スナイパーの少女
少女は、人気の無い、廃工場に来ていた。ここで、依頼主との待ち合わせがある。予定時刻は、あと一時間後の、五時。まだ夏だと言うのに、扉の無い、倉庫の中はひんやりと冷たい空気が漂っている。
・・・・・・なんだか、気味が悪い。嵌められたのだろうか。まだ、誰もいないはずの廃工場は、妙な空気で満たされていた。
荷物を床に置き、中から一丁の拳銃を取り出した。こんなもの、ただの護身用にしかならない事は分かってはいるが、それでも、無いよりは幾分かマシだ。
彼女が持っている銃は、.32ACP弾を八発発射することのできる中型自動式拳銃だ。映画ではかの有名スパイが使っていたことで有名である。
何か、音が近づいてくる・・・・・。・・・・車?
エンジン音がだんだんと大きくなってきて、彼女のいる倉庫の中に、一台の、黒塗りのセダンが入ってきた。時刻は午後四時五十分。どうやらお出ましのようだ。
車は、彼女の手前二十メートルで止まった。
少女は、構えていたシルバーの拳銃をゆっくりと下ろし、依頼主が車から出てくるのを待つ。全面にスモーク張りされた、道路交通法違反の車の中から、ボディガードに挟まれるようにして、五十代半ばの男が降りてきた。たしか、どこかのお偉いさんだ、そんな話を聞いたような気がする。
「どうだったかね?」
低く、落ち着きのある声で、男がそう言った。顔にはうっすらと、怪しい笑みを浮かべている。
この爺さんは、どうやら私の仕事の結果が分かっているくせに聞いてきているようだ。
「・・・・・申し訳ありません。狙撃は失敗しました」
少女は男から視線をそらさずにそう答える。できるだけ、申し訳なさそうに見える表情で。
「そうかそうか、それは残念だ。・・・・・・で、どうするんだね?もう、君には金を渡しているわけだが」
「・・・・・もう一度、チャンスを下さい。次で必ず仕留めてみせます」
男の、顔には表れていない、黒い威圧感に飲まれないようにしながらそう返す。
「うーん・・・・・・まあ、いいだろう。次は期待しているよ。出来れば三日以内でやってくれるとうれしいね」
男はそう言うと、少女に背を向け、乗ってきた車へ戻ろうとした。
「そうそう」
予期せぬ言葉に、一瞬体を強張らせる。
「もし、次も失敗したら・・・・・・・・・分かっているだろうね」
「・・・・・・」
「・・・まあ、いい結果を待っているよ」
振り返りもせずに、男はそう言うと、再び車へ向かって歩き出した。両脇のボディガードは少女の手の中の拳銃から視線をそらさなかったが。
男とボディガード二名が乗り込むと、車は倉庫内で方向転換をし、同じルートをたどって出て行った。
ふう、何とかやり過ごした・・・・・・。ちょっとした安堵感が、少女を包む。今までにこんな気分を味わったのはいつだったか。今回の依頼主は、なるべく刺激しない方がよさそうだ。少女は、銃を握っていた手にいつの間にかかいていた汗を、ハンカチで拭い取りながらそう思った。
次、失敗したら、多分、私は殺される。分かりきっていたことだが、それが現実味を帯びてくると、なんともいえない気分になってくる。逃げようと思えば、今から逃げることもできる。が、そううまくはいかないだろう。
簡単なことだ。生き延びたければ、任務を成功させればいい。ただそれだけ。
少女は、また、大きな荷物を担ぐと、倉庫からゆっくりと出て行く。夕方近くなった空を仰ぐと、大きな入道雲が見えた。
彼女は今、古いアパートの一室に寝泊りをしている。エアコンも無ければ炊飯器も無い。部屋の中にあるのは、刑務所を思わせるような質素なベッドと、小さな丸テーブルのみ。衣類はある程度量があるが、それでも最低限度のものしか持ち合わせていない。
少女がアパートに戻ると、玄関のドアについている簡易ポストに、一通の手紙が入っていた。何の事は無い、ただの、宗教の勧誘のお手紙だ。
こんな時だし、神様にお願いしてみようかしら、彼女は荷物を部屋の隅に置くと、その手紙に目を通した。そして、四つ折りにすると、ごみ箱へ向かって放り投げた・・・・・・・・入らない、残念。
蒸し暑い部屋の窓を全開にして、ベッドに横たわる。考えているのは、今日の、あのターゲットの事だ。どうして、企業のお偉いさんがあの男性を殺したがっているのだろうか。何か、知られてはいけない秘密でも握っているのだろうか。それとも・・・・
そこまで考えて、いや、くだらない事だ、とすぐに思い直し、やめた。今までこんな事は考えたことも無かったから。今回、そんな風に思ってしまうのは、やはり、今まできちんと一回で済ませてきた仕事が、初めて上手く行かなかったから、なのだろうか。
開け放した窓から、ほんのりと涼しい風が吹き込んでくる。頬を撫でる心地よい風を感じ、ゆっくりと目を開けた。・・・・・・・いつの間にか、眠ってしまっていたようだ。
少し乾いてしばしばする目を何度かこすり、ベッドから下りる。・・・・・・なんだか、お腹が空いた。
いつもは近所のコンビニで適当に済ませている、のだが・・・・・・・・・今日くらい、趣向を変えて、どこかお店に食べに行くのも悪くない、かも、しれない。
気がつくと、少女はアパートの近くにある、寂れたコンビニに来ていた。どこの大手企業にも属していない、個人経営のコンビニエンスストア。品揃えはあまり良くないが、この程度の店でたいていは事足りる。
そうか、やっぱりコンビニ食にしたのか。まあ、そうだよね。料理店に行っても、注文のし方なんて分からないから。
少女は、おにぎり二つと、ペットボトルのお茶を一本買うと、手押しの扉を開けて、店の外へと出て行った。コンビニの前の通りに、カレーの匂いが漂っている。昔が懐かしい。姉と住んでいた頃が・・・。
彼女には、五つ、歳の離れた姉がいた。いた、というのは、まあご察しいただけるだろう。その姉の得意だった料理が、カレーだった。姉の作る料理はどれもイマイチだったが、カレーだけはやたらと美味しかった、そんな記憶が、彼女には残っていた。
月明かりだけが照らす、薄暗い部屋の中。小さなテーブルの上に、夕飯のごみだけが乗っかっている。
この安アパートの部屋から見る月も、綺麗。どこから見たって、月は綺麗に見えるのね。
彼女の趣味は一つ、月を見ること、だ。友人と食事に行くようなこともないし、都心部へ服を買いに行くことも無い。そもそも、親しい友人もいない。孤独。
十四で、姉の元を去ってから、もう五年になる。なぜ、自分が今こんなことをしているのかも、良く覚えていない。
しかし、そんな事はどうでもいいのだ。彼女には、夜空に輝く月さえあれば、それで満足だった。
開け放した窓から、ひんやりとした冷たい風が入ってくる。蚊取り線香の匂いが、ふっと、少女の鼻に触れた。