におしつけておられます。

「えっと、倍率は五十倍、はいドン!」

 お笑いになってはいけません。なにしろゼウス様は全能の神なのですから、類いまれな空想力と創造力でもって両手に双眼鏡の機能を与えることだってできるのです。簡単に言ってしまえば「なんでもあり」なのです。

 その時、なんだかいやな音がしました。じゅるるるるという音です。新緑豊かな季節ですから、無理もないともいえますが、案の定だともいえました。ゼウス様の悪いご病気が出たのです。きっと一生お治しになれないご病気です。これまでご病気のせいで、神殿や人間界や冥府をさまざまな混乱に陥れてきたのです。とくにお可哀そうだったのは、ゼウス様の正妻であられます、ヘラ様でしょう。良妻賢母であらせられます。ゼウス様にはもったいない方といえるくらい、それはそれは立派な奥方様なのです。

「まいっか。バレやせんじゃろ」

 何ごとが起こったのでしょうか。ゼウス様はまたひとり言をおっしゃったかと思うと、こんどは両の拳を握って人差し指だけをぴーんとお立てになると、頭の上に持っていかれました。するとどうしたことでしょう。ぼわんと白い煙があがって、ゼウス様はまことに美しい白い牡牛に変身なさっているではありませんか。

 その白さはさきほどゼウス様がご覧になられていた、イベリスの花が気恥ずかしさに萎んでしまいそうなほどです。澄んだ水晶のような角は、まるで職人の手で磨かれたかのように、ぴかぴかとした光沢を放っていました。またその眼といったら、長い睫毛を庇にしてほどよく潤んでいて、哀愁と勇壮の混じりあった光をはなっていて、見ていると吸いこまれてしまいそうなのです。

「じゃ、行ってきまーす! ヘラちゃん、ごめんねー」

 なんのことでございましょうか。とはいっても、ゼウス様というお方はこういうお方なのです。やることなすこと不思議すぎて、なにをされたいのかよくわからないところがおありになるのです。なんでも人間界ではゼウス様のようなかたを「天然」とお呼びになるらしいのですが、あるいはそれは的を射たものかもしれません。

 おっといけません。余計なお話をしているあいだに、ほら、もうゼウス様があんなに小さくしか見えなくなってしまっております。雪のように白く美しい牡牛でなければ、物語はここでおしまいになっていたかもしれません。ともあれ、そういうわけにもまいりませんので、双眼鏡を用意してゼウス様をおいかけてみましょう。倍率は二十五倍、はいドン! 

 いらっしゃいました、いらっしゃいました。あそこでございます。イベリスの花園にいらっしゃいます。どうやら白い牡牛になられたゼウス様は、四つの足を折って、少しお休みになっているようです。しかし、潤んだ牡牛の眼は油断なくそれとなく、あるところを見つめているではありませんか。そうです、これがゼウス様のご病気なのです。

 薄桃色に咲き誇るイベリスの花を摘みに、美しい娘が一人、そこに来ていたのでございます。その娘が花を摘んでいる可憐な白い手の向こうには海が見えています。どうやらこの辺りは、フェニキア(現在のレバノンとシリア)と呼ばれている国のようです。海から丘を登って、潮の香りが漂ってきます。潮騒の音も心地よく、五月の太陽はほどよく温かい日の光を遊ばせ、吹く風も和やかです。イベリスの甘い香りがそれらと混ざりあい、そこは神の国と変わらない心地よさに満たされていました。

 娘は夢中になって花を摘んでいましたが、ちょっと一息いれようと、木陰へと足を向けようとしました。そのとき気づいたようです。そこに一頭の白く美しい牡牛がいることに。もちろん、その牡牛はゼウス様でございます。

「あらあなた、どこからいらしたの?」

 娘は一瞬で白い牡牛の愛くるしい眼に引き寄せられ、牡牛を驚かせないようにと、ゆっくりとゆっくり近寄っていきました。

「んもー(こっちにおいでー)」

「あらまあ、あなたは大人しいのね」

 牡牛は娘のことを恐れもせず、むしろ優しい眼差しを向けていました。娘にもそのことはすぐにわかったようです。牡牛の傍らまでいくと、摘んだ花をそっと草地に下ろして、娘は牡牛に寄り添って座りました。

