世界の森のアールリア
迷ったり、悩んだり、死にたくなったりしたら。
この世界のものならどんな森でもいいから、その中を目をつぶって駆け抜けてごらん。木にぶつかるだとか、石につまずくとか、そんなことを恐れる必要はないよ。風のように走り抜ければいい。
紅い森で、アールリアが待っているから。
――リリー・エル著『世界の森の魔女』より抜粋
1、
目を開けた瞬間、視界が赤に染まった。
はじめは目を怪我したのかと思った。しかしよく見ると違う。クライスは、真っ赤な葉をつけた木々に取り囲まれていたのだ。
こんな森、見たことがない。クライスは、あたりをぐるりと見渡してそう思った。どの木のどの葉も、すべてムラのない赤に染まっている。秋の紅葉とは違って、緑だったころの面影がまったくなかった。
クライスは近くの木の枝から一枚、葉をもいでみる。クライスが今までに見た、どんな赤よりも紅く染まったその葉は、若葉のようなみずみずしさを持っていた。
もし、ここに絵の具があったなら。どの色とどの色を混ぜようか。
ただただ、手にした葉を見つめる。クライスは葉をいろいろな角度から見て、感嘆のため息をついた。見れば見るほど惹きこまれる。
いつの間にかクライスは、美しい赤色のとりことなっていた。それほどに、彼は芸術家だった。
だから彼は気がつかない。木々の間にかくれて建っている、ちいさな小さな家の存在に。そして、その家の戸がゆっくり開けられたことに。
「あら。ずいぶん、この木を気に入ってくれたみたいね」
「ああそうだ、この森はうつくしい。今すぐにでも、絵にしたいよ……?」
声に答えてから気がつく。この声は誰のものなのか、と。葉から顔をあげて、クライスは声のした方を見やった。そうして、彼は茶の目をみはる。
まさか人がいるとは思わなかった。
「……君は」
クライスの目の前に、少女が立っていた。赤毛を頭の高いところで、真っ赤なリボンを使ってふたつにしばり、三つ編みにする、そんな髪型をしているせいか、小生意気そうな表情のせいか、幼く見える。年のころは十ほどか。その年齢のわりには、大人であるクライスを敬うそぶりなど一切見せなかった。
腰に手を当て、さも自分の方が偉いと言わんばかりに、少女は言う。
「あたしはポム。ただのポムよ」
で、あんたは。少女――ポムは続けた。
「あんたは、クライス・ロイスね。迷える画家さん」
なぜ、自分の名前を。クライスは不気味に思う。名前こそ有名かもしれないが、顔はほとんど知られていないはずだぞ?
「なぜ、あたしがあんたの名前を知ってるかって? それはね、あたしが」
――魔女さまだからよ。
それは、あまりにも信じられない言葉だった。
「魔女、だって……?」
そんなはずがない。クライスの知る魔女は、もともと人間だった者たちだ。名前を当てるなどという予知能力は持っていない。黒い服を着た黒魔女は占いをし、白い服の白魔女が万能の薬をつくる。それがクライスの知る魔女だ。
真っ赤なワンピースの上に、これまた真っ赤な外套を羽織った魔女など、見たことも聞いたこともない。
「君が魔女というなら、その恰好は何なんだい。白でも黒でもない色だと、どっちの魔女だか分からないじゃないか」
「あたしを、そこらへんの黒魔女や白魔女と一緒にしないでよね」
クライスの言葉に、ポムは憤慨したようだ。ふんと鼻をならして、ポムは言う。
「あたしは、紅魔女。だから赤い服を着てたっていいじゃない。だいたい白や黒なんて、地味なのよ、地味。赤が似合うんだから、あたしは紅魔女でいいのよ」
無理やりな理論だと、クライスは思った。だがたしかに、強気なポムには赤という色がよく似合う。もし彼女が色彩を持っていなかったとしても、クライスは彼女を赤の絵の具で描き表しただろう。
「それで、森も真っ赤というわけか」
「そうよ」
きれいでしょう。その言葉には、クライスも素直にうなずけた。美しいものはこの目でたくさん見てきたから分かる。絶景といわれる景色にも勝るとも劣らない。
ポムはクライスの態度にすっかり気をよくしたようだ。気の強そうな青い目が細められる。
「まあ、あんたの言うとおりね。見る目あるじゃない」
「僕は一応、芸術家だ。美しいものが何か。そんなことくらいは知っているさ」
「そうね」
はじめて、ポムはほほ笑んだ。花が咲いたかのような笑顔だった。
