第一話:光の涙と叡智の学び舎
ルキウスは入学式に出席するため、家族とともに学園へ向かう。
そこで、一人の華麗な少女と目が合う……
夜の帳が降りたある頃――
猛火が家屋を呑み込み、視界を赤橙に染め上げている。
酷く脅え、声も出ず、足が鉛のように硬直している少年は、暗がりの中で息を殺し、ただひたすらに両親が惨殺される光景を見つめることしかできない。
命を刈り取る男の手には魔力が流れ込み、覚醒者としての力を、ただの私利私欲に塗れた盗賊のために使っている――指先が赤く煌くが、その美しい光は人の肉体を燃やし、抉り、まるで息をするかのように、淡々と命を奪っていく……いくら少年が願おうと、どれだけ人々の悲鳴が上がろうと、その者に容赦という概念は存在しない。
際限なく膨れ上がる猛火は、愛する父と母の輪郭を無慈悲な灼熱で焼き溶かしてゆく――彼らは生身が焼ける痛みに悶え苦しみ、炎の音に混じって届くか細い呻き声が、少年の心を削り取り、残酷な現実だけを無理やり呑み込ませていく。
それでもふたりは、必死に息子へ逃げるよう懇願している……いや、彼らにもう「意識」はない。
本能なのか、反射なのか、それとも生の責務なのか――もはや身じろぎしているかどうかも分からないほど微かな動きで指先が動き、真っ直ぐな目線が少年にそう告げているように見える。
親としての責務を、死の淵にあっても全うしようとするかのように。
(このバカ親……自分の命も、大事にしろよ……)
――お母さんとお父さんが居なくなったら、僕はどうすればいいんだ。
――自分の命すら護れなくて、何を護れるんだ。
いくら心の中で訴えかけても、親も、神も、運命すら、誰も何も応えてくれない。
絶望が少年を押し潰そうとした、その時……奴の目が少年を捉えた。
「――ん?まだガキが生き残っていやがったか」
……見つかった。
足音が少年に近づいていく。
奴の指は先程と同じ色に煌き、ゆっくりと少年の方に向ける。
どうしよう、逃げられない――そんな恐怖が少年をさらに絶望の淵へと追いやる。
心臓が高鳴る。汗が止まらない。目の焦点が合わない。息ができない。いや、息をしすぎているのか。肺が暴走している。
(いったい、僕が何をしたって言うんだ……なんで運命はこうも残忍なんだ……なぜ僕がこんな目に遭わなければいけないんだ……)
ここで、終わるのか……
――奴が大きく腕を振りかぶる。
両親を奪ったのと同じ無慈悲な光が、少年の命を刈り取るべく振り下ろされる。
(お父さん、お母さん、ごめんなさい。二人みたいに、僕は強く生きられなかった)
(せめて天国で、また会えるのかな……)
(もう……ダメだ――)
「……っ!?」
弾けるように跳ね起きたルキウスの肺が、酸素を求めて限界まで膨らむ――全身をびっしょりと濡らす冷や汗が、夢の中で肌を焦がしていた猛火の幻熱を急速に奪っていった。
シーツを握りしめる両手は白く血の気を失い、早鐘のように打ち鳴らされる心臓の鼓動が、鼓膜の奥でうるさいほどに響いていた。
(また、あの夢か……)
「まったく……このバカ脳みそは、何回あの記憶を見せれば気が済むんだ」
肺の奥にこびりついた架空の焦げ臭さを吐き出すように、疲労感たっぷりの重いため息を零す。
「おはよ、お兄ちゃん!やっと起きたね」
ふと横を見ると、ベッドの脇から妹のカサラナが顔を覗かせていた。
冷やかすようなからかいの表情を作っているものの、その作り物めいた表情の裏には、兄を案じる痛切な不安がひた隠しにされていた。
