因縁の月
壁掛け時計が午後五時を回ろうとしていた。警備から戻ってきた他の部署の社員たちが、井上たちが仕事をしている部屋の前の廊下を歩く足音が、かすかに聞こえている。
「・・・・・・・・できた」
椅子の背にドッと体重をかけ、目を瞑って天井を向く。脱力ポーズだ。
「おう、井上!できたかー?」
彼の動作から察知したのか、十五メートルほど離れた席の課長がそう言った。
「出来ましたよ。・・・・・はぁ、疲れた」
ゆっくりと椅子から立ち上がり、コピー用紙十五枚に相当する配置図のデータの入ったUSBメモリを課長席まで届けに行く。思ったよりも遠いんだな・・・。
「はい、ご苦労さん。もう帰って良いよ」
頭の寂しくなった、人のよさそうな課長はデータを受け取ると井上にそう声を掛けた。本当ならもう少しくらい、ねぎらいの言葉を掛けて欲しいものだが、今の井上にはそんな事は思いつかない。とりあえず、今日の仕事は終了だ。次に仕事があるのは月曜日。
デスクに戻って、小さめの出勤用肩掛けカバンに必要なものを詰める。財布に携帯、それとタブレット端末。昔はあまり必要だとは思わなかったのだが、最近何かと便利だと言うことに気づき、持ち歩くようにしているのだ。
「っし。おい藤井。飯行こうぜ」
向かいのデスクの藤井に声を掛けたが・・・まだ仕事中なようだ。何の反応も示さない。そう、藤井は一つのことに集中すると、ほかの事に目が行かなくなる性分なのだ。
「・・・・・っと、じゃ、いつもの店行ってるわ」
そう言うと井上はカバンを肩に掛けた。この日の井上の退社時間は、記録によると午後五時二十二分。
店の扉が開いたことを知らせるベルの音と共に、店員の「いらっしゃいませー」が、かすかに聞こえる店内。啜っていたコーヒーのカップを皿の上に戻し、腕時計を確認した。俺が退社してから四十分だ。
「あちらの窓際の席でお待ちですよ」
「ありがとうございます」
店員とのそんなやり取りが聞こえる。
井上の座っている席に、足音が近づいてきた。
「おせーぞ」
「すまんすまん。思ってたよりも建物の構造が複雑でな、配置に手間取った」
井上の反対側に、藤井が座る。と、さっきの店員が水を持ってきた。そこで藤井が
「すみません、コーヒーを一杯」
「かしこまりました」
店員は机の伝票を抜き取り、奥のほうへと戻っていった。
「珍しいな、お前がコーヒー頼むなんて」
藤井の疲れた顔をまじまじと見つめる井上。
「いやな、今死にそうなほど眠いんだ」
藤井は大きく、ため息をついた。
「まったく、昼飯食えてたらもっと早く仕上がったんだけどな」
酒と煙草の臭いで充満している大衆食堂。その奥の一角に、井上と藤井は座っていた。先ほど喫茶店にいた時刻から、二時間ほど過ぎている。
「で、思い出したか?例のお嬢ちゃんの事は」
定食のサラダにドレッシングを掛けながら、藤井がそう聞く。
「いや、さっぱり思い出せないんだよなこれが。ほーんと、どこで見たんだろうな・・・・・」
井上は箸で持ち上げたから揚げを見つめながら、ボソッと答えた。
「確かに、どっかで見たんだよ」
「気のせいじゃないのか?」
「いや、気のせいじゃなのは確か。明日の夕飯賭けてもいい」
井上は自信満々だ。その自信は、一体どこから来ているのだろうか。
「そうか。じゃあ直に思い出すだろ」
藤井の方はと言うと、大して気にはしていないようだ。
「ところで」
定食を平らげ、緑茶を胃に流し込んでから、藤井がそう言う。
「お前、明日も行くのか?」
「明日か?ああ、まあな。とりあえず、あの件が解決するまでは行こうと思ってる」
井上の声色が、少し暗くなった。
「まあ、止めはしないが・・・・・・。通常業務に差しさわりの無い程度にやれよ?」