魅力的に笑う少女だ。クライスは右手が震えるのを感じ、それを押さえつけるために、ぐっと拳をにぎった。筆をもちたい、今この目が映し出しているものを描き下ろしたい。そう利き手が訴えかけてくる。
彼女のもの以上に美しいほほ笑みはない。だが、こんな表情だって十分に芸術価値があるじゃないか。
「クライス」
少女が、彼の名を呼んだ。
「何だい?」
「ほら」
おもむろに、ポムは手をあげる。そうしてクライスの顔を指し示した。
「笑えてるじゃない」
慌てて自分の顔に手をやり、クライスは気づく。知らないうちに、彼の口角が上がっていた。
――この自分には、まだ笑える力が残っていたのか。
「それが、生きてるって証拠よ」
クライスの心が分かったかのように、ポムは言った。傲慢な態度こそ崩さなかったものの、彼女の言葉はクライスの心にじんわりとしみた。
ポムは続ける。
「あんたの心は死んでない。死んでないんだから、体の方も死ぬ必要がないでしょう?」
あたしには、何でもわかっているのよ。ポムは不敵にほほ笑んだ。
「あんたがちゃんと生きられるように、あたしが何とかしてやるわ」
2、
クライス・ロイスと名乗れば、たいていどこの宿でも歓迎してくれたものだ。絵を描いてくれと頼む者もいたし、有名画家が宿泊したというだけで光栄だからと、ただで泊めてくれた者もいた。とどまる場所はなかったが、世界のどこへ行っても仕事はあった。だから、クライスは生活に困ったことはなかった。
真実を描く天才画家――そう呼ばれ始めたのは何歳のときだったか。ものごころついたときから筆を手にしていた。多くの画家に師事し、何度も母国の絵画展で賞をとって、そうして世界へと旅に出た。それは十六のときだったが、そのころにはすでに、クライスは有名だったのだ。だから、いつ〝天才〟になったのか、クライスはまったくおぼえていない。
絵を描くことが好きだった。それと同じくらい、美しいものを眺めることが好きだった。
クライスは美しいと思ったものを、あるがままに描く。本物とそっくり――いや、本物そのものをクライスは紙の上に、絵の具だけで表した。人々はそれを見ると口をそろえて言う。美しい、と。
美しいものはまだ他にもあるはずだ。クライスは旅を続けた。本当に心の底から惹かれるものを探して。
* * *
彼はそのとき、二十をとっくにこえていた。
「ここの風景を描いているの? とても上手ね」
褒め言葉に舞い上がるような年ではなかった。これまでに称賛は数えきれないくらいに聞いてきたので、どう対応すればいいのか、クライスは心得ていた。
「……ありがとう」
適度な笑顔をつくりクライスは、絵を覗き込んできた女性に礼を返す。それですべてを終わらせるつもりだった。キャンパスに視線を戻そうとして――彼ははっと気づく。
「わたしも、この町の自然は美しいと思うわ。だけどね」
太陽の光を受けて、彼女の金髪がきらめいた。そして、それよりももっと輝きを放っていたもの。
――これは。
彼女の顔を見た瞬間、クライスはある観念にとらわれた。
――これこそが……!
彼女は続けて言う。クライスの目をまっすぐに見つめて。
「本当に美しいものって、目に見えるものなのかしら」
わたしはあなたみたいに、絵のことには詳しくないからわからないけど。彼女はつぶやいた。
「そういうものを、他の人にもわかるように描きあらわすのが、画家なんじゃない?」
彼女の名は、シェリーといった。
今までのクライスの人生において、唯一彼の芸術心をとりこにした女性であり、唯一彼が心から愛した人――それがシェリーだった。
3、
あなたの望むことは分かっているわ。ポムは言った。
「あたしが何とかしてあげる」
「何とかって……君はまだ、子供だろう!」
芸術を知らない子供に何ができるのか。クライスはポムの自信満々な態度をいぶかしく思う。二十年以上、芸術家として絵に触れてきた自分すらもわからないというのに。
「あたしには、わかるわ」
クライスの心を見透かしたように、少女は笑った。そして「リコル」と、クライスの知らない名前を呼ぶ。
「あれを持ってきて。いちばんおっきなやつね」
大丈夫、あたしに任せなさい。青い目がそう語った。自信に満ちたその色に、クライスはもう何も言えない。
――この子は、本当に子供なのか?