まだ寝癖の残る艶やかな純白の髪が、朝の光を浴びて淡く透けている。そこからふわりと漂ってきた甘い香りが、ルキウスの神経をようやく現実へと引き戻した。
彼女が着ている無地のシンプルなワンピースは一見質素に見えるが、非常に良質な生地で仕立てられている――そんな不自由のない穏やかな生活の中で、自分を心配そうに見つめる妹の姿に、ルキウスは少しだけ安堵の息を吐けた。
「おはよう、カサラナ……いつから居たんだ?」
まだ焦点の定まらない目で尋ねると、カサラナは射抜かれたように肩を揺らし、すっと視線を床へ落とした。
「お兄ちゃん、ずっと魘されてたから……」
普段の彼女の瞳は、無限の星空を閉じ込めたような美しい琥珀色に輝いている――だが、あの夜の出来事を思い出した時の彼女の目は、決まってその色がすっと淡く翳ってしまうのだ。
「…………」
ルキウスは言葉に詰まった。
あの日、隣人のキーヤと共に買い物に出かけていたカサラナだけは、あの地獄のような惨劇をその目で見ていない。炎に焼かれる両親の絶叫も、命を刈り取る異常者の冷酷な目も知らない。
直接の絶望を見ていないがゆえに彼女が抱え込んでいる、どうしようもない疎外感や罪悪感……そんな感情をどう汲み取ればいいのかわからず、ルキウスはただ、その純白の髪をそっと撫でてやることしかできなかった。
「また……あの夢、見てたの?」
カサラナが、兄の心を撫でるような優しくか細い声で問いかける。
その響きには、寂しさと、怒りと、そして何より深い心配が、撚糸のように絡み合ってルキウスの耳に届いた。
危うく過去の深淵に引きずり込まれかけていたルキウスは、その声にハッと我に返った。
そして、妹を安心させるように努めて明るい声を出した――
「……今日の入学式、せっかくなら晴れやかな気持ちで迎えたかったんだけどな。そんな気分にもなれないな」
そう言って、いつものように、にかっと笑ってみせた。
それは、心配そうなカサラナを落ち着かせるためでもあり、何より自分自身の精神の均衡を保つための強がりでもあった。
すると扉の向こうから、一階にいる叔母さんの大きな声が響いた。
「ルキウスー!そろそろ起きないと、初日から遅刻するよ!」
「――はーい!今行く!」
二人は声を揃えて返事をすると、ベッドから勢いよく腰を上げた。
「さ、支度するぞ」
「――うん!」
差し出した手をカサラナが小さな両手でしっかりと握り返すのを確認し、ルキウスは過去の影を振り払うように、部屋の扉を開けた。
リビングへ向かうにつれて、何やらふわりと良い匂いが漂ってくる――途端に、カサラナの胃袋が小さく鳴った。
「なんか良い匂いするね?」
「そうだな……」
「おはよう、叔母さん」
「おはよー!」
リビングに着いた二人が元気よく挨拶をすると、叔母さんは腰に手を当てて快活に笑った。
「おはようさん。今日は朝からごはんを作ったから、食べていきな!」
そう言って、湯気の立つテーブルへ目線をやった。
「え……?」
ルキウスは目を丸くした。
無理もない――世間一般において「朝ごはんをとる」という行為は一種の怠惰とされており、基本的には昼と夜の「一日二食」が当たり前だったからだ。
驚くルキウスをよそに、叔母さんは腕を組み、得意げに目を閉じた。
「珍しいだろう?今日みたいな日は、こういうのも必要だろうと思ってね」
そして、パッと目を開けると親指を立ててみせた。
「脳みそってのは単純でね。朝一番に嬉しい驚きを与えてやれば、今日一日の記憶が『特別な日』として上書きされるんだよ」
