第二話 逃げろと言われても
第二話 逃げろと言われても
午前九時二十分。
東京都庁の会議室には、まだ十人ほどしか集まっていなかった。
壁面のモニターには、台風の予想進路と、都内の浸水想定区域が表示されている。
台風の中心がどこを通るかは、まだ確定していない。
しかし、仮に東京湾に接近した場合、どのような備えが必要になるのか。それを確認するための情報共有が始まろうとしていた。
「まず、現時点での気象情報を確認します」
担当者が説明を始めた。
「複数の数値予報モデルで進路にばらつきがあります。東京への接近を断定できる状況ではありません。ただし、今後の予測の変化には注意が必要です」
佐伯美和は、資料に目を落とした。
昨日までの予測と、今朝の予測。
進路は一致していない。
どの予測を採用するかという話ではない。異なる予測を踏まえ、どのような危険を想定しておくかという話だった。
「それで、避難計画の確認ですが」
美和は、机の上に置かれた資料を開いた。
「仮に、広い範囲で避難が必要になった場合、現在の受け入れ態勢で対応できるのでしょうか」
会議室が静かになった。
担当者の一人が答えた。
「区市町村ごとに避難所の開設計画があります。想定に基づく準備も進めています」
「それは承知しています。ただ、広域で避難が必要になった場合です。ある区の住民が、別の区へ移動しなければならなくなったら?」
「その場合は、関係自治体との調整が必要になります」
「では、調整が終わるまで、住民にはどこで待ってもらうのでしょうか」
誰もすぐには答えなかった。
美和は、言い方が厳しかったかもしれないと思った。
現場の担当者たちも、限られた予算と人員のなかで仕事をしている。計画を作ることが簡単ではないのは、彼女も知っていた。
それでも、確認しておかなければならない。
計画書に書かれた「避難可能」という言葉と、実際に避難できることの間には、距離がある。
「もう一つ、要配慮者の移動についても確認したいんです」
美和は続けた。
「避難情報を出したあと、誰が移動を支援するのか。支援が必要な人の全員に、必要なタイミングで手が届くのか」
担当者が資料をめくった。
「個別避難計画の作成を進めている自治体もあります。ただ、進捗には差があります」
「進捗に差がある、ですか」
美和は、その言葉を繰り返した。
会議室の時計が、九時三十四分を示していた。
台風が東京に来るかどうかは、まだわからない。
しかし、避難が必要になったとき、すべての人が同じように動けるわけではない。
そのことだけは、予報の結果を待たずにわかっていた。
*
同じころ。
江東区の住宅街では、小林正一が、居間のテーブルに置いた新聞を読んでいた。
七十三歳。
数年前に足を悪くしてから、長い距離を歩くのが難しくなった。
妻の文子は七十歳。日常生活に大きな支障はないが、夫を支えながら階段を上り下りするのは容易ではなかった。
テレビでは、台風の進路予想が繰り返し放送されていた。
「東京に来るのかねえ」
文子が台所から声をかけた。
「まだ、わからないらしい」
正一は新聞から顔を上げずに答えた。
「来るかもしれないって言ってるのに、来るかどうかわからないって。結局、どうすればいいのかしら」
「来るなら、逃げればいいんじゃないか」
言ってから、正一は顔を上げた。
文子は、流し台の前で手を止めていた。
「どこへ?」
正一は答えられなかった。
近くの避難所は知っている。
歩いて行けない距離ではない。
だが、台風が接近するなか、足の不自由な夫を連れて移動できるだろうか。風雨が強くなれば、途中で転倒するかもしれない。
車は持っていない。
息子は埼玉県に住んでいるが、仕事がある。すぐに来られるとは限らなかった。
「早めに行けばいいんじゃないか」
正一は、もう一度言った。
今度は、自分に言い聞かせるような声だった。
文子はテレビを見た。
画面の下には、台風に関する情報が表示されている。
まだ、避難指示は出ていない。
今すぐ避難する必要があるのかどうかも、わからない。
「お父さん」
「なんだ」
「もし、避難所に行って、入れなかったら?」
正一は新聞をたたんだ。
「……そんなこと、あるのかね」
「わからないから、聞いているのよ」
文子は、夫の隣に座った。
二人はしばらく黙ってテレビを見ていた。
*
午前十時五分。
東京都庁。
美和は、会議から戻ると、区市町村から寄せられた報告資料を確認した。
避難所の一覧。