傲慢な子供に見せかけただけの、老人ではないのか。ポムの目は、まちがいなく多くのものを見てきた目だ。二十八年の時を重ねただけでなく、世界各国をまわったはずのクライスよりも、青い目は多くを知っている。クライスは悟った。
他の魔女と違うわけだ。いや、自分が今までに見てきた魔女は、ほんとうの魔女ではなかったのだ――。
そんなとき、別の声がクライスの思考を遮る。
『持ってきたぜ、ポム!』
「ありがとう、リコル。これなら、彼もいっしょに飛べるわ」
声の方を見て、クライスは目をむいた。
「……猫が、しゃべった?」
ポムの隣には、真っ赤な毛並みを持った小さな猫がいる。背中に巨大なほうきをのせているせいで、押しつぶされそうだったが。それはたしかに猫だった。
使い魔。その文字が頭をよぎる。力のある魔女が使役するという、異類のもの。
「ああ、驚いた? この子はリコルよ。あたしの相棒」
『そういうことだ……って早くこれを受け取れ! 重くてしょうがねえ!』
「はいはい、わかったわよ」
面倒くさそうにポムはほうきを、軽々と持ち上げた。背丈の二倍はあると思われる長さのものを、だ。何か怪しい術を使ったのか。クライスはポムを観察してみたが、まったく分からない。
「そういうことだから、クライス。乗りなさい」
「……え?」
何の冗談か。
「まさか、これで空を飛ぼうなんて言うんじゃないんだろうな?」
「そうだけど。何か問題でもあるの?」
ポムはぴしゃりと言った。そうしてほうきの柄の先端にまたがる。赤猫リコルもそれに続いた。
「ほら、早くしなさいよ。あたしの力がないかぎり、あんたは一生この森から出られないんだからね。身の程をわきまえなさい」
ほうきで、空を飛ぶ。まるでおとぎ話に出てくる魔女みたいだ。クライスは思って、それからすぐに訂正する。そうだ、彼女は魔女だ。
おそるおそるクライスは、ポムの後ろの柄をつかんだ。こうなったら、もうやけだ。彼は勢いよくほうきに飛び乗る。
「そう、それでいいわ。ぜったいに手をはなしちゃだめよ」
次の瞬間、クライスの体は宙に浮いていた。
「ぽ、ポム!」
「いい、クライス? あたしがいいって言うまで目をつぶっていて」
ポムの言葉に従わないわけにはいかなかった。というより、彼女に言われるまでもなく、クライスはかたく目をつむっていた。地面から足が離れると、これほどまでに体を頼りなく感じるのか。クライスは思い知らされる。空を飛ぶという初めての体験は、クライスの想像以上に怖いものだった。
「目をあけて、クライス」
しばらくしてポムが言った。
「大丈夫。手を離さないかぎり落ちたりしないわ」
その言葉に、クライスはおずおずと目をあける。そのまま大地を見下ろして、彼は仰天した。
「ここは……!」
「そうよ。あなたの村。わかるでしょう?」
クライスは飛んでいた。“彼女”と長い時を過ごした、大切な思い出の家の上を。
――シェリー。
久しぶりに戻ってきた我が家を前に、クライスはそっと愛する人に思いを馳せる。
シェリー。いちばん愛した笑顔を心の中に思い描こうとして、急にクライスは哀しくなった。思い出したくても思いだせない、最高のほほ笑み。それはいったいどんなものだったのだろうか。
やっぱり、自分には――描けない。
4、
地に降り立つと、ポムはクライスに断りを入れるわけでもなく、ずかずかと彼の家に入りこんだ。
「ふうん。仕事場と生活の場が同じになっているのね」
小さな煉瓦造りの小屋。クライスが安住の地と決めたこの家は狭い。我が家に足を踏み入れた瞬間、クライスは出ていく前とまったく変わっていない光景に愕然とした。
「これが、あんたの悩みってところのようね」
ポムは早々に気がついたようだ。画材道具が散乱した部屋の中から、キャンバスを見つけ出す。クライスはそれを見せつけられ、またもどかしい思いに駆られた。
――シェリー。
ポムよりも巨大な画布には、金髪の女性が描かれている。構成・色づかいとともに完璧なその絵には、ただひとつだけ欠陥があった。
『顔がねえぞ。この絵』
ポムの頭の上に乗ったリコルが、絵を見下ろして言う。
『そういう絵なのか? 人間』
「いや……違う」
クライスは力なく、否定した。
「描けないんだ。彼女のいちばんうつくしいほほ笑みが」
クライスの絵には、何度も描きなおしたあとが残っている。描こうとしなかったわけではない。