「分かってるって」
そう、明日、九月五日は、無くなった井上の恋人の月命日である。事件のあった時から毎月五日に、彼は死んだ恋人の墓まで花を手向けに行っているのだ。
「仕事だって、きちんと提出してきた。なんら問題は無いよ」
「・・・なら、いいんだ」
その後しばらくの間、二人はただ無言だった。
藤井と別れて、帰路に着く井上。電車の窓に、疲れた顔が映っている。
少し定食屋に長いし過ぎたかな・・・・。井上はそう思う。終電間際の車内には人も少なく、ポツリポツリと座席も空いている。立っているのは、井上と、あともう二、三人。
ふと、腕時計に目をやった。・・・・・・もうこんな時間か。明日は六時に起きて支度をしないとな・・・・・。
「おい兄ちゃん!最近は世の中すさんで来たなぁ!」
酔っ払いが、隣に座っていた若い男性に絡み始めた。男性は迷惑そうだが、酔っ払いはそんな事はお構いなし。
やれやれ、こういうことがあるから、電車で座りたくないんだ。
井上はそう思った。が、実際に彼がそう言う目にあった事は一度も無い。
定期券が見つからなくて焦ったが、無事に改札を抜けることが出来た井上。駅を出れば、とほ十分ほどで自宅マンションまでたどり着く。
ここは、高級住宅地とは程遠いが、そこそこ地価が高い。割高なマンションだけあって、部屋からの眺めを、井上はとても気に入っていた。週に一度は、缶ビール片手にベランダに出て、広がる町並みを眺める。それが、今の彼の趣味だ。
いまどき珍しい、入り口のロックのないマンションに入って行き、ボタンを押してエレベーターを呼び寄せる。
そうだ、来い来い。途中で止まるんじゃないぞ。
井上の願い通り、エレベーターはすんなりと一階まで下りてきた。ドアがゆっくりと開く。昼間のことを思い出し、一瞬警戒したが、いや、さすがにそれは無いだろう・・・・・。彼はそう思い直すとエレベーターへと乗り込んだ。
数字の書かれたボタンを押す。八、の数字が黄色く光った。扉が閉まって一呼吸置いてから、床に足がくっつくような感覚。エレベーターは、井上の体を八階まで運んでゆくのだ。
キーを差込み、玄関のロックを解除。ドアを開けたとたんに、昼間暖められ続けたむわっとした暑い空気が井上の体を包み込む。
「うわっ・・・・・・暑いな・・・・ったく」
井上は部屋に入るや否や、電気も点けずに居間へと向かう。カーテンの閉まっていない部屋、外からの月の光だけでも十分に部屋の様子が分かる。きちんと整頓され、清潔感の漂う部屋。
井上は居間の窓を全開にする。その途端、ひんやりと心地よい風が居間になだれ込む。カーテンレールの端に、無造作にまとめてあるカーテンがヒラヒラと揺れた。
深呼吸。肺の中の空気が一瞬で澄みわたるような気分になった。
夜空に輝く星々の中に、一際明るく輝く星がある。彼女は・・・・井上の恋人の事だ・・・・は、その星が大好きだった。全世界人類が滅んだとしても、月さえ見ることが出来れば、私は満足。そう言っていたように記憶している。
彼女はこのベランダで、ある日突如行方不明になった妹の話をした。彼女の妹もまた、月が、特に満月が、好き、らしかった。早くに両親と死に別れ、年中行事もほとんどしなかった姉妹だが、月見だけは、毎年欠かさなかったという。
井上は思った。もし、彼女の妹が、生きているのだとしたら、その子も今、この月を見上げているのだろうか。憎いほどに美しい、地球の周りを回っている、あの偶然の産物を。
どこからとも無く、懐かしい臭いが井上の鼻をくすぐった。
これは・・・・・蚊取り線香・・・・か。えらく懐かしいな・・・・・・。
アイツは今日も、この町の夜を妖しく照らしている。