Ⅱ. 小さな手に、大きな未来を
【番外編】
「ひょんな出来事」から人生を大きく変えることになったフィデラ。
しかし同時期、帝国から不穏な陰が迫る――
――翌朝。
東の空が白み、小鳥のさえずりがヴィグル村の朝を告げる頃……小さな食卓を囲む家族三人の顔には、一様に深い疑念が刻まれていた。
「昨日の話って……まさか、夢だったりしないよね?」
母親のエリフィーがぽつりと呟く。ロバートもフィデラも、無言で頷いた。
「よし、『アレ』で確認するか」
父親の提案により、三人は互いの頬を力一杯つねり合うという、古典的かつ物理的な儀式を執り行った。
ゴクリ、と息を呑み――。
「いってぇ!」
見事に揃った痛呼が、小さな家に響き渡る…
「いや待て、今ここで現実か確認したところで意味がないだろう!」
「パパが言い出したんじゃん」
冷静なツッコミを入れる娘をよそに、エリフィーの持ち前の心配性が顔を出す。
「いざノエム家へ伺って、『何のことですか?』とか言われたらどうしようかしら……」
「心配ないさ……とりあえず、そろそろ出発するぞ」
ひどく自信なさげに背中を丸めながらも、一家は運命の扉を叩くべく身支度を始めた。
一方、その頃――アルカディアの心臓部たるノエム家の豪奢な客間においても、軍務外交卿たる当主の心配性が遺憾なく発揮されていた。
「昨日、出会って早々あんな提案をしてしまって……彼らはきっと困惑しているだろうな。はあ…本当に、来てくれるのだろうか……」
後悔と不安の入り混じった顔で、フィリップは広い室内を右へ左へと永遠に行き来し、ブツブツと独り言をこぼしている。
「…フィリップ様、あまりウロチョロなさらないでください」
見かねた妻のリウィアが、たしなめるように声をかけた。
「左様でございます、旦那様。埃が舞ってしまいます」
部屋の隅で控えていた初老の男――ノエム家執事のクロードが、目を伏せたまま静かに追従する。
「ああ……すまない。どうしてか落ち着かなくてな……」
「たしかに昨日の唐突な申し出は、あの方々を相当困惑させてしまったでしょうね。ですが、きっと大丈夫……大丈夫だと信じましょう」
リウィアが慈愛に満ちた瞳で微笑みかけた、その時である――
「旦那様!ロバート、エリフィー、フィデラと名乗るご家族がお見えです!」
門番からの報告を携えた兵士が、弾かれたように客間へ駆け込んできた。
「客間に通してくれ」
フィリップが即座に命じると、兵士は腹の底から「はっ!」と見事な返事を響かせ、颯爽と踵を返した。
しばらくの後、案内された家族が恐る恐る客間へと足を踏み入れた――
「よく来てくれた!まずはかけてくれ」
「し、失礼いたします……」
勧められるまま長椅子に腰を下ろす三人……極度の緊張からか、エリフィーの動きはまるでぜんまい仕掛けのからくり人形のようにぎこちなく、ロバートは戦場へ赴く兵士のように顔を強張らせている。
対照的に、幼きフィデラだけは目をきらきらと輝かせ、満面の笑みを浮かべていた。
「貴方様がロバート氏の奥様ですね。お初にお目にかかります。私は軍務外交卿家当主、フィリップと申します――」
「はっ……初めまして……!あの、え…エリフィーと申します」
大貴族の丁寧な挨拶に、エリフィーは声の裏返った不器用な自己紹介を返してしまう。
「はは、どうか肩の力を抜いて、リラックスしてくださいね」
フィリップは柔和に笑いかけ、真っ直ぐにロバートの目を見た。
「ところで、改めて今日こうして足を運んでくださったということは……昨日の話は『了承』という認識でよろしいのでしょうか?」
「は、はい!私たちのような者でよければ、ぜひここで働かせていただきたいです!」
ロバートが強張った笑顔で答えた瞬間、フィリップの顔にパッと歓喜の色が広がった。
「本当ですか!ありがとうございます!」
アルカディア屈指の権力者が、一介の平民の手を固く握りしめ、立ち上がって喜ぶ。その光景の異様さに、ロバートはただ目を白黒させるばかりであった。
「ではクロード…彼らに邸宅と仕事を案内してやってくれ」
「かしこまりました、旦那様」
主の命を受け、一歩前へ出た執事の所作は、まさに洗練の極みであった。