収容可能人数。
要配慮者への支援体制。
交通機関との連絡手順。
どれも必要な資料だった。
だが、ページをめくるほどに、気になることが増えていく。
避難所の収容人数は、施設ごとに示されている。
しかし、同じ施設でも、開設の時刻や利用できる部屋によって受け入れ可能な人数は変わる。
移動支援についても、関係機関との連携が必要とされているが、支援を求める人が集中した場合の具体的な対応は、自治体によって異なっていた。
そして、避難先まで移動できたとしても、それで終わりではない。
高齢者の薬はどうするのか。
乳幼児のいる家庭には、何が必要なのか。
ペットを連れて避難する人は、どこで過ごすのか。
停電が長引いた場合、エレベーターが止まった集合住宅の住民はどうなるのか。
美和は、資料の端に小さな印をつけた。
そのとき、内線電話が鳴った。
「佐伯です」
「佐伯さん、先ほどの台風情報について、確認したいことがあります」
区市町村との連絡を担当する職員だった。
「どうしました?」
「複数の自治体から、避難の判断をいつ行うのか、問い合わせが来ています。現時点では、具体的な避難の呼びかけに至る段階ではありませんが、各自治体としても準備を進めたいようです」
「そうでしょうね」
美和は窓の外を見た。
「気象情報の更新を確認しながら、今できる準備を進めてもらうようにしてください。特に、要配慮者の移動支援と、避難先の開設に必要な時間を確認してほしいです」
「わかりました」
電話を切った美和は、机の上のメモを見た。
**予報が確定する前に、何を準備できるか。**
昨日までは、抽象的な問いだった。
今は、少し違う。
避難先を開設するには時間がかかる。
支援が必要な人を把握するにも時間がかかる。
交通手段を確保するにも、関係機関との調整が必要だ。
つまり、台風の進路が確定してから準備を始めたのでは、間に合わないことがある。
しかし、どの段階で、どこまで準備を進めるべきなのか。
それを決めるためにも、情報が必要だった。
美和は、ユキノからの電話を思い出した。
危険な進路が確定していないことと、危険な進路を考慮する根拠がないことは、違う。
彼女はパソコンを開き、気象情報の更新を確認した。
*
午前十時二十七分。
every whether 株式会社。
ユキノは、最新の計算結果を黒瀬と確認していた。
「東京湾に接近するシナリオは、まだ残っています」
「うん。ただ、ほかのモデルとのばらつきは大きいね」
黒瀬は、画面上の予測結果を切り替えた。
「この段階で、特定の進路を本命扱いするのは危険だ。モデルの違いだけでなく、今後の観測でどう変わるかも見ないと」
「わかっています」
「なら、まずは条件を整理しよう。東京湾に接近した場合、何が問題になるのか。風、雨、高潮。それぞれ分けて考える」
ユキノは、別の画面を開いた。
「高潮については、台風の中心がどこを通るかだけでは判断できません。風向きや気圧、潮位の条件も関係します」
「そう。浸水も、雨だけで決まるわけじゃない。河川の水位や排水の状況、地形によって違う」
二人は、それぞれの条件を整理していった。
東京に台風が接近したとしても、都内のすべての地域が同じ被害を受けるわけではない。
風の影響が大きい場所もあれば、浸水の危険が問題になる場所もある。
どこに、どのような危険が生じるのか。
それを考えるためには、進路予測を一つ選ぶだけでは足りなかった。
「黒瀬さん」
ユキノが言った。
「行政が判断するとき、モデルの違いって、どこまで伝わるんでしょうか」
「伝え方次第だと思うよ。一本の進路予測だけを見せれば、そこを通ると思われるかもしれない。でも、予測には幅があることも伝えられる」
「幅があることを伝えたら、かえって判断しにくくなりませんか」
黒瀬は少し笑った。
「なるだろうね」
「……ですよね」
「でも、不確実だからといって、情報を単純化しすぎるのも問題だ。判断しやすくすることと、実際より確実に見せることは違う」
ユキノは、画面に目を戻した。
正確な情報を伝えること。
その情報を使って判断できる形にすること。
どちらも必要だった。
彼女は、分析結果をまとめ始めた。
そのとき、画面の隅に、新しい通知が表示された。
最新の観測データが更新されたという知らせだった。
ユキノは、すぐにファイルを開いた。
まだ、進路が変わったと断言できるような情報ではない。
しかし、予測の初期条件に関わるデータだった。