元気よく笑う叔母さんの顔を見て、ルキウスは悟った。
自分の魘される声が聞こえていたのだろう。
叔母さんは「朝食」という非常識な手段を用いて、悪夢の残滓を強制的に上書きしようとしているのだ――今日という晴れの日を、少しでも鮮やかなものにするために。
「叔母さんが論理的になるのも、珍しいかな」
ルキウスがわざと茶化すと、叔母さんは誤魔化すようにフイッとそっぽを向いた。
「黙って食え!」
厳しい一言だが、その顔は間違いなく笑っていた。
ルキウスとカサラナは席につき、テーブルに並べられた二人分の朝食に目をやった。
自分の手元に並べられた二つの器を見ると、左にはペペロンチーノが盛られ、右には胡桃色のスープが注がれている。
(これは天零国で好まれる「味噌汁」とかいうスープだったかな……確か大豆を発酵させるとかいう、変わった手法だったような)
「おいしそう!」
「――それじゃあ食べようか」
カサラナが早く食べたそうにしており、ルキウスも朝ごはんに手を付けた。
(――味は間違いないんだが、組み合わせが……なんというか、個性的だよな。というか、朝からペペロンチーノか……)
「美味いか…?」
「う、うん!味は至高の逸品だよ」
叔母さんには褒めないと暴れそうな気がしたルキウスは、事実だけを述べた。
叔母さんはお母さんの妹だが、「本当に姉妹か?」と疑ってしまうほど性格が異なる。
叔母さんは元気で頼りがいのある、ちょっと抜けてるけど立派な人で……あれ、お母さんって、どんな人だっけ――ルキウスは一瞬だけ思考の渦に呑まれ、食べる手がピタリと止まった。
なぜか、あの夜の猛火でドロドロに溶けきった姿しか思い出せないのだ。
ふいに湧き上がった底知れない違和感を胃袋の奥へ押し込むように、ルキウスは猛烈な勢いでパスタを平らげた。
「おお、ルキウス、そんなに美味いか!でも、もうちょっとゆっくり食べてだな、しっかり味わってくれてもいいんだよ」
叔母さんはまたしても快活に笑いながらルキウスの肩を叩いた。
「お兄ちゃん食べるのはやーい」
「カサラナちゃんはまだ幼いから、よく噛んで食べるんだ」
「――はーい!」
カサラナは従順で、いつも叔母さんの言うことをしっかり聞いている――ルキウスは黙って食べ続けていた。
「ご馳走様でした」
「あいよ」
あっという間に食べ終わってしまったルキウスは、空になった食器を重ねて流し台へと持って行き、水に浸けた。
「それじゃあ、着替えてくるよ」
「はーい」
そう言うとルキウスは自室に戻って、クローゼットからサピエンティア学園の制服を取り出した。
初めて袖を通し、期待に胸を弾ませながら鏡の前に立った。
「うわあ……」
全体的にエメラルドグリーンを基調とした配色で、張りとしなやかさを併せ持つ上質なサージ生地が、ビシッとした上品なシルエットを作っている。
襟元や袖口には黄色のラインが入っており、控えめながらも確かな豪華さを演出していた。
その優雅なデザインは、何度見てもルキウスの心を躍らせる。
ただ、二番目に多く使われている色が白であるため、少しでも汚れれば目立ちそうだ。
「カッコイイな!どこかの貴族にでもなったような気分だ」
見た目の良さもあり、口ではそんなことを嘯いているが……本音は違った。
(学校の制服って、こんな貴族みたいな服を着ないといけないのか?着心地悪いなぁ……うわ、もう袖口の跡ができてるじゃん。まって、めっちゃ動きにく…運動とかできないじゃん……)