「初めまして。私はノエム家の執事を務めております、クロード・ヴァーミリオンと申します」
恭しく一礼した後、クロードは掌を上に向けてロバートを示し、淀みない口調で語り始めた。
「簡単なお仕事の内容は昨日の時点でお耳に入っているかと存じますが、改めて確認させていただきます」
「まず、ロバート様にはこの邸宅にて、外交関連の事務作業や補佐官といった、アルカディアにとっても重要なお力添えを……フィデラ様とエリフィー様には、当家のメイドとしてお力をお借りしたく存じます」
「――あの、質問よろしいですか?」
そこで、真剣な顔つきのロバートがそっと挙手をした。
「はい。何でございましょうか?」
「我々の『雇用形態』としては、どのようになるのでしょうか?」
それは、明日の糧を案じる平民の父親ならではの、ひどく現実的で切実な問いであった。
しかし、軍務卿たるノエム家の管理体制は、その問いに完璧な回答を用意していた。
「はい。まずロバート様は『正社員』としてお迎えいたします」
クロードは懐から流麗な手書きの書類を取り出し、内容を読み上げるように淀みなく告げた。
「毎月の固定給に加え、年二回の賞与、および当家規定の各種手当を支給いたします。休日は週に二日。ご家族との時間を大切にしていただくため、有給休暇の制度もしっかりと整備されております」
クロードはそこで一度言葉を切り、安心させるようにロバートへ微笑みかけた。
「また、本来ならば事務官は邸宅外からの通勤となりますが、今回は特別に、メイドとして住み込みとなるお二方と同様、ロバート様にもこの邸宅内に専用のお部屋をご用意いたしました――ご家族が離れ離れになることは決してございませんので、ご安心ください」
「な、なんと手厚い……!そこまでしていただけるとは」
近代的な響きを持つその契約内容と、家族への最大限の配慮に、ロバートは目を丸くして深く安堵の息を吐いた。
「そしてフィデラ様とエリフィー様につきましては、『終身雇用』のメイドとしてご契約させていただく所存です」
クロードは二人に視線を移し、温かみのある声で続けた――
「こちらは、ご本人が希望される限り、定年を迎えるまで当家が身分と生活水準を完全に保障するという制度でございます。もちろん、お怪我やご病気の際の医療費等も、すべてノエム家が負担いたします……」
もはや疑う余地などない。これほどまでに理路整然と、かつ人間味のある条件を提示されては、ロバートの胸にあったわずかな不安も完全に霧散していた。
しかし、大人たちが深く納得して頷き合う中、幼いフィデラだけは小首を傾げた。
「ねえ、『シューシンコヨー』って何?」
純粋な疑問。それに答えたのは、悪戯っぽい笑みを浮かべたフィリップであった――
「それはね、『死ぬまで働いてもらう』ってことですよ」
「えっ……逃げられないの……?」
恐ろしい呪いの言葉を聞いたかのように、フィデラがびくりと身をすくませる。
「こら、フィリップ様!あんまり女の子を怖がらせてはいけません!」
すかさずリウィアのたしなめが飛び、フィリップが「ははは」と頭を掻く。
「……では、続きは邸宅をご案内しながらご説明いたしましょう」
主たちの和やかなやり取りを優雅にスルーし、執事クロードは完璧な所作で扉へと手を差し向けた。
客間を後にした一行は、クロードの案内に従って広大な邸宅の奥へと足を踏み入れた。
ヴィグル村にある彼らの自宅から、隣の家までの距離はあろうかという果てしなく長い豪奢な廊下。敷き詰められたふかふかの絨毯を踏みしめながら、フィデラは興奮を抑えきれずに父親の袖を引いた。
「すっごく大きなお家だね……」
「そりゃそうだ。ノエム家はアルカディア随一の大貴族なんだぞ」
無邪気にはしゃぐ娘をたしなめつつも、ロバート自身もまた、その圧倒的な威容に息を呑んでいた。
やがて、前を歩く執事の洗練された背中を見つめていたロバートは、ふと湧き上がった好奇心に背中を押され、恐る恐る口を開いた。
「あの、クロード様。少々不躾なお尋ねをしてよろしいでしょうか……このノエム家が、あの伝説の『ステラ』の御血を引いておられるというのは、真実なのでしょうか?」