彼女は数値を確認し、ひとつ前のデータと比較した。
そして、もう一度、計算結果を呼び出した。
「……黒瀬さん」
「どうした?」
「これ、次の計算で、また変わるかもしれません」
「変わる可能性はあるね」
「東京湾に近づく方向へ、変わる可能性も」
黒瀬は、ユキノの画面を見た。
「そうだね。ただ、今はまだ、その可能性を評価する段階だ」
ユキノはうなずいた。
彼女は、まだ誰にも「東京に来る」とは言えない。
それでも、予測が更新されるたびに、残された時間が少しずつ短くなっているような気がした。
*
正午。
小林夫妻の家では、文子が食器を洗っていた。
正一は、居間でテレビを見ている。
昼のニュースでも、台風の進路予測が取り上げられていた。
「今後の進路には不確実性があり、最新の気象情報に注意してください」
アナウンサーの声が、いつもの調子で流れる。
文子は蛇口を閉めた。
最新の情報に注意する。
それはわかる。
でも、どの情報が出たら、家を出ればいいのだろう。
どのくらい早く出れば、夫を連れて安全に避難できるのだろう。
文子は、窓の外を見た。
空は明るかった。
庭先では、植木鉢が風もないのに、少し傾いて見えた。
「お父さん」
「なんだ?」
「今日のうちに、避難するときの荷物をまとめておこうか」
正一は、テレビから目を離した。
「まだ、来るかどうかわからないんだろう?」
「ええ。でも、来ると決まってからだと、遅いかもしれないから」
その言葉を口にして、文子はふと手を止めた。
どこかで聞いたような言葉だった。
もちろん、ユキノのことなど知らない。
ただ、同じ台風の情報を見て、同じような不安を抱いていた。
正一は、ゆっくりとうなずいた。
「そうだな」
二人は、押し入れから旅行用のバッグを取り出した。
薬。
保険証。
着替え。
懐中電灯。
携帯電話の充電器。
荷物を詰めながら、文子は考えた。
もし避難することになったら、この家はどうなるのだろう。
家具は。
冷蔵庫は。
窓は。
そして、避難所から戻ってきたとき、いつもの暮らしは残っているのだろうか。
彼女は、その考えを振り払うように、バッグのファスナーを閉じた。
まだ、台風は来ていない。
だからこそ、今できることをしておこう。
*
午後一時十二分。
東京都庁。
美和は、区市町村からの報告をまとめた資料を読み終えた。
避難計画はある。
避難所もある。
支援体制も、少しずつ整えられている。
それでも、実際に大規模な避難が必要になったとき、すべての人が計画どおりに動けるとは限らない。
美和は、資料を閉じた。
災害対応は、計画書を完成させれば終わりではない。
計画に書かれていない事態が起きたとき、誰が判断し、誰が動くのか。
その答えまで考えておく必要がある。
スマートフォンが震えた。
ユキノから、短いメッセージが届いていた。
『新しい観測データを確認中。まだ断定できる段階ではないけれど、引き続き注意して見ています』
美和は、すぐに返信した。
『ありがとう。こちらも、今できる準備を確認しています』
送信してから、彼女は窓の外を見た。
東京の街は、いつもどおり動いている。
電車は走り、店は営業し、人々は昼食を取り、午後の仕事に戻っていく。
その日常を守るために、どこまで準備しておくべきなのか。
美和には、まだ答えが出ていなかった。
ただ、ひとつだけ、はっきりしたことがある。
避難してください、と呼びかけるだけでは、人は逃げられない。
逃げる場所が必要だ。
そこへ行く手段が必要だ。
そして、逃げたあとに暮らす場所も必要なのだ。
美和は、机の上に新しいメモを置いた。
そこに、三つの言葉を書き込んだ。
**避難先。移動手段。避難後の生活。**
まだ、台風は東京に来ると決まったわけではない。
だが、備えるべきことは、もう目の前にあった。
*
午後一時二十九分。
every whether 株式会社。
ユキノは、最新の予測結果を画面に並べていた。
ひとつ前の計算。
今朝の計算。
そして、先ほど更新された観測データを使った分析。
進路は、まだ一致していない。
東京湾へ向かうシナリオも、確定したわけではない。
彼女は、画面の右上に表示された更新時刻を確認した。
次の予測が出るまで、まだ時間がある。
その時間を、何に使うべきなのか。
ユキノは、分析結果を保存した。
そして、もう一度、最新の観測データを開いた。
まだ、何も決まっていない。
けれど、何も起きていないわけでもなかった。