次から次へと湧き上がる不満を脳内でぼやきながらも、ルキウスはため息をついた。
アルカディア随一の秀才が集う学園だけあって、仕立ては無駄に洗練されており、平民のルキウスにはどうにも窮屈だったのだ。
着替えや持ち物の確認を進めている間も、一刻一刻と時間は迫ってくる。
鞄の中に必要な書類や筆記用具が揃っているか、意味もなく三度目の確認を終えたところで、ふと窓から差し込む朝の光の角度が一段と高くなっていることに気づいた。
(なんだか、時が経てば経つほど緊張してきたな……)
深呼吸をしても、肺に吸い込んだ空気がどこか上滑りしているような感覚だった。もはや自身の鼓動が耳障りなほどに高鳴り、指先が微かに冷たくなっているのを感じながら、ルキウスは鞄の持ち手をきつく握りしめ、覚悟を決めて自室の扉を開けた。
今日はサピエンティア学園の入学式――厳格な規則により保護者同伴での登校が義務付けられているが、幸いなことに特例として関係者である妹の同行も許可されていた。
カサラナに一人で留守番をさせずに済むという安堵感と、何より大切な家族が隣にいてくれるという事実が、強ばるルキウスの心を少しだけ和らげてくれる。
階段を降りて玄関に向かうと、すでに身支度を終えた二人が待っていた。
「遅いじゃないか、遅刻するぞー」
「――ごめんごめん!」
カサラナは可愛らしいケープを羽織って少しだけよそ行きの装いをしており、叔母も普段の豪快な雰囲気は残しつつも、学園に足を踏み入れる保護者として恥ずかしくない整った服装に身を包んでいる。
ルキウスは上がり框に腰を下ろし、今日のために新調された真新しい革靴に足を入れた。
まだ足の形に馴染んでいない硬い革の感触が、これから踏み出す未知の世界の厳しさを暗示しているかのようだ。
靴紐をしっかりと結び終え、立ち上がって二人を振り返る。
「それじゃあ叔母さん、カサラナ、行こうか」
カサラナが花が咲いたような笑顔で駆け寄り、ルキウスの制服の袖を嬉しそうに軽く引いた。
「お兄ちゃん、カッコイイね!」
「……そうか?」
「はいはい、忘れ物はないね? シャキッとして行くよ」
叔母さんは頼もしく頷き、ルキウスの背中を軽く、だが力強く叩いて気合いを入れた。
玄関の扉を開けると、爽やかな朝の空気が頬を撫でた。
(叔母さんは本当の親ではないが、今もこうして温かい家族が傍にいる)
(あの日の猛火で失ったものは計り知れない――だが、だからこそ、もっとこの当たり前の日常を、そして「命」を大切にしよう……
――二度と、あんな悲劇は繰り返させない。自分の無力さに絶望したあの日から、どれだけの夜を歯を食いしばって越えてきただろうか
僕は弱い。勉強以外に何もできない。それでも僕は、この冷酷な現実に立ち向かわなければならない!
そう、僕だけでなく、世界のすべての人々のために……僕は、やってみせるんだ!改革を!
この腐った世の中を変えてやる!アフラニール……必ずお前に詰問してやるからな!そして僕は、世界を救う救せ――)
「早くしろ!」
玄関口で一人世界に浸りきって立ち尽くしていた背中を、叔母さんが容赦なくドガンと押してきた。
「うわっ!?」
感傷に浸る時間は、ものの見事に強制終了させられたのだった。
強制的に出発させられたものの、ルキウスは初めての通学路を心置きなく楽しんでいた。
いつもの見慣れた景色の中を歩いていく――よく行くレストラン、武器屋さん……
(おっ、あれはアルカディア教会だな!大きい!)