「んもー(遊ぼうぜー)」

 のんびりした鳴き声をあげて、まったく恐れる様子のない牡牛に娘はそっと手を伸ばしました。

「まあなんていう手触りなんでしょう。それにこの白さ。いつか登った高い山に積もった雪のようではありませんか」

 牡牛は娘の言葉がわかるのか(もちろん牡牛は変身したゼウス様ですから、言葉はわかっています)、娘が話しかけたり、あっちを撫でてみたりこっちを撫でてみるたびに「んもー」と愛らしい声で鳴きました。ときどきは尾を動かして、それを娘の腕に巻きつけてみたり、くすぐるように動かしたりもしました。

 娘はどんどん無邪気になってゆきました。

「大きな背中ですね。きっとわたくしくらいに華奢なもの一人くらいなら、どこまでも乗せて運べそうですね」

「んんんんんもおー(乗っちゃえ、乗っちゃえ、乗っちゃいなー)」

 鳴き声に誘われたのか、草地に立ち上がった娘は、大胆にも座って休んでいる牡牛の背に跨ったのです。

 するとどうでしょう、それまで大人しく座っていた牡牛はすっく立ち上がったかとおもうと、娘を乗せたまま海を目指して、一目散に駆けだしたのです。さあ大変です。

 牡牛の白い毛は滑るように滑らかですし、その駆ける速さといったら尋常ではありませんでしたから、娘は唖然としました。しかし、振り落されてしまえば大怪我をしかねません。そこで娘は、それはもう必死になって、両足の膝に力を入れて、水晶のように澄んだ牡牛の角へと手を伸ばしたのです。右手を伸ばし、そのあとに左手を伸ばしという具合に。しかしその角もつるつるとしていてまた滑るのです。娘は耳元で風がぴゅーぴゅーと鳴るのを聞きながら、少しずつ少しづつ、体を角へと引き寄せていきました。ようやく安定して乗っていられるようになったとき、娘が辺りを見回すと、もう陸の影すら見えないではありませんか。どちらを向いても海また海、青い波が娘のことをくすくす笑っているかのように揺れているだけです。摘んでいた花を無くしてしまった悲しさや、一人ぽっちで海の上にいる不安からか、娘は泣き出してしまいそうでした。

 ですが、白い牡牛となったゼウス様はおかまいなしです。とても嬉しそうに跳ねるように海を駆けていきます。

「んもんも、もー(やほほほーい!)」なんていう声で鳴いたりもしています。

 そんなふうにして、娘を乗せた牡牛は波を蹴り、風を切り、陽が傾いてゆくのも気にとめる様子もなく、青い海を走りつづけます。しばらくは見え隠れしていたキプロス島も、もうとっくに海の彼方に消えてしまいました。それでも牡牛は楽しそうに走りつづけます。

「んんんんもー(もう少し待ってね)」

 娘は半泣きになりながらも、角を握り膝に力を込めつづけ、振り落されないようにしています。ゼウス様にはそれがよくわかっていたようです。ですから休むこともせずに、飛ぶように走り続けていたのです。

 ようやく日が傾いてきたころ、娘は島が見えることに気がつきました。どうやらクレタ島のようです。それほど数は多くありませんが、海沿いの丘づたいに、ぽつぽつと建物が立っているのも見えました。ほとんどは箱のように四角いものでしたが、イスラムの寺院でしょうか、ドーム型をした天井の建物も見えます。どれもこれも茜色に染まって燃えるような夕陽の中に佇んでいます。娘を乗せた牡牛はそうした集落から少し離れた砂浜へと駆けあがって行くと、ようやく足を緩めて立ちどまりました。それから四つの足を折って、娘が降りるのを待っていました。

 もうくたくたでした。娘は腕も足も痺れていて、お腹もぺこぺこに空いていたのです。それでもこのまま乗っているよりはと、残った力を振り絞ってふらふらと牡牛の背から降りたのです。しかしそれまででした。降りたそのばの砂浜にぺたんと腰を下ろして、恨めしそうに白い牡牛を見つめることしか出来ませんでした。

