01. モテすぎてごめん
ー私が、彼らと始めて出会ったのは、ある冬のこと。
「そんで、今日も先に帰るって?」
「ごめんごめん。あとでアイスおごってやるから!」
「いらないよ。さっさと帰っちまえ!この裏切り者!」
「へへ。ありがとうね、みなみ!じゃまた明日!」
不満げな顔で怒鳴るみなみをあとにして、急いで教室を出た。ほぼ空っぽな鞄を手にして、ブンブン回せながら楽しい気分でグラウンドを一人で歩いた。
私は滝瀬翼。高校三年生、17歳。みんなセンターやら入試やら一番忙しいはずのこの時期に、昔からやってきた空手のおかげでみんなより先に大学に受かってしまった。大学に受かったのはいいものの、その代わり私は父さんのライブカフェの仕事を手伝わなければならなくなり、最近はほぼ無給料でこき使われているけど、でもなんとなくその生活に満足している。決められた時給はなくても、父さんはいつもタイミングよくお小遣いをくれるし、元々賑やかな雰囲気は好きなので、高校生活の最後としては悪くないと思う。
今日はその父さんのお願いで、いつもよりもっと早く学校を抜け出して、ある目的地に向かっている。今から私が会いに行く相手は父さんのライブカフェで演奏をする新しいバンドのオーディションを受ける予定の人たちらしいけど、父さんによるとオーディションの前にそのバンドの雰囲気が気になるからみてこい、という軽い偵察の任務を託されてしまったわけだ。
「えーと、こっちの角を曲がって左に進むと…。あ、あった!あれかな?」
広い道をまっすぐ通って左の小路に入ると、すぐ見えるビルの地下への階段。なんとなくバツが悪い気がして、私は慎重にきょろきょろしながら階段を下りていった。以外と急な階段だったので、私は足を精一杯のばして一歩ずつ踏み出した。
そしてようやくその階段の終わりにあるドアの前には、結構丁寧な字で「青少年保護区域」と書いてある古いパネルがすぐにでも落ちそうにぎりぎりな形で飾ってあった。そのとき、ドアの向こうから適当にドラムをたたく音が聞こえてきた。そして、ものすごい勢いで怒鳴る女の子の声も。
「だーかーら、いつまで折り紙なんてやってるのよ!このばかゆうちゃん!」
「……。」
「なんだよ、もう!」
「放っとけよ。あいつの折り紙っていつものことじゃん」
「でも練習もしないからでしょ!」
「よせよせ。ていうか、腹減った。なんか食うもんねーの?」
「ないよ!だってこないだのコップラーメン全部智也が食べちゃったじゃん!あ、そうだ。どうせ今何にもないからあんたがなんか買ってきなよ!」
「はぁ?なんで俺が?」
「だってこないだ智也がおごることになってたじゃん!あんたがこないだ寝坊して遅刻したせいでライブカフェでクビになったの、覚えてるよね?ね?覚えてるよね?まさか忘れたとは言わないよね?そのときにお詫びとして一ヶ月間チョコがほしいときはいつでも買ってくれるって言ってたよね?そうだよね?ね?ね!じゃないと…、今ここでベートーベンの「運命」でも弾き鳴らして…!!」
「あー、もううるせーな!わかった、わかったよ!買ってこりゃいいだろ!」
ドアに体を密着させて、そこから流れてくる彼らの話を盗み聞きしているとき、いきなり足音が近づくなり間もなくすごい勢いでドアが開いた。そして私はそのドアを避ける隙もなく頭を打ち、猛烈に感じられるその痛みに声すら出せず心の悲鳴をあげた。
そしてチョコを買いに出たあの男の子の声が聞こえた気がした。最初はぶつけた頭が痛すぎてなんて言ってるのかよく聞こえなかった。
「なんだ?え?おい、大丈夫?」
「あうぅぅぅ…。」
そのまま気を失うところだった。なんて馬鹿力だ!この古臭そうなドアがよくもここまで耐えてこられたね…!