上を見ながら歩いていたルキウスは、ふいに通行人と真正面からぶつかってしまった。
「ドンッ!」
「す、すみません」
「――いやいや、こちらこそ申し訳ない」
こんなやり取りは、日常茶飯事だ……すれ違う肩と肩が常に触れ合いそうになるほど、この街は窮屈だった。
ルキウスが暮らすこの街は、アルカディア都市国家の首都「マンティネイアポリス」であり、帝国の中でも三番目の規模を誇る大都市である。
人口は約二十万人、人口密度は約一万二千人――もともと最大人口十万人を想定して設計された都市機能は、完全に許容オーバーの過密状態にあった。
既に首都の人口は溢れかえっており、近くのヴィグル村は、もはや「村」とは呼べない規模にまで膨れ上がっている。
しかし、ここがアルカディアの凄いところだった。これほど沢山の人がひしめき合っているのに、犯罪件数はほとんど増えていない。
「まったくない」という訳でもないが、アルカディア特有の善良な国民性が、犯罪への強力な抑止力になっているのだろう。
しばらくすると首都を抜け、郊外の広く舗装された道を進む。
相変わらず人影は絶えないが、さっきまでの息苦しい人混みからようやく解放されたルキウスたちは、ほっと一息をついた。
(よく考えたら、学校がある方面ってあんまり来たことないな……)
春のうららかな陽光を浴びながら、ルキウスはそんなことをぼんやりと考えていた。
さらに歩を進めると、いよいよ学園がある「シュメルポリス」へと入った。
普段は首都で生活しているルキウスにとって、この都市には見慣れない真新しい景色が広がっている――まるで観光客のような気分で、洗練された街並みを堪能していた。
「綺麗な街だね〜」
カサラナがすべてに目を奪われるようにして呟くと、叔母さんも隣で感激を漏らした。
「そうだな。マンティネイアポリスと違って余裕がある」
「本当に何もかもが新しい街だな……」
ルキウスも、目に入るすべての美しさに魅了されていた。
「ね!カサラナ、ここに住みたい!」
「おっ、なら引っ越し代をおくれよ!」
この街は、首都のインフラ崩壊を阻止するために作られた新都心であり、「シュメル新市街」や「アルカディア学園都市」と呼ばれている。
広く舗装された大通りには、絶え間なく人々の靴音や馬車の車輪の音が響き交い、朝からむせ返るほどの活気に満ち溢れていた。
(とてもここ三十年ちょっとで作られた街とは思えないな。アルカディアの純粋な技術力というより……圧倒的な需要と利益が見込めるからこそ、これだけ大量の労働力が投入された結果だろう)
子供らしからぬ経済的な分析を脳内で繰り広げながら、ルキウスは学園へと続く大通りを歩いていった。
一歩足を進めるごとに目に入ってくる華やかな景色に目を奪われていると、ようやく目的の場所へと辿り着いた。
「疲れたぁ!」
カサラナがそう言うと、地べたにへたり込んでしまった。
「ち、ちょっと、ここには正真正銘の貴族もいるんだから……お願いだから行儀悪いことしないでえ……」
叔母さんは半分涙目でカサラナを説得していた。
(無理もないな――家から学園まではかなり歩いた。
何せ、首都とシュメルポリスは別の都市だし……)
ルキウスはカサラナに内心で同情しつつ、ふと学園を見上げた。
「ここが……サピエンティア学園」
そびえ立つ正門、奥に建ち並ぶ建物群を見上げ、ルキウスの口からポロッと感嘆の声が漏れ出る。
「すごい……」
「ほんと、これは……すごいねえ」
叔母さんもまた、圧倒されたように目を丸くしていた。
目の前に広がるのは、学校というよりは…どこかの大貴族の広大な邸宅と見紛うほどに壮大で、美しい外装の学び舎だった。
門をくぐっていく他の生徒たちも、立ち振る舞いやふとした仕草のひとつひとつに品格が滲み出ている。
目に入るすべてが豪華で、校門を潜る生徒はほとんどが貴族などの大金持ちばかりだ。
(さすがはアルカディア随一、アビスカリス帝国全体で見ても二番目を誇る学園だけはあるな……)