 するとどうでしょう。いままで牡牛がいたところに、ぼわんと煙が湧きあがったかとおもうと、そこには人間の姿をした男が立っているではありませんか。しかもその男は全身から、威厳だとか高潔さだとかを放っているのです。

「え……どういうこと?」娘は驚きました。

「儂、ゼウス。神の国からきた神様。ゼウスって知ってる?」

「あはい……もちろん知っています……え? ゼウス様!?」

「うんそう。わりと偉ぶってないでしょ? 儂ね、こういう感じでいるのが気楽なのじゃよ。ねえ聞いて聞いて」

 それからというもの、ゼウス様は神の国でのお仕事の辛さやら何やら、あることもないことも延々と愚痴りつづけたのでした。だらしがないといったらないありさまです。しかしそこはゼウス様です。疲れた娘を労わるように、時々話を止めては「はいドン!」とか言って、娘が気に入りそうな飲み物や食べ物を出してみたり、

「あ、服汚れちゃってるね。ちょっと待ってね。はいドン!」とおなじみの科白を言って、肌触りも着心地も良い服を娘に与えたりしたのでした。もちろん、娘の眼を盗んで、着替えを覗いたことはいうまでもありません。

 こんな風にして、ゼウス様は月が登り、星が瞬くまで愚痴を言ったり、「はいドン!」と言ったりしながら娘と存分に楽しんで過ごしたのです。

 娘は心優しい乙女でありました。ヘラ様であれば五分と聞いていないうちから、ぷりぷりと顔を真っ赤にして怒りだす愚痴を「おおそれはお可哀そうなことですね」とか「あははは、それはすこし可笑しいですね」などと言って、肯いたり首を振ったり、笑ってみたり、悲しそうな顔をしてみたりして耳を傾けていたのです。

 ゼウス様はその娘が気に入り、娘もまた知らないことを、ゼウス様が面白おかしく話し、ときには身振り手振りをまじえて、一人何役もを演じながら見せてくれる悲喜劇などをお楽しみになりました。

 そんな風にして二人はマルタ島から北へ東へと旅を続け、いつのまにやら三人のお子様までもうけてしまったのです。

 しかし、いつの世でも幸せというものは長く続かないものです。事の次第をヘラ様が知ってしまったのです。

「――というわけで、儂、帰らないと行けないのだよ」

「仕方のないお方ですね。お淋しいかぎりですが……」

「へいきへいき、淋しくないようにするから。あのさ、憶えてる? はじめて会ったときのこと」

「もちろんでございます。ゼウス様はまっ白な牡牛の姿をされていました」

「そうそれ! だからね、淋しくなったとき、ほらあれよ、夜とかって淋しくなるもんじゃない。だからね、夜空にあの牡牛ちゃんを運んでさ、いつでも見えるようにしとくからさ」

「まあ、素敵ですこと」

「それじゃ元気でね。子供たちのこと頼んだよー」

「さようなら、ゼウス様」

「あそうだ、たまに愚痴りたくなったらまた来るかも」

「かしこまりました」

「そいじゃね! バイバ~イ――ハイどん!」

 白い煙がぼわんと湧き上がったかと思うと、そこにはあの懐かしい純白の牡牛の姿がありました。牡牛は「んんんんもー(あそうだ、ヘラには内緒ね!)」と一声鳴くと、夜空へと駆け上がって行きました。牡牛の姿が見えなくなった頃、それまで淋しげに見えた夜空の一角にいくつもの星がちかちかと瞬きだしたのです。

 今でも人間界では、木星の近くの夜空に、牡牛になった星々を見ることができるのだそうです。プレアデス星団、ヒアデス星団、アルデバラン、エルナト、かに星雲などがその星々なのだそうです。

 また、ゼウス様に愛された、いいえ愚痴の聞き役になった娘は「たいした包容力じゃ」などと人々に賞賛され、お二人が旅をした場所は、その娘の名であるエウロパにちなんで、ヨーロッパと呼ばれるようになったのだそうです。


 (了)

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