今までにもたくさん彼女の顔は描いてきた。それなのに、この絵だけはどうしても、完成させることができない。
「もう本物を見ることができない、か。この人は奥さんよね、クライス?」
ああ。小さく彼は答えた。
「半年前に、はやり病で死んだ妻だ」
部屋の中には金髪と碧眼を持った女性の絵ばかりが飾ってある。彼女と出会ってからずっと、クライスが描いてきたものだ。そのどれもが、やわらかな笑みを浮かべている。
「あなたはいつも、彼女を見て描いていたのね」
ポムは納得したようにうなずいた。
「真実を描く画家――本物が目の前になければ描けない。そのことに対する皮肉よね」
「……そうだな」
ポムの言うとおりである。
「さんざんもてはやされてきたけれど、結局はそういうことさ。描きたいのに、もう僕はいちばん美しいシェリーを描けない」
今までに描きためた絵を参考にしても、駄目だった。
「シェリーを描くのは、これが最後だって決めたのに」
彼女がいなくなり、これからの未来に向き合うことができなかった。そんな自分に蹴りをつけるために、この絵は絶対に完成させばければならない。クライスはかたく信じていた。
「……ポム。君はほんとうに、どうにかできるのかい」
藁にもすがる思いだった。
赤毛の魔女は、部屋一面に飾られたシェリーをじっと見つめている。
「ねえ、クライス」
「どうかしたのか?」
「彼女。とても、うつくしいわ」
そう言って、くるりとクライスの方に向き直った。
「けっして美人ではないけれど、彼女はきれいよ。クライス。たしかに、あなたはいい感性をしている」
とくにあの絵――あの絵は、どんな天才だって、あんた以外の者には描けないわ。
ポムは愛嬌のある笑みを浮かべる。
「だいじょうぶ。あなたには描ける」
もう一度、外に出て。ポムは呆然としているクライスに告げた。
「まずは戻るのよ。原点に」
5、
君の絵を描かせてくれ。そう言うと、彼女は驚いたように目を見開いた。
「ど、どうして、いきなり……」
驚愕するのも、無理はない。クライスは今まで、風景画しか描いたことがなかったから、巷でも風景画家として扱われていた。美しいものは、自然の風景にしかない。そう信じていたクライスは、それ以外の絵を描くつもりはなかったのだ。彼女に出会うまでは。
「君は、うつくしい」
単刀直入に、クライスは告げた。
「絵にする価値が、十分にある」
「わたしが。うつくしい、ですって?」
彼女は信じられないとばかりに、肩をすくめる。
「この町を探せば、きれいな子なんてたくさんいるわ。よりによって、このわたし? 自分で言うのも悔しいけど、鼻は変な形だし、そばかすだらけだし……だいたいわたしは、太ってるのよ?」
不細工とは言われたことはあったわ、でも、うつくしいだなんて。あなた、どうかしてるんじゃないの。
たしかに、彼女の容姿はお世辞にも美人だと呼べるものではなかった。
だが、クライスの言う〝うつくしい〟は、そういうものではない。
「君は気づいていない」
彼はまっすぐ彼女に向き直った。戸惑いの色を帯びた青い目と、視線がかちあう。
――やっぱり、これだ。
クライスははっきりと悟った。自分の感覚に間違いはない、と。
「いいかい、君――ええと」
「シェリーよ」
「じゃあ、シェリー」
彼女が何者だろうと、そんなことは関係ない。たとえ初めて会った人だとしても、絵のためには常識などかまっていられなかった。
「君は、本当に美しいものは目に見えるのかと言ったね。そういうことさ」
「そういう、こと……?」
「そうだ」
まずは黙って僕に絵を描かせてくれ。クライスは懇願する。
「君のおかげで何が本当に美しいのか分かったんだ。そして君はちょうどそれを持っている」
それが彼女との人生のはじまりだった。
* * *
原点に戻る――ポムは言った。原点? 原点とはどこなのだろうか。生まれ故郷か、それとも絵を描き始めたころに住んでいた家? もしくは旅立ちを決意した町か。
「違うわ」
ポムは、ほうきにクライスを乗せて飛びながら叫んだ。
「そんな昔に戻る必要はないわよ! 原点っていったら、決まっているでしょ!」
うわあ、いつになく飛ばすなあ。リコルがポムの赤い上着につかまりながらつぶやく。
「あったりまえよ。この男に早く思い出させてあげなきゃ」
――奥さんが報われないでしょ?