ルキウスはただただ感心するしかなかった。
しかしよく見ると、柵の近くの校舎の壁には、不自然な傷や汚れが目立っている。
(竣工三十年の校舎にしては汚れすぎてるな……大方、首都からの移設に猛反対した人達の仕業なんだろう)
三十年前、二百年の歴史を持つサピエンティア学園の古き良き学び舎を取り壊し、新都心シュメルポリスへ移設する計画が持ち上がった。
この計画は、珍しくアルカディアの国民の怒りを買い、大騒動となった。
ルキウスはまだ生まれる前の話だが、まだ反対する人は多いのだ。
「見て、壁が汚れてるよ」
カサラナも気付いたようで、ルキウスは目線を彼女に合わせて囁く。
「まったく、酷いよな。サピエンティア学園に入学もしたこともない連中が、ただ『伝統』という言葉だけを糧にして嫌がらせするんだ――無関係な生徒もいるってのに」
「――最低!」
純粋な心を持った、純粋な感想……瞳を吊り上げ、汚れた壁を指差す小さな手は少し震えている――この時ルキウスは、自分がシスコンなのかもしれないと悟った。
三人が圧倒されながら門の前で立ち止まっていると、ふと、右側から歩いてくる人物がルキウスの視界に入り込んだ。
彼女の後ろには、メイドらしき女性と、背筋の伸びた執事、そして母親と思しき上品な婦人が付き従っている。
彼女の髪は、カサラナと同じ白い髪――いや、朝の日差しを受けてきらきらと輝くそれは、よく見れば極めて淡い金髪、美しいプラチナブロンドだった。
ふわりと風に揺れる優雅なレイヤーカールが、彼女の整った顔立ちに非常によく似合っている。
(綺麗な人だ……まだ八歳か九歳のはずなのに、とても大人に見える)
ルキウスは少し見蕩れてしまっていた。
(……って、なに人の事ジロジロ見てんだよ!)
ルキウスは慌てて心の中で自分にツッコミを入れ、華麗な少女から目を逸らした。
「おい、あれ、アルセリア様じゃないか?」
「なんてお美しい……」
「うっひょ〜!」
「ああ……アルセリア様と同じクラスになれる栄誉に与れないだろうか……」
彼女が現れた途端、周囲の生徒たちが色めき立ち、興奮を隠しきれないざわめきがさざ波のように広がっていく。
「……そんなに高貴なお方なのか?」
ルキウスはそっと顔を上げ、再度華麗な少女を盗み見た。
凛としたその顔立ちには若くして確かな威厳が宿っており、歩き方や背筋の伸びた姿勢、そして風を孕む髪の靡き方すらも、計算されたかのように洗練されていて、ひどく上品だった。
(どこかの凄いご令嬢なのかな……)
そう推察するルキウスだったが、所詮は自分には縁もゆかりも無さすぎる天上人の世界だ。
「あのお方は、アルカディア三卿家の内の一家……ノエム家のアルセリア様――言わずと知れた正真正銘の大貴族のご令嬢だ!!」
叔母さんは目をギラギラさせ、あわやヨダレを垂らさんばかりの勢いで教えてくれた。
手元では火が起こせそうなほどの勢いで激しく揉み手をしている。
「あ、あの……叔母さん?友達になるのは無理だと思うよ?」
念には念を……ルキウスは野望を抱く叔母さんにそっと釘を刺した。
そんな庶民のやり取りなど知る由もなく、彼女はまるで舞うように軽快で可憐な歩き方で、優雅に門を潜っていく。
(ま、僕には一生縁のない人かな……)
内心でそう区切りをつけ、自分もカサラナの手を引いて校門を潜ろうとした――その瞬間だった。
真紅。
まるで最高級のルビーのように澄み切った気高い瞳が、ほんの一瞬だけ、真っ直ぐにルキウスを「見た」気がした。
(目が、合った!?)
心臓がドクンと跳ね、ルキウスは咄嗟に逃げるようにバッと勢いよく目を逸らしてしまった。
(叔母さんは……)
「それにしても今日はなんか暑いねー!理性も溶けちまうよ!」
(気付いてない。妹は……)
「それなー!みんな痩せ我慢しすぎw」
(気付いてない。というか、アルセリア様は本当に僕を見たんだろうか?)