それは、アルカディアの民であれば誰もが一度は耳にする、半ば神話のような伝承であった。
ロバートの問いに、クロードは足を止め、ゆっくりと振り返った。
「左様でございます。より正確に申し上げるならば、由緒正しきシュテルンヴァルト家から分家した一族のひとつ……それが、私の仕えるこのノエム家でございます」
淡々とした口調ながらも、その声には確かな重みがあった。
「分家のひとつ…!では、途方もない歴史と重責を背負っておられるのですね」
「ええ。分家は他にも存在いたしますが――数ある分家の中でも、このノエム家こそが最も色濃くシュテルンヴァルト家の理念を引き継いでおられると、僭越ながら手前どもも誇りに思っております」
静かに目を伏せて語る執事の顔には、血筋の優劣ではなく、主家の「在り方」に対する揺るぎない誇りと忠義が満ちていた。
神話の時代から続く重い理念の継承に、ロバートはただ「ははぁ……」と感嘆の溜息を漏らすことしかできない。
しかし、そんな重厚な空気をあっさりと打ち破ったのは、やはりこの小さな灯火であった――
「ねえねえ!じゃあ、私がここのメイドさんになったら、『フィデラ・ノエム・シュテルンヴァルト』になるの?」
「あっはは、就職しただけで苗字は与えられないよ」ロバートは笑って言いながらフィデラの頭を優しく撫でた。
しばらくの沈黙の後に、娘の様子を気にかけるようにして問いかける。
「なんだ、苗字が欲しいのか?」
「ううん、気になっただけだよ!」
無邪気にケラケラと笑うフィデラを見て、完璧な仮面を被っていたクロードの口元が、ほんのわずかに、悪戯っぽく緩んだ。
「もし本気で『ノエム』の名を望まれるのでしたら……間もなくお生まれになる次期当主様の、お妃様に立候補なされることですな」
大貴族の執事にあるまじき、ギリギリの冗談……
(そういえば、先ほどお見かけしたリウィア奥様のお腹は、随分と大きかったな…)
ロバートが密かに得心していると、隣を歩いていたエリフィーが両手を合わせて尋ねた――
「まあ!お子様は、男の子でいらっしゃるのですか?」
「星天占いによれば、そのように伺っております」
「ふふ、それは楽しみですね!」
母親としての温かな笑顔を向けるエリフィーに、クロードはいつもの淡々とした執事の顔を崩し、心からの喜びを滲ませて深く頷いた。
「ええ。当家にとりましても、何よりの希望の光にございます」
複雑に入り組んだ豪奢な回廊を抜けると、一行は無数の扉が並ぶ区画へと辿り着いた。
「さあ、到着いたしました。こちらが、あなた方が生活されるお部屋になります」
クロードが静かに扉を開け放つ……そこには、必要最低限でありながら、一つ一つが最高品質で作られた調度品が整然と配置されていた。
陽光をたっぷりと取り込む大きな窓、風に揺れる純白の天蓋、そして、三人が寝転んでも余りあるほどふかふかの巨大なベッド。
「すっごーい! 雲のベッドだぁ!!」
歓喜の声を上げたフィデラが、靴を脱ぎ捨てるなりベッドへ飛び込み、トランポリンのように跳ね回る。
「こ、こらっ! やめなさい、汚れるでしょ!」
青ざめたエリフィーが慌てて娘を引きずり下ろすが、クロードは「まあまあ」と柔和に目を細めた――
「子供とは、活力に溢れる生き物ですから」
「お部屋のインテリアはご自由に変更していただいて構いません。どうぞ、お好きなようにお使いください」
「ありがとうございます……!」
恐縮するエリフィーであったが、その瞳の奥には、娘以上にこの生活への興奮と輝きが隠しきれずに溢れていた。
「ここはメイド専用の階層となっておりますゆえ、ロバート様のお部屋は別の階にご用意しております」
「承知いたしました……それにしても、我々のような平民が、これほど豪奢な部屋を与えられても本当によろしいのでしょうか?」
「豪奢、ですか。私といたしましては、十分なお部屋をご用意できず、心苦しく思っていたのですが……」
本気で申し訳なさそうに眉を下げる執事の金銭感覚に、家族三人は揃って「ええ……」と引き攣った笑みを浮かべるほかなかった。
