第1幕 ユートピアの変わらない日常
ジリリリリリ――。
壁が震えるほどの音量で目覚ましが鳴った。
「起きたよラッキー、起きたから止めてくれ、近所迷惑だって」
「ヒロが起きないからだよ。月曜の朝、7時40分。早く朝ごはんを食べないと」
ベッドから身体を起こし、大きく伸びをする。
「お腹、そんな減ってないんだけど。グミでいいかな?」
昨日も同じことを言った気がする。
しかし、平日の朝は慌ただしい。
「またそれ? 良くないけど……最低三つは食べて。本当は平日も――」
「ごめんラッキー、コーヒー淹れといて」
ラッキーの小言をさえぎり、洗面所へ向かう。
顔を洗い、ヘッドセットを装着すると、視界に[7:45]の表示が見える。
まだ時間はある。
コーヒーを片手に、立ったままグミを食べる。
(グミだってもう少し、味や食感のバリエーションの幅を増やせば、立派な食事になると思うんだけどな)
研究のことを考えていると、ヘッドセットが震える。
「仕事、遅れるよ。急ぎなよ」
表示を見ると8時を過ぎていた。
急いで自転車を肩に担いぎ、階段を降りる。
外に出て深呼吸をすると、朝の澄んだ空気が肺に染みこむ。
ペダルを踏み出すと、ようやく身体が目覚め始めた気がした。
エトロフ市衛生局は街の中心部にある。
街並みは郊外とさほど変わらないが、高層ビルが多くなる。
自転車を駐輪場に置くと、小走りに職場に入る。
「ヒロさん、おはようございます。今日はぎりぎりですね」
「すみません。おはようございます」
ロッカーへ向かい、急いで作業着に袖を通す。
滑り込みで朝礼に参加すると、
上司の無機質な声が淡々と連絡事項を読み上げていく。
「先週二名が退職しましたが――」
転職は珍しいことじゃない。
AIが適性に応じて職を勧めてくるので、みんな衣替えのように職場を変えていく。
(でも、衛生局はいい仕事だと思うんだけどな。なんで人気がないんだろう)
連絡が終わると、軽快な音楽が流れて“ラジオ体操”が始まる。
「前から聞きたかったんスけど、これって何の踊りなんスか?」
隣の後輩が小声で聞いてきた。
そう言われると考えたことがなかった。
「さあ、なんだろ。でも健康にはいいらしいよ」
隣りの同僚が話に割り込む。
「知ってるか、さらに”第二”ってやつがあるらしいぜ」
「第二っスか?」
「いきなりラップになるんだとよ」
皆が笑いながら体操を終えると、
荷物をまとめて車へ向かう。
シートベルトを締めると自動運転が始まり、
今日の担当エリアへ静かに走り出す。
車内でふと思い出す。
「ラッキー、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なんだい」
少しだけ声が低く感じる。
言うべきか迷った。
「ダンの店のハナなんだけどさ、メッセージって送れないよね」
「無理だよ、連絡先知らないし」
短く刺すような口調だった。
「そんなに怒るなよ。今日やけに厳しくない?」
「ヒロが変なことばかり言うからだろ。
それと、ダンのお店には行かない方がいい。如何わしいし衛生管理も会計も不明瞭だ」
それは分かっている。
けれど、ダンは大切な先輩だ。
「それより、総務課のヒルダは? この前、君の話をしてたよ」
「なんでヒルダさんが出てくるんだよ」
思わず、ヘッドセットを見ようとして上を向く。
ブブブッ――。
シートベルトが軽く震え、前方不注意の警告が出た。
担当エリアに到着する。
衛生局の仕事は、飲食店や施設を巡って衛生状態を確認・指導をすること。
時には掃除を一緒にすることもある。
街中の巡回では、ゴミ袋を点検して臭いを嗅ぐこともある。
自然食材は変な腐敗臭ですぐにわかる。
安全な人工食材なら、腐っていても臭いが少ない。