しかし、すぐに自嘲気味な思考が頭をよぎる。
(……いやいや、自意識過剰だろ。自分みたいなしがない平民なんて、そこら辺に転がってる小石並みに視野に入ってすらないに決まってる――)
(そもそも、この時代は誰もが当たり前に学校へ通えるわけではないのだ。
いくら国を挙げて教育に力を入れているアルカディアであっても、その現実は同じである。
この場に集まっている生徒の大半は由緒正しき貴族か、あるいは余程の富を築いた大商人ばかり。
そんな中で、自分などは言わば風景の一部――ただのモブのような存在にすぎない)
「どうしたんだい?ルキウス。汗ヤバいぞ?」
「お兄ちゃんも痩せ我慢ー?w」
(心なしか、なんか叔母さんとカサラナがチャラくなったように見える……いや、叔母さんはいつも通りか)
「うるせ!行くぞ……」
誰に言うでもなく小さく呟き、ルキウスは気を取り直して、令嬢の優雅な背中に続くように校門を潜り抜けた。
門前での予期せぬ邂逅と胸のざわめきから次第に我に返るにつれて、先ほどまで完全に意識の外に追いやられていた入学式への緊張感が、冷たい波のように再びルキウスを襲い始めた。
周囲を見渡せば、仕立ての良い真新しい制服に身を包み、洗練された足取りで進む同年代の貴族たちばかり――平民である自分に向けられるかもしれない冷ややかな視線や、これから始まる未知の学園生活への重圧が、だんだんと彼の両足を鉛のように重くしていく……。
「今からどこに行ったらいいんだい、教室か?」
そんなルキウスの沈痛な心中など露知らず、叔母さんはまるで初めて大きな市場にやってきた観光客のように、キョロキョロと落ち着きなく辺りを見回しながら問いかけてきた。
ルキウスはため息を一つ飲み込み、極めて淡々と答える。
「まだどこの教室か分からないよ。まずは大講堂に向かって、入学式をするの」
そう言うと、叔母さんは頭の歯車が噛み合ったように大きく頷いたが、すぐに新たな疑問を浮かべた。
「あーそうだった!で、その大講堂はどこにあるんだい?」
「……黙ってついてきてよ」
もはや一つ一つツッコミを入れる気力すら湧かず、ルキウスは呆れ返って前を向いた。
その傍らでは、カサラナがサピエンティア学園の絢爛豪華な校舎――大理石のような白い壁面や、陽光を反射して輝くアーチ状の窓ガラス、そして精巧な彫刻が施された柱の数々――を目を輝かせて眺め回し、一人で完全に舞い上がっていた。
あっちへフラフラ、こっちへフラフラと、まるで迷子になる寸前の子猫のようだ。
「……カサラナ、そんなにはしゃいでいたら、帰りまで体力が持たないよ」
歩き疲れてぐずり出す未来を容易に想像できたルキウスが、年相応の無邪気な妹を優しく窘めると、後ろからまたしても空気を読まない底抜けに明るい声が響き渡った。
「その時は、ルキウスがおんぶしてやればいい!」
「――おい!僕はまだ八歳だぞ!おんぶとかできる体格じゃないから!」
叔母の豪快すぎる無茶振りに、ルキウスの堪忍袋の緒が切れて鋭いツッコミが飛ぶ。
本来なら一番緊張しているはずが、一番冷静にツッコミを入れ続けるルキウスは、まるで彼こそが保護者のように見えた。
そうしてしばらく人の波に流れるようにして歩いていると、ついに巨大な大講堂が姿を現した。
中に入ると、そこはまるで宮殿のような豪華さを誇っており、その広さは計り知れなかった。
既に沢山の新入生が着席しており、ルキウスたちも急いで自分たちの席を探した。
「えーっと、私らの席は『E-08』『E-09』『E-10』か……」
「そうだね、ちょうどいい感じの列だな」
「いえーい!」
――いや映画館!?
