序章
無風。今なら弾が風に流されることもあまり無いだろう。この真昼の、晴れた空の東京のビル街にしては珍しい事だ。スコープの中にはっきりと捉えられている男は、二百メートル先から銃口を向けられているとも知らず、カフェテラスでのんびりとコーヒーを啜っている。
あの男・・・・・今、引き金を引けば、数秒のうちに頭が飛び散るであろう若い男・・・・・の事は何も知らない。ただ、依頼された仕事をこなすだけ。彼に家族がいようが、恋人がいようが、そんなものはどうでも良かった。
見た目二十歳くらいの、白いワンピースを着た若い女は十二階建てのビルの屋上から、寝そべりながらスコープを覗き込んでいる。愛銃であるこのL96A1に、弾を込める瞬間、今まで仕留めてきた目標のことをふと思い出し、心の中が冷たくなる。
この仕事をこのまま続けていけば、いずれは空を見て綺麗だと思ったり、花を見て可愛いと思ったりするようなことも無くなるのだろう。こんな気分になるのは初めてだ。深層心理ではこの仕事を嫌っているのだろうか。
女は気を取り直し、スコープの中の男を見た。・・・あの男は『イノウエ』と呼ばれているが、それが本名なのか偽名なのか、それとも何かのコードネームなのか。何も分からないが、それで構わない。今から死に行く人間のことを知ったところで何の役にも立たない。
そんなことを思っていると、突然、男がこちらを向いた。スコープ越しに男と目が合ったような気がした。そんなはずは無い。二百メートル先から狙っているのだから、まず気づかれる事はない。・・・ありえない。
しかし男は、持っていたコーヒーカップをテーブルにゆっくりと置き、こちらをじっと見つめている。もしや、あの男には私の居場所が分かっているのではないだろうか。
そう思うと、女は居ても立っても居られなくなった。今まで、ヤクザの組長だろうが、警察の狙撃手だろうが、海外の殺し屋だろうがバウンティハンターだろうが、全員気づかれずに仕留めてきた。だが今回はどうだ。気づかれていないのか。気づかれているのか。さっぱり分からない額に冷や汗が流れる。
早く撃たないと・・・・・。焦る女の手がかすかに震え、スコープの景色が揺れる。相手を撃つ時、そいつと目を合わせてはいけないという話を聞いたことがあった。今まではそんな事、気にもしていなかったが、実際に、今から撃とうとしている相手と目が合うと、なぜだか引き金に掛けている人差し指が動かなくなる。
すると、こちらを向いていた男の唇が、かすかに動いた。
『いい銃だな』
耳元で聞こえたような気がして、女はハッと振り返った。・・・誰も居ない。しかし、ビルの屋上は妙な空気に包まれている。心臓が速いテンポを刻む。無理だ。この状態では狙撃など出来るわけが無い。
気を落ち着かせようと、再度スコープを覗き込む。・・・が、そこに男の姿は無かった。
「なっ・・・」
つい、言葉が口からこぼれた。私は動揺している。女は自分を落ち着かせようとした。だが、まずはここから撤収しなければ。無造作にライフルをケースにしまい、双眼鏡をベージュのリュックサックに突っ込んだ。なんとも言い表しがたい気分に、なんだが視界がおかしくなり、吐きそうになった。
ビルの階段を下りているところで、屋上に帽子を忘れてきたことに気付いたが、今さら戻る気分でもなく、さっさと一階まで行くと裏口から裏通りに出た。失敗だ。依頼主にそう報告する自分を思うと、すこし気分が暗くなった。