学生時代から、食品マテリアルの研究をしているので、こう言う事に詳しくなる。
(やりがいのある仕事だと思うんだけどな。なんで人気がないんだろう)
そして、ふと考える。
(またバーに行けば、彼女に会えるだろうか)
昼過ぎ、衛生局へ戻り、報告書を作成すれば業務終了。
基本は六時間勤務だ。
「ヒロ、お先」
「先輩、お疲れ様です」
同僚たちが次々に帰っていく。
気づけばヒロだけが残っていた。
そっと、デスクにコーヒーが置かれる。
「だいぶ集中されてますけど、残っているの、ヒロさんだけですよ」
柔らかな声に顔を上げると、ヒルダが立っていた。
車内でのラッキーの言葉がフラッシュバックし、胸がざわつく。
「すみません。今日は書くことが少し多くて」
「ヒロさんくらいですよ、こんなに丁寧なの。ニックさん、三行でしたし」
困ったように笑うヒルダに、つられて笑ってしまう。
「街路樹がちょっと気になって。夏になる前に手入れしないと」
「それ、うちの仕事でしたっけ?」
「枝や葉が落ちてきたら、うちの仕事だよ。それに土木局には知り合いがいるから大丈夫」
ヒルダが呆れてるのが、表情で伝わってくる。
「そういえば、ヒロさんってキャンプ好きなんですよね?
どんなところに行くんですか? ちょっと興味あって」
(え? キャンプに興味?)
キャンプなんて珍しくもないが、ヒルダが興味を持つとは思えない。
「えっと…近くの自然公園とか」
こちらが返事がつまると、
ヒルダはやさしく言葉を継いでくれる。
「弟がボーイスカウトやってて。私もいろいろ知りたくて。
自然の中でする食事って、楽しそうじゃないですか?」
「僕のはボーイスカウトほど本格的じゃないですよ。
外で食べるっていっても、普通の食品を温めるだけだし」
ヒルダはふっと微笑む。
「少し聞いてみたかっただけですよ。それより、残業しすぎると怒られますよ?」
軽やかな笑顔を残し、静かに去っていった。
視線が閉まる扉にしばらく残る。
(ちょっと冷たくし過ぎたか)
そして、残ったコーヒーに目が泳ぐ。
ため息混じりに、ラッキーが言う。
「ヒロ、キミは本当にバカだね」
「僕はバカじゃない。ヒルダさんが何を言いたいかはわかってる。でも」
「だったら追いかけて食事に誘いなよ。今なら間に合う」
報告書に視線を戻す。
「ヒルダさんには、僕より良い人がいるはずだ」
「それは君だよ」
「AIには分からないよ」
帰宅すると、すぐにヘッドセットを外し、湯船に沈んだ。
お湯に身を委ねて、ぼんやりと考える。
(行政やAIが少子化対策してるって聞いたことがあるけど。まさかそれか。それにしても、あんなきれいな人と僕を? どんなアルゴリズムだよ)
ヒルダは、美人で、スタイルが良く、教養もある。
部署は違うが、たしか役職も上のはず、仕事もできて性格もいい。
普通に考えたら、自分よりいい人がいるはずだ。
胸の奥がひどくざわつく。
好意はある。でもだからこそ、素直には受け取れない。
風呂から上がり、再びヘッドセットをつける。
「長かったね。血圧、少し高いよ。水を飲んで」
いつもの健康管理機能が、少しだけ安心をくれた。
デスクに座り、物理キーボードとディスプレイを整える。
仮想オフィスも便利だが、研究はこの方がしっくりくる。
「ラッキー、前回の続きのファイルと、大学のヤスイ研究室にリンクして」
ラッキーが静かに準備をする。
食品マテリアル――
エトロフの食事はそのほとんどが人工素材から作られ、
味も臭いも食感も栄養も分子単位で設計されている。
ヒロは学生時代から研究していて、
今では趣味でもある。
生成された成分データを眺め、ゆっくり指を動かした。
AIと共に、自分の手で積み重ねていく。
とても心地の良い時間だった。