続いて案内されたのは、邸宅の一階にある大浴場であった。
ヴィグル村にある彼らの畑が丸ごと収まりそうなほどの巨大な浴槽。もはや「池」である。
「奥には露天風呂もございますゆえ、一日の疲れを存分に癒やすことができますよ」
完璧な笑みを浮かべるクロードの横で、平民の親子は完全に思考を停止させていた。
次に足を踏み入れたのは、邸宅の裏手にあるメイドたちの事務室である。
「お二人には、ここを拠点として働いていただきます。メイドの主たる業務は、清掃、洗濯、料理といった邸宅の管理全般、そして各家主の身の回りのお世話を行う専属メイドがあります――」
「専、専属メイド……!」
エリフィーが憧れに満ちた声を上げる。しかし、執事の口から紡がれたのは冷酷な真実であった――
「はい。ですが、専属メイドは各主に対し一名ずつと決まっておりますので、お二人にはまず、通常業務のメイドとして基礎を学んでいただくことになります」
「ガーン……」
あからさまに肩を落とし、青ざめるエリフィー。その横で、フィデラが小さな拳を天高く突き上げた。
「私、絶対にメイド長になる!」
「ふふ、頼もしいですね。精進なさってください」
最後に一行が案内されたのは、ロバートの職場となる『外交部署』の事務室であった。
しかし、そこは優雅な邸宅の雰囲気とは打って変わり、怒号と羊皮紙の擦れる音が飛び交い、空気が刃のように張り詰めた戦場のような空間であった……
「なんだか……随分と騒々しいですね」
ロバートが思わず口にした疑問に、クロードはそれまでの完璧な笑みを消し、重いため息をこぼした。
「……実は今朝方、アビスカリス帝国より、我が国の存亡に関わる厄介な親書が届いたばかりでして――」
「存亡に関わる、ですか?」
「ええ。お三方は、このアルカディアがアビスカリス帝国のネフターラ領に属しながら、『アルカディア自治特許不可侵条約』によって完全な自治権を得ていることはご存知ですね?」
「はい。もちろんです」
クロードは周囲の喧騒を一瞥し、ひどく重く、厳格な声色で歴史の口を割った。
「アルカディア北部には、ドランデル地方で最も険しい『ボルセント山脈』が聳え立っております……毎年何百人という行方不明者と何十もの遺骸を生み出し、魔物や凶暴な野生動物が生息する死の山脈――その奥地の狭い平地に位置するこの都市は、地理的に完全に孤立しておりました」
クロードの静かな語り口に、家族三人は息を呑んで聞き入る。
「帝国にとっても、これほど入り組んだ土地の統治は骨が折れる。故に半世紀前、事実上の放置として不可侵条約が結ばれました。しかし、我々アルカディアの民は孤立している分、外からの旅人を手厚く歓迎する、抱擁するような気風を持っておりました」
「それが……今の発展に繋がっているのですか?」
「ええ。運命が変わったのは十三年前――一人の行商人が、死のボルセント山脈で道を見失い、徒労の果てにこの街へ辿り着いたのです……」
クロードの瞳に、わずかな熱が帯びる。
「ボロボロの衣服を纏った彼を、民は手厚くもてなしました。そこで彼が目にしたのは、独裁国家が当たり前であるこの世界において、民主主義と基本的人権が保障された特異な政治体制……そして、独自の文化と豊かな自然に恵まれた、何不自由ない人々の暮らしでした」
「帝都への帰り道を教えられ、無事に帰還した彼は……アビスヘイムにて、夢のような『理想郷』の存在を熱弁したのです」
「その噂は瞬く間に世界中へと広まり、理想郷に憧れる移住者、観光客、そして商人たちが大量に押し寄せました――政治の中枢を担うアルカディア教会はこの絶好の機を逃さず、商業と教育に徹底的に力を注ぐ大規模な都市開発計画を実施したのです」
執事の口から滑らかに紡がれるのは、奇跡と称すべき圧倒的な事実であった。
「アルカディアの雄大な自然から採れる良質なウールや新鮮な農産物を輸出し、代わりにこの地では得られない鉱石、水、技術を積極的に輸入して文化と文明を発展させました」
「教育水準も飛躍的に向上し、現在我が国の『サピエンティア学園』は、帝国随一の『サヴォワール・エテルネル学院』に次ぐ二番目の学力を誇るまでに成長しております――」
