午後四時の匂い
子どもの頃の家を思い出すと、必ず午後四時の匂いがする。
それが何の匂いだったのか、もう思い出せないのに、記憶の中ではいつも同じ濃さで、同じ高さに漂っている。
夕方でもなく、夜でもない時間。
学校から帰り、ランドセルを放り出して、私はしばらく畳の上に寝転んでいた。天井の木目を数えることに飽きると、窓の外に伸びる電線を眺めた。風に揺れるでもなく、ただそこにある線。それが世界の骨組みのように見えた。
午後四時の匂いは、その時間にだけ現れた。
甘いようで、焦げたようで、しかし食べ物ではない。母が台所に立っていた気配と一緒にあった気もするが、姿ははっきりしない。声も、音も、思い出そうとすると遠ざかっていく。ただ匂いだけが、今も正確な形を保っている。
大人になった私は、時々その匂いを探す。
古い家の前を通るとき、夕方の台所に立つとき、ふと立ち止まって鼻を澄ませる。だが見つかるのは、洗剤の匂いや排気ガス、料理の湯気ばかりだ。午後四時は、もうどこにもない時間になってしまったらしい。
思い出せない理由を、私は何度も考えた。
記憶は保存されるものではなく、書き換えられるものだという話を聞いたことがある。思い出すたびに形を変え、少しずつ削れていく。だとしたら、あの匂いももう、原型を失っているのだろう。
それでも不思議なのは、失われたはずのものが、欠落として残っていることだった。
「思い出せない」という感覚だけが、具体的な重さを持って胸の奥にある。まるで、引き出しの中身を失った箱だけが、部屋に置かれ続けているようだった。
ある日、夕方の帰り道で、私は立ち止まった。
西日が建物の壁に反射し、空気が一瞬、やわらかくなる。匂いはしなかった。それでも、その場に立っている私の中で、確かに午後四時が息をした。
そのとき気づいた。
私が探していたのは匂いそのものではなく、それを必要としていた自分だったのだ。何も考えず、ただ時間に預けられていた身体。名前も理由も持たずに存在していた、あの感覚。
午後四時の匂いは、もう戻らない。
だが、失われたことを知っている私だけが、今ここにいる。
それでいいのだと、夕方の空気が静かに教えてくれた気がした。
私は歩き出す。
匂いのない午後四時を、今日も通り過ぎながら…