「そういうことだから、クライス! あんた家に戻ったらすぐに、絵を描きなさいよ?」
そうしてポムは、クライスに下を見るように告げた。
「覚えているでしょう。ここを」
足の下には、壮大な草原が広がっている。一目見た瞬間、クライスは言葉を失った。茶の目を見開いて、眼下を凝視する。
原点。
ポムはほうきを操り、草の上に降り立った。呆然としているクライスを振り返り、ポムは自信満々に笑う。
「ここがあんたと奥さんが出会った場所。そうよね?」
何も答えることができないまま、クライスは草原を一歩ずつ踏みしめた。あのころと変わらない感触が、靴を通して伝わってくる。
辺りを見渡すと、緑の大地がどこまでもどこまでも広がっていた。ここへ来た最初は、この雄大な自然に心ひかれたのだ。
この風景を描いている、そのときに――。
「そうだ……シェリーはここで絵を描いていた僕に声をかけてきたんだ」
声に出してみると、あのころの記憶が少しずつよみがえってくる。
「そして僕は彼女に惹かれて――それで、絵を描かせてくれって何度も頼んで――」
ああ、そうだった。
「そして、あの絵を描いたんだ」
――あの絵は、どんな天才だって、あんた以外の者には描けないわ。
そうポムが絶賛した、シェリーの絵。
「やっと思い出した? クライス」
後ろからポムが問うてきた。
「風景画ばかり描いてきたあなたが、四苦八苦しながら初めて描いた人物画。それを描くときの気持ちが分かったかしら」
「ああ……なんで、こんな大切なことを忘れていたんだろうな」
ここにきて、ようやく分かった。
「目に見えない美しさをあらわす――いつの間に僕は忘れてしまったんだろう。せっかくシェリーが教えてくれたのに」
あら、いいのよ。紅魔女はすべてを認めるようにうなずいた。
「人間は忘れてしまう生き物だわ。それに、あなたはたくさん彼女の絵を描いた。描きなれてきたから、本来の描き方になってしまっただけ」
でも、今なら描けるでしょう?
ポムはほうきを手にとる。
「あなたが求めた彼女は、目に見えるものだけじゃない。ちゃんといたでしょう?」
ああ――。
クライスは、はっきりと肯定した。そして彼は言う。
「描きたい。今すぐ描きたい。早くこの思いを描きあらわしたい!」
6、
あいつは、そのシェリーっていう女を、絵の対象として愛していたのか?