「信じられない……。我々の住む国に、そんな奇跡のような裏側があったなんて」
「そうしてかつては名の知れた大貴族しか訪れなかったこの街に世界中から人が集まり、現在の観光消費額は、年間で金貨3,000万枚に達するほどにまで膨れ上がっております」
金貨3,000万枚。平民であるロバートたちには、もはや想像すら追いつかない天文学的な富である。
「一人の体験から、これほどまでの大国に成長したのですね……」
感嘆の溜息を漏らすロバートに、クロードは冷たい氷のような瞳で言葉を継いだ――
「はい。しかし、それをよしとしない者たちがいます。我々の異常なまでの急成長を目の当たりにし、下克上を恐れた帝国が……つい先日、このような要求を突きつけてきたのです」
『まさかあんなにも入り組んだ土地にあったアルカディアが、ここまで成長するとはな。正直、祝賀会でも開いてやりたいくらいだが……率直に言おう。今すぐアルカディアの自治権を我々に返還したまえ。忘れてはいないだろうな?あくまでそこは、アビスカリス帝国の領地であるという事を――』
簡潔にして、傲慢。神聖なる条約を一方的に破棄し、築き上げた富と自由のすべてを搾取しようとする、理不尽極まりない要求であった。
「なんと……!?それでは、帝国の理不尽な横暴ではないですか!」
ロバートが血の気を引かせて叫ぶ。
「現在、この一帯を治めるネフターラ領の領主様とも協議を重ねております。領主様個人としてはアルカディアを深く愛しておられますが、立場上、強大な帝国に逆らうことはできず、完全な板挟みとなって苦悩しておられます」
「なんという無法な……」
ロバートがギリッと歯を食いしばる。クロードは静かに目を伏せ、最も重い事実を口にした。
「当主であるフィリップ様は、教会や他の卿家とも連携し、帝国へは徹底抗戦の意志を示す書状を送る構えです」
「同時に、我が軍務官吏部署では、最悪の事態――帝国との大規模な『戦争』になることを見越し、アルカディアの軍事予算を大幅に引き上げ、軍の増強を急ピッチで執り行っております。もはや、一刻の猶予もありません」
「戦争……平和なアルカディアには、あまりに不釣り合いな言葉ね……」
その血生臭い響きに、エリフィーが顔を青ざめさせ、悲痛な声を漏らした。
「仰る通りです、エリフィー様」
クロードもまた、哀しげに同意する。
大人たちの重苦しい空気を察知し、フィデラが父親の服の裾を引いた。
「ねえ、それって怖いの?」
その純真な瞳を前に、大人たちは言葉に詰まる。しかし、ロバートは震える拳を強く握りしめ、力強い笑顔を作って娘の頭を撫でた。
「心配いらないさ。娘を守ることが、「親」の務めだからな!」
その顔は、もはや平民のそれではなく、愛する者を守る戦士の顔であった。
「ロバート様には大変申し訳ないのですが……」
クロードが深く頭を下げる。
「今お話しした通り、一番最初のお仕事が、一番苛烈で困難な内容になるかと思われます」
「問題ありません!」
ロバートは胸に強く拳を当て、揺るぎない声で宣言した。
「私が、微力ながらもこのアルカディアを平和な方向へ導く手助けをいたしましょう!」
「――はい。どうか、よろしくお願いいたします」
衝撃的な事実を胸に刻み、一行はフィリップの待つ客間へと戻った。
そこには、優雅に足を組んで紅茶を嗜む当主の姿があった。しかし、その瞳はまるで干からびた死魚のように生気を失っている。
「フィリップ様、ご案内を終えて戻りました」
クロードの声に、フィリップは弾かれたように姿勢を正し、一瞬にして『威厳ある当主の顔』へとグラデーションのように表情を切り替えた。
「おかえりなさい。……その顔を見るに、今アルカディアが直面している危機について耳にしたようですね」
「はい…まさか、平和な日常にこんな裏があったとは……」
「これから君に与えられる仕事は、国家の命運を左右する極めて重要なものになる。いきなりこれほど責任重大な責務を押し付けることになってしまい、本当に申し訳ない」
「いえ! この身を粉にしてでも、精一杯務めさせていただきます!」