どのくらいに時間が経ったのか、痛みがなんとなく続いてる額を私は両手で抱えたまま視線を上に向けた。
「あぁ、君は、何を願う…♪」
こいつは、私を心配しているわけではなく、急な階段の一つ上で、落書きがいっぱいある壁にもたせて立ったままイヤホンを付けて、目まで瞑ってメロディを口ずさんでいた。その耳に付けてあるイヤホンを沿って視線を移したら、両手をポケットにさした隙間に白いイヤホンの線が目に入った。私は相変わらず額を両手で抱えたまま軽く眉をひそめた。
妙に青の色が混ざった黒髪。細身だけどわりと高そうな身長。制服だけどそのイヤホンを挟んだ耳に付けてある黒のピアス。たぶん今聞いてるような歌を口ずさむその赤い唇では微かなメロディが流れていた。じっと見られているのを認識したのか、彼は自然と瞑ってたその目を開いて私を見つめてきた。そしてぼっとしている私を上下にじろっと見たあと、少しぶっきらぼうに口を開いた。
「あんた、誰?」
「え?」
「だがら、なんでこんなとこで突っ立ってんだよ?」
「え?いや、えーと、私は…。」
「あんた、俺のストーカーだろ!」
「へ?」
「いや、やっぱり俺モテすぎてやばいな。な、この歌知ってる?あいつもこいつもあの席をただ一つねらっているんだよ~このクラスで一番の智也の隣を~あぁ~モテすぎてごめん~♪」
「…知らん」
「そっ?あれさ、ちょうどあんたに歌ってあげたいんだよ。いいでしょ?この俺が歌ってあげるんだから。ここが一番盛り上がるとこなんだよ。あぁ~モテすぎてごめん~♪」
自慢げな顔で、彼は私に言い訳をする間もくれずずっと勝手にしゃべり続けた。初めて聞くその変な歌にどこか頭がおかしくなりそうで私は額だけを抱えて深いため息を吐いた。たぶんあの歌詞の中に自然と混ざってあった「智也」っていう名前があいつの名前なはず。
どんなリアクションをとるべきか迷ってる最中に、ずっと違うメロディを口ずさんでいた彼が無愛想な表情でイヤホンを挟み直しながら言い出した。
「ちゃんと手当てしろよー」
「へ?」
「こぶができちゃうかも知れねーからちゃんと手当てしろってんの」
「……。」
「まぁ、ストーカーだから薬までは買ってあげないし、謝らないけど。でも俺はプロだから忠告してあげんの。んじゃ、俺はものすーーーっごい大事な用事があるのでお先。じゃね。バイバーイ♪」
……チョコを買いにいくのがそんなにものすーーーっごい大事なことなんだ。
あんまりにも無茶苦茶すぎてどこをどこから突っ込めばいいのか全くわからなかった。私は突っ立ったままあいつがつかつかと階段を上っていく後ろ姿だけを見守るしかなかった。私がふらふらしながら危うく下ってきたあの階段を、あいつはその長い足でいっきに上っていった。そして何も入ってなさそうな黒色のリュックまで完全に姿を消してしまったとき、私はやっと正気を戻すことができた。
急いで階段を上ってあの姿を目で追ったときには、さっき彼が私に聞かせてくれたあの変な歌だけが耳に残っていた。どうやら完全に誤解されてしまったようだ。
「あぁ~モテすぎてごめん…♪」
ていうか私が誤解されたというより、あいつが完全にうぬぼれてるということが大変な問題ではないのか。あの病はたぶんそう簡単に直らないはずだ。あいつはこのバンドで何をやっているんだろ?ドラム?ベース?ギター?ボーカル?
どうやら今日のオーディションが楽しくなりそうな予感がして、私は軽く笑ってしまった。私はまだ痛みが残っている額を手で撫で下ろしながら、父さんのところに電話をかけた。何回の信号音のあとに、父さんの声が聞こえてきた。
「‘もしもし?’」
「あ、父さん」
「‘あ、翼。どうだい?行ってきた?’」
「うん。でも入るのはできなかったよ」
「‘そう?どうだった?’」
「うんー。まぁ。ちょっと面白いかも」
父さんとの電話を切って、私は続けて一人でくすりと笑ってしまった。
よろしくお願いします!