思わずナレーターが自我を出してしまうほどアレのソレだった。
ルキウスたちは指定されている席に着席し、式が始まるのを静かに……待てるはずもなかった。
「お兄ちゃん、おしり痛い」
「――まだ座ったばっかだよ!?」ルキウスは即座に振り返った。
「ルキウス、全然始まらないな」
「――いやだから、まだ座ったばっかだって!」今度は隣の叔母さんに噛みつく。
「叔母さん、おやつ欲しい」
「まったく、朝ごはん食べただろう」
「――いややめて!?大事な式典だから!?」
まさかの身内同士の会話に、ルキウスは頭を抱えた。
しばらくの騒がしいやり取りの後、叔母さんがふと口を開いた。
「ルキウス、すっかり緊張が解けたみたいだな」
「――え?」
「お兄ちゃん、緊張してるの丸わかりだったよ?」
(遊ばれてたのかよー!?)
「お、覚えてろよ……」
ぷいっと顔を背け、照れ隠しに真っ直ぐ前を向いたルキウスだったが……その視線の先、ずっと前方の優雅な席にはさっきのアルセリア様がいた。
傍らに控えるメイドと、何やら楽しそうに話しているのが見える。
弧を描くようにしなやかな手を口元へ運び、ふわりと上品な笑みを落とした。
瞬きのひとつ、指先の僅かな動きすら一枚の絵画のように美しいその姿は――同い年だとは信じられないほどに大人びていた。
「うぐっ!」
別に目が合ったわけでもないが、ルキウスはバッと反射的に下を向いてしまった。
(まったく……先が思いやられるぜ)
そんなことをしているうちに、入学式が始まった。
巨大な壇上に一人の青年が登壇し、広大な講堂の隅々にまで響き渡る声で話し始めた。
「これより、第二百八回……サピエスティス・アルカディア私立研究学園の入学式を始めます」
朗々と響くその美声に、周囲の女子生徒たちが一斉に色めき立ち、ざわめきが広がっていく。
(生徒会長とかかな?ってことは、第三過程学舎の先輩か……罪な男だぜ)
ルキウスは内心で感心しつつ、壇上の青年を見上げた。
「まずは、学園長よりご挨拶があります」
青年が優雅な所作で壇上から降りると、入れ替わるように、学園長と呼ぶにはずいぶんと若々しい人物が上がってきた。
「えー……あー、あー」
喉の調子を確かめるように声を出し、彼はいきなり声を張り上げた。
「えー、新入生のみなさん……まずは、ご入学おめでとうございます。学園長として、心よりお祝い申し上げます――しかーし!!」
ビクッ!
突然の響き渡る大声に、会場中の新入生の肩が跳ねる。
「この学園に入学した君たちは、決して『勝ち組』ではない……! まだスタートラインに立っただけの者なのだ!」
急に熱を帯びた学園長の演説に、ルキウスも思わず居住まいを正した。
「この学園の理念について語る前に、まずは創設からの歴史を話そう……」
――しかし、ルキウスの真面目な態度は5分と持たなかった。
その後、永遠とも思えるような長きに渡る学園長の演説が続いたのだ。
「……して、君たちには立派な大人になってもらいたいんだ!つまり私が言いたいことはただ一つ!『甘んずるな、万物を突き詰めよ!』だ!」
(――最後の一言だけでいいじゃん!時間返せよ!)
拍手が鳴り響く中、ルキウスは一人、心の中で血の涙を流しながら強烈なツッコミを入れていた。
いや、きっとこの場にいる全員が同じことを思っているだろう。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
ついに「星の軌跡、久遠の果てに」の本編が始まりました。
いや〜な目覚めから一日が始まったルキウスですが、叔母さんの気の利いた行動で救われましたね。
次は「入学式」ですね!お楽しみにー!!