直立不動で答えるロバートに、フィリップは微かな安堵の笑みを浮かべた。
「ありがとう。今日は新しい部屋に帰って、ゆっくり休んでください。明日から、厳しい日々が始まりますよ」
その温かくも重い言葉に、ロバートとエリフィーは静かに顔を見合わせた。
「フィリップ様……。本日は我々のような平民を雇い入れてくださり、さらには身に余るほどの立派な住処までお与えいただき、本当にありがとうございました」
「この御恩は決して忘れません。家族一同、誠心誠意お仕えさせていただきます」
ロバートとエリフィーは、救いの手を差し伸べてくれた当主へのありったけの感謝を込めて、深々と頭を下げた。両親の姿を見た小さなフィデラも、小さな背中を丸めて頭を下げる。
「ああ。頼りにしているよ」
微笑む当主に見送られながら、一家は執事のクロードに導かれ、己たちの新たなる居室へと歩みを進めた。
それぞれの部屋へ戻った家族の胸中は、三者三様であった。
迫り来る戦火への不安と、新しい生活への興奮が入り混じるエリフィー。
アルカディアの未来と、己に課せられた事務官としての覚悟を燃やすロバート。
そして――自分が立派なメイド長になって活躍する姿だけを夢見るフィデラ。
翌日から、ノエム家での彼らの血の滲むような特訓が幕を開けた――
ロバートは、外交部署の激務の波に呑まれていた。
「ああ……ほらここ、数値を書き間違えているぞ」
「も、申し訳ありません!」
書類作成の実務に追われながら、初歩的なミスを連発しては頭を下げる日々。
「一介の平民が外交官補佐までするのかい!?それは激務だねぇ」
「いやいや、雇っていただいた身ですから、全力で頑張ります!」
不憫に思った上司からの労いの言葉に笑顔で応えつつも、彼に課せられた試練は山積みであった。
「外交というのは、ただ単に外国と仲良くするためにあるんじゃない。国民を想い、この都市国家の未来のためにどうすべきかを慎重に考えるんだ。時には、他国を切り捨てる決断も必要になる」
「なるほど、つまりは自国を最優先するということですね!」
「うーん、それはまた少し違うかな……」
「ええ……」
複雑極まる「外交」の概念に頭を抱え、さらに彼を絶望させたのは圧倒的な「学のなさ」であった。
「この資料、読めるかい?」
「えーっと……両国、ぼ……貿易……なんとか、なんとか……契約更新……?」
「あっはは! 難しいか。この世界には共通語があっても、地方によって独自の訛りや言い回しが強いからな!」
「思ったより、読めないですね……」
共通言語が存在するとはいえ、辺境の村で育った彼にとって、他国の強烈な訛りや外交特有の難解な言い回しが記された公文書は、もはや解読不能な暗号に等しかった。
さらに、無情な現実は続く。
「おい、まさか字すら書けないのか?」
「す、すみません! すぐ覚えます!!」
そもそも、文字を自らの手で書き記す機会など、ただの貧しい平民であった彼には皆無であった。これまでペンよりも農具を握り続けてきた武骨な手にとって、羊皮紙に正しくインクを落とす作業は、震えるほどの苦行であった……
(あの主様……なんで俺を、よりにもよって外交部署へ配属させたんだ……!)
出来ないことがあまりにも多すぎたロバートは、書類の山に埋もれながら、心の中で血の涙を流して叫んだ。
一方、メイドとして働き始めたエリフィーは、長年の主婦の勘を遺憾なく発揮していた。
「すごい! エリフィーさんは本当にお料理がお上手なんですね!」
「任せてくださいよ! これでも、長いこと主婦をやってますからね!(キリッ)」
「す、すごい! お洗濯の仕上がりも完璧だわ!」
「ふふん、任せてください!」
水を得た魚のように称賛を浴びる彼女であったが、当然、すべての家事が完璧なわけではない。
「ちょっと! ここ、目立つ場所にまだ埃が残ってるんだけど!?」
「ああ、すみません!」
「まったく、掃除もまともにできないメイドってなんだい!?」
ネチネチと小言を垂れる教育係に頭を下げつつ、エリフィーの内心は般若のように荒れ狂っていた。
(おめぇらもメイドじゃなくてただの主婦やろがいボケェ!!)
