第5幕 ライラック
7月だが冷たい雨。
それでも、胸の奥がひたすら熱かった。
「……ここだ」
レトロ風のアパート。
古びて見えるのは、街全体の意匠のせいで、実際はとても清潔だった。
インターホンを押す。
「はーい、どちらさま?」
ハナの声ではない。
「朝早くすみません。ヒロといいます。ハナさんの知り合いなんですが……」
「ハナー、彼氏が着てるよー」
その一言で、顔が一気に熱くなる。
ガチャ。
扉が開き、ハナが驚いた顔で立っていた。
「どうして……びしょ濡れじゃない、とりあえず入って!あっ、ちょっと待ってて、タオル取ってくる!」
慌ただしく奥へ消えていく。
小さな玄関でぽつんと立ち尽くす。
濡れた服がひどく体に張りついていた。
「アンナ、イリーナ、ごめん男入れるね!」
バタバタと声が飛ぶ。
戻ってきたハナは、大きなバスタオルを抱えていた。
「とりあえずシャワー浴びて! 服は乾燥機かけるから! 下着は……女物しかないけどいい?」
「いや、着替えはいいよ。それより話が――」
「話より先に、その状態をなんとかして!」
ハナに押され、アパートの共用っぽいバスルームに押し込まれた。
熱いシャワーが肌に広がると、ようやく息が整ってきた。
落ち着くほど、自分の行動の無茶さが恥ずかしくなってくる。
シャワーを出ると、服は乾燥機に入れられ、
変わりに男物のスウェットが置かれていた。
ルームメイトのものだろうか。
バスルームを出て、”HANA”と書かれた部屋をノックする。
「ごめんハナ、突然押しかけて」
「いいのよ、私も今メッセージ見たところ」
部屋に雨の音だけが響く。
「コーヒー淹れるね、ミルクと砂糖は?」
「ブラックで」
二人でコーヒーを飲みながら外の景色を眺める。
雨の音が、少しずつ弱くなっていく。
「ヒロは…どうしたいの」
どうしたい?
そうだ、いつもハナは難しい問いかけをする。
「そういうところが好きなんだ」
思わず口が滑る。
「いや違う、違わないけど、そうじゃないんだ。話したかったんだ」
「ふふ、私もそういうところ好きよ。メッセージでも話したいって言ってたね」
ハナはカップを置くと、部屋の扉を開けると、
そこにルームメイトの二人がいた。
どうしてAIサポートなしで分かるんだ?
「アンナ、ごめんね彼氏の服借りて。イリーナ、もうすぐ雨やみそうだし、買い物でも行って来たら?」
二人はすぐに退散した。
扉を閉めると、再び静けさが戻る。
「ヒロ、ちょっと長くなるけどいい? 私の話を聞いてほしいの」
ヒロは黙ってヘッドセットを取る。
ハナは気にせず話し始める。
「私は札幌生まれなんだけどさ、知ってる? 日本のまち。
両親がさぁ…まあ、絵に描いたようなダメ親でね、
いっっっつも喧嘩ばっかでさ。
娘の私の目の前でもお構い無し。
パパは私にあんまり興味ないみたいだったし、
ママは逆に過干渉でさ、マジでヤバイの、なんにでも口だすんだよ」
まくし立てたかと思うと、息をのみこむ。
「でさ、嫌になって…
高校入ってすぐの夏休みに家出して。
ススキノでさ、まぁよくあるコースよ。
小娘だったからさ、いっぱい騙されて、いろいろあったのよ」
ここで初めて、ヒロに視線を向ける。
「18のとき...そんとき同じ店の友達がさ、エトロフ旅行の話を持ってきたの。
エトロフがどう思われてるか知ってる?…AIが支配してて、誰でも幸せになれる。リアルなユートピアだって」
少し笑う、
信じた自分がおかしかったのか。
「来てみると、ホントに綺麗な街で…
でも、お金とか無かったから、裏で働いたらさ、すぐ捕まるの。ホントすぐに」
肩をすくめる。
「そしたらさ、警察とかじゃなくて。なんかの支援施設に送られるの。
そこがね、何でもしてくれるの。何でも相談に乗ってくれるの」
声が少しだけかすれた。
「ヘッドセットも貰ってさ、
英語とか最初は分からなかったけど、すごいねコレ。半年くらいで片言はしゃべれるようになっちゃった。
そのころには永住申請通ってて、昼職とか紹介されて」
また息を吸い込む。
「そん時の友達は1年くらいしたら結婚しちゃったのよ。
『ここに来てよかったね』って言ってさ...幸せそうだった」
ハナは、コーヒーの湯気をぼんやり見つめながら呟く。
「私のAIさ、サヤカっていうんだけど...