ポムの肩の上で、赤い猫が問う。
『芸術家っていうのは、そういうふうでしか人を愛せないのか?』
「違うわよ、リコル」
ほうきの上で、のんびりとポムは答えた。
「彼はちゃんと、ひとりの人間として彼女を愛したわ。彼の絵を見ればわかるじゃない」
あれほど人間としての美しさを、絵で表現できる者は数少ないわ。だけどね。ポムは言う。
「彼女をいちばん美しく描けるのは、やっぱり彼しかいなかったのよ。それってやっぱり、愛の証拠じゃないかしら」
『ポム……お前最近、そういうの好きだなあ』
「ふふ。誰かを思ってる人を見るのって、しあわせだもの」
彼女は空を仰ぐ。
「彼はもう大丈夫ね。きっとうまくやれる」
絵と恋人。そのどちらも選べなくて、両方を自分の手から離さないようにした男なのだ。恋人を彼女の故郷から連れ出し、ずっと一緒に旅をした。それくらいのことができるのだ。心のもやがなくなった今、彼を阻むものはもうないだろう。
『そういやポム』
リコルがふとつぶやいた。
『報酬ってもらってないよな?』
「ああ、そのこと」
赤毛の魔女は、分かりきったことを、とばかりに息をつく。
「もらったわ。報酬なら、いつもよりたっぷり」
『え? 何を?』
「ふふ。内緒よ」
さあ、早く森に帰りましょう。ポムたちを乗せた巨大なほうきは、空のかなたへと消えていった。
ポムのほほ笑みだけ残して。
* * *
筆をおくと、クライスは椅子から立ち上がった。完成した絵を眺め、ひとりうなずく。
――シェリー。
頭の中で、彼は妻に呼びかけた。
――君も見ているかい? 空の上から。
彼女の絵が描けない。そう思った瞬間、彼は近くの森にある崖から飛び降りようとした。シェリーを描けないのなら、いっそ死んでしまおうと、その時は思ったのだ。
だが今考えなおしてみるとやはり、あの紅い魔女に助けられてよかったと心の底から思う。
――シェリー。僕はやっぱり絵を描かないなんてことできないよ。
彼は、心の中にたしかに存在しているシェリーに言った。
――だから、これからも美しいものを描き続けるだろう。もう描かないなんて決めたけれど、やっぱりいちばん美しいのは君なんだ。
それを許してくれるかい。声なき声で問う。
部屋の壁に掛けられた一枚の絵。草原に立ったシェリーはやわらかくほほ笑んでいた。曇りひとつない鮮やかな笑顔で、彼女はクライスを見つめている。
わたしでいいなら。
彼女ならこう言うだろうな、と彼は考え、描きあげたばかりの絵を見やった。
晴れ渡った空を背景に、シェリーはクライスに向かって手を広げる。その顔に浮かぶのは、クライスが何よりも愛したほほ笑み。
絵の中のシェリーと目が合い、彼はつられて笑みをこぼした。
やっぱり、君は美しいよ。シェリー。
これも全部あの魔女のおかげだな。クライスは、自分を家に届けるなり、さっさと帰ってしまった少女を思い浮かべる。
――シェリー。次に君を描く前に、ひとつだけ違うものを描かせてくれないか。
本物を見て描かなくたって、できるさ。彼女がその方法を教えてくれたんだから。
題名は――『紅い花』なんていうのはどうだろうか。
アー・ルリア。声に出してみて、はっとクライスは気づく。アー・ルリア――アールリア
おとぎ話にでてくるアールリアと同じじゃないか。
幼いころ母が聞かせてくれた夢物語。断片的にしか覚えていないが、たしかあの話は。
しあわせを届ける魔女、か。なるほど、そういうことだったんだ。
クライスは、ようやく納得した。あの紅い魔女の不思議な力を。
もしかしたらポムがあのアールリアだったのかもしれないな。そう考えて彼は顔をほころばせる。
――シェリー。聞こえているかい?
クライスはまた、心の声で呼びかけた。
僕は幸福というものを見つけてもらったみたいだ。ほんとうの君を描けることが、何よりも幸せなんだ、僕は。
はじめて描いたシェリー。たった今描き終えたシェリー。彼女たちは、先ほど見たときよりも笑っている気がした。
* * *
『これが、わたし……?』
『そうだ、ほんとうの君だ』
『わたし……こんなにきれいなの? ほんとうにわたし?』
ああ、と彼が答えると、彼女はクライスが描き上げた絵をまじまじと見つめた。
『たしかにこれは、わたしそっくりだけど……。なんでだろう。とても美しく見えるのよ』
『それが目には見えなかった美しさってやつさ』
クライスは言う。心の底からそう信じていた。だから彼女に告げる。
『これからも、ずっと君を描かせてくれないか?』
【 The End 】