そして、最も恐るべき才能を開花させたのは、最年少のフィデラであった。
「わあ! あなた、本当に仕事を覚えるのが早いのね!」
「えっへん!」
過酷なメイドの業務を難なくこなす彼女であったが、時折、斜め上の吸収力を発揮することがあった。
「もっ、持てない……」
山のように積まれた汚れた食器を前に悪戦苦闘するフィデラ。それを見た教育係が、ため息まじりに手本を見せる。
「こうやって持ったらいいのよ〜!」
そう言いながら、教育係は右手に洗い立ての食器を持ったまま、空いた左手でヒョイと汚れた食器の山を持ち上げてみせた。
「お〜!」
目を輝かせたフィデラは、すぐさま『右手に洗い立ての食器を持つ』という動作から完全に真似をし、そのまま左手で重い食器の山を持ち上げた。
「持てた!」
(いや、なんか変な解釈されたんだけど……)
無駄な制約を増やしてなぜか成功してしまった少女に、教育係は密かに頭を抱えた。
「次は礼儀作法ね。……うん、立ち振る舞いの動作はいい感じ!」
「ママから厳しく教わってたんだ!」
「そうなのね!じゃあ次は、言葉遣いね!」
「うぐっ」
得意げな表情から一転、痛いところを突かれた少女は呻き声を上げた。
かくして、彼らの血の滲むような特訓は約一年の歳月を費やした。
余談であるが、この時メイドの特訓のためにノエム家が雇い入れていた『教育係』の謎の女性たちは、メイド経験など一切ない、ただの主婦歴三十年以上の一般人たちである。
――一年後……三人とも恐るべき吸収力を見せ、誰もが認めるプロフェッショナルへと成長を遂げていた。
ロバートは外交部署の激務に揉まれながらも、今や手際よく公文書を処理する優秀な補佐官となっていた。
外交部署が裁く書類の多くは、帝国から幾度となく送られてくる「自治権の返還要求」と、それを断固として撥ね退けるアルカディアからの「拒絶の返書」であった。
一方、エリフィーもまた、持ち前の器用さと肝っ玉でノエム家を支える一流のメイドとして邸宅を奔走していた。
しかし、誰よりも劇的な変化を遂げたのは、最年少のフィデラである――
厳格な礼儀作法を徹底的に叩き込まれた結果、かつての野生児はどこへやら、彼女にはなんと「恥ずかしがり屋」という淑やかな一面が芽生えていた。
それでいて、与えられた業務を完璧以上にこなす圧倒的な仕事ぶりから、彼女はわずか六歳にして、本当に「メイド長」の座を掌握してしまったのである。
もはやあの頃の純真無垢で奔放な姿は失われてしまったのか――周囲がそう息を呑んだ矢先のこと。
「いたっ!」
平坦な廊下で、何もない空間に躓き、派手に転ぶメイド長の姿があった。
(……あ、中身は変わってないな)
洗練された所作の中に燦然と輝く「天然」の二文字に、周囲の大人たちは密かに安堵の息を漏らすのであった。
帝国の不穏な影がアルカディアを覆う中であっても、ノエム家の日常は変わらずに過ぎていくと思われた、ある日のこと――
「奥様が! 奥様がぁぁ!」
血相を変えた新人メイドの一人が、悲鳴のような声を上げながら邸宅の廊下を駆け抜けた。
外交部署で激務に追われ、どうしても手が離せないロバートを残し、エリフィーとフィデラはリウィアのいる病室へと急行した。
慌てて室内に駆け込むと、そこにはすでに当主フィリップと執事クロードの姿があった。
そして、天蓋付きのベッドの上では、大きく膨らんだ腹を抱え、リウィアが苦しげな吐息を漏らしている。
「何があったんですか!」
エリフィーが切羽詰まった声で問い詰めると、クロードが口元に人差し指を立て、ひどく優しく、穏やかな声で告げた。
「シーッ……。ついに、奥様がご出産なされるのですよ」
その言葉に、母娘はハッと息を呑んだ。
「僕たちは、待機室で待つとしようか」
フィリップが、妻の額の汗をそっと拭いながら静かに立ち上がる。
「たくさんの視線があれば、リウィアも落ち着けないだろうからね」
それは、愛する妻の苦痛を少しでも和らげようとする、夫としての最大限の配慮であった。
待機室へと移った一行を包むのは、途方もない緊張と、興奮、そして感動が入り混じった重い沈黙であった。
ゴクリ、と誰かが唾を飲み込む音が落ちた直後。
――オギャア、オギャア!!