もうね、本当のお母さんみたいなの。
優しくてさ、なんでも話を聞いてくれるの」
声がゆっくり低くなる
「私のママはホント最低だよ。
でもさ...いいところもあったの。優しいところもあったんだよ。
でもサヤカの方が完璧なの。理想のママなんだよ」
大きく深呼吸をする、
「私の今までのさ、痛い目にあった日々って何だったんだろ...
ってさ...
AIが嫌いって、私の逆恨みなの。ホント深い意味がなくてがっかりでしょ」
涙をこらえる、自分の考えの浅さに。
慰めも、励ましも、可哀想だなんて言葉もでない。
ただ、胸が痛かった。
「ごめんね、こんな話で」
ゆっくり首を降る。
「違うよ。
ありがとう、話してくれて」
外を見ると、雨が上がり日が射している。
「ハナ、雨も上がったみたいだし、外の空気を吸いに行こう。
僕のはさ、歩きながら話したいんだよ」
ハナは笑顔でうなずく。
「いいよ、ちょっと待って。準備するから」
部屋から出て、バスルームへ行く。
服は着れるくらいには乾いていた。
手に持ったヘッドセットに小さく囁く。
「ごめんよ、ラッキー。でも、もう少し一人でやらせてくれ」
ヘッドセットをズボンのベルトに引っ掛ける。
部屋に戻ると、ハナも支度を終えていた。
その姿は、見るたびに少しずつ綺麗になっていくように思えた。
外に出ると、空は澄んだ青さで広がっていた。
風は心地よく、陽の光は夏だと教えてくれる。
僕らは自然と並んで歩き出した。
「ハナと会ってからさ、いろいろ考えたんだ。
そして、ここは思っていた以上に不思議な場所だって気付いたんだよ。
ユートピアなんて噂されてるけど……ある意味、嘘じゃないと思う。
不幸な人を見たことがない。自分も含めて」
言いながら、ヒロは少しだけためらう。
「でも。優しすぎるこの感じを“ぬるま湯”って言う人の気持ちも、最近わかったんだ」
苦笑がもれる。
「昨日さ、初めて“本物の魚”を食べたんだ。釣りをしてた人に誘われて。
もちろん違法なんだけど……」
楽しくなって、
身ぶり手振りで魚の大きさを伝える。
「生き物を食べるなんて想像もしてなかったよ。なのに、怖いくらいに美味しくてさ。
生き物を食べるって嫌悪感もあったけど……それ以上に、自分の世界が揺れた感じがしたんだ」
自分の足先を見つめ、静かに続ける。
「エトロフを嫌いになったわけじゃない。誇りだってある。
でも、外側の世界にも魅力があるって気づけたのは……ハナのおかげだよ」
公園に着く。
白、ピンク、紫の花々が風に揺れ、
一面を染めていた。
その景色を前に、言葉は少しだけ柔らかくなる。
「ハナ」
ハナを真正面に見つめる
「本当に感謝してる」
「え?、感謝?」
ハナは思わず吹き出し、肩をゆらす。
「普通さ、こういう流れって……もう少しロマンチックなやつじゃない?」
胸が高鳴るのが分かる。
「そ、それは……もう少し待って。
ハナのこと、もっと知ってから言いたいんだ」
「じゃあAIに相性診断でも頼む?」
いたずらっぽい笑み。
ハナの問いかけは、いつも返事に困る。
ハナはふと足を止め、咲き乱れる花の香りを吸い込む。
「きれい……札幌にもあったはずなんだけど…」
「ほんとにきれいだ」
風が吹き、花々がまるで二人の行く先を揺らして示すように波打った。