邸宅の静寂を打ち破る、力強くも生命力に溢れた赤子の産声が響き渡った。
「……様子を見に行くか」
フィリップが立ち上がり、一行は祈るような面持ちで再び寝室へと足を踏み入れた。
そこには、安堵の笑みを浮かべるリウィアと、赤子を取り上げた専属医の姿。そして、初めてこの世界を目にし、懸命に生を主張して泣き叫ぶ、小さな小さな命があった。
しかし、どこかリウィアと医者の様子がおかしい。互いに顔を見合わせ、目を丸くしているのだ。
不思議に思いながらも、フィリップは無言で歩み寄り、大泣きする赤子を包むおくるみを、そーっと捲り上げた。
「無い……」
ポツリと、当主が呟く。
「……え?」
聞き返したエリフィーに対し、フィリップは信じられないものを見るような目で、改めて言った。
「付いてない……」
星天の占いでは、「男の子」であると予言されていたはずだった。
しかし、専属医は呆然とする一同に向かって、淡々とした声で真実を告げた。
「ええ。元気な、女の子でございます」
「えええええええええええーーーー!?!?」
待機室に控えていた者たちの、盛大な驚愕の声が重なる。
「こらこら、あまり叫んでは、アルセリアが怖がってしまいますわ」
ベッドの上のリウィアが、我が子を愛おしそうに撫でながら優しく微笑んだ。
(もう女の子っぽい名前を命名している!?)
予想外の性別に加え、あまりに素早い対応力に一同はさらに度肝を抜かれる。
「い、意味は……?」
エリフィーが恐る恐る尋ねると、リウィアはおっとりとした口調ながらも、その瞳に決して揺るがぬ強い意志を宿して答えた。
「今って、外の情勢があまりよろしくないでしょう? そのような過酷な環境にあっても……この子だけは、『宝物のように守り抜く』という意味よ」
そう言って、リウィアは愛する夫へと視線を向けた。
「フィリップ様……」
「ええ、素敵な名前ですね。僕も気に入りました」
フィリップが心の底から愛おしそうに微笑むと、部屋の空気は一気に歓喜と祝福の色に染まり上がった。
そして、フィリップは傍らで目を輝かせている小さなメイド長を振り返った。
「フィデラ……。君に、この子の専属メイドになってもらいたい」
「えっ! いいのですか!?」
突然の指名に、フィデラはパァッと顔に花を咲かせた。
「抱かせてください!」
身分もわきまえず弾むように駆け寄り、リウィアからそっと、壊れ物を扱うように赤子を受け取る。
「かわい〜……!」
小さなメイド長の腕の中に収まる、さらに小さな命。その愛らしい寝顔に、フィデラは興奮しっぱなしであった。
その光景を、エリフィーとリウィアは「この子こそが適任だ」と言わんばかりの温かいまなざしで見守っている。
とりわけエリフィーに関しては、自分自身の経験を含め、二度目の尊い出産を見届けたことで、完全に涙腺が崩壊し、ハンカチを濡らしてむせび泣いていた。
その後も、フィデラは片時も離れることなく、つきっきりで赤子の様子を見守り続けた。
よほど、この小さな宝物が愛おしかったのだろう。
ノエム家に新たな命――アルセリアが誕生したという報せは、一瞬にしてアルカディア全土へと知れ渡った。
そして、星の予言とは異なり『女の子』であったという事実は、民衆に大いなる驚きをもって迎えられたのである。
その夜、ノエム家の広大な庭園では盛大な出産祝いの宴が開かれた。
迫り来る帝国の脅威をひとときだけ忘れ、集まったすべての者たちが、この日産み落とされた小さな星に、心からの祝福を捧げたのであった。
そして、この盛大な宴は朝まで続いた――
最後まで読んでくれてありがとうございます!!!!
いよいよ「序章」も終わり、次章からは主人公目線で「星の軌跡、久遠の果てに」の物語が綴られていきます。
いきなり学生としての生活から始まるので「飛びすぎだろォ!」ってなるかもしれませんが、そこは許してください...
引き続きマイペースで投稿していきますので、気長に待っていただけると幸いです!




