番外編4 ヴァーン・ランデール4
夏休み直前の定期テスト最終日、ルーカスは俺にこんな風に言った。
「お前一年生が入学した次の日、ディランが『平民のデカい美人を見に行く』って走ってったとき、『嫌な予感がする』ってわざわざ令嬢科校舎まで行ってたよな」
「そうだな」
「あのときに惚れられたの?」
本気で悔しそうにするルーカスを鼻で笑う。それと訂正を入れる必要があった。
「アナベルは俺に惚れてるんじゃなくて、懐いてるんだよ」
アナベルが俺に向けているのは、子犬が飼い主に懐いているみたいな、純粋で真っ直ぐで健気な感情だ。
本当にそうだろうかと考え始めたのは、その日のテストが全て終わった後、アナベルが騎士科A組を訪ねてきたときだ。
「夏休み出かけませんか」と勇気を振り絞るかのように言ったアナベルはいつもの通り頬を染めていて、俺はそれを見るのが好きなわけだが――。
アナベルはべつに常に顔が赤いわけではない。校内で少し離れたところから見かけたことは何度かあるし、他の生徒と話していても顔色は普通だ。
その日から頭の隅をずっとこの疑問が陣取った。たまに思い出しては疑問が深まる。
動物園でアナベルが手を繋ぎたそうにしていたとき、俺が平民になると知ったから料理を練習し始めたと告白したとき、噴水の前で「まだ帰りたくない」と俯いたとき。
同時に、俺はどうだろうと考えた。
アナベルが手を繋ぎたいというなら繋いでやりたい。喜ぶなら何度でもデートに行けばいいと思うし、「可愛い」と口に出して伝えたい。
一週間と空けず顔が見たくなるから、剣術部の練習のついでにブタ美の小屋に行くようになった。
そうして夏休みは過ぎていき、最終日の前日にトゥロック家に足を運んだ。アナベルの夏休みの課題を手伝うためだ。
トゥロック家の使用人は全員ノリが良く度胸があって、総出で謎の作戦を仕掛けてくるほどだ。
おもちゃの蜘蛛を置いたり、突然窓を揺らしたりドアを閉めたり。
そのせいでアナベルはすっかり怯えてしまった。「多分使用人の仕業だ」と伝えても、突然窓が揺れたら怖いものは怖いだろう。
それに彼らのプランから無理に外れると、さらなる強硬手段に出られそうな嫌な予感があった。
結果夜中の零時に居間のソファで、俺はアナベルを寝かしつけた。アナベルはすぐにとろんとした目になって、最後は「おやすみなさい」と吐息だけで言って眠った。
今は俺の右腕を抱きしめ、俺の肩に頭を乗せて、すうすうと寝息を立てている。
「ラミさん、ジョンさん。そこにいますよね」
小声かつ周りに響くように言う。アナベルとソファに座ってからと言うもの、不自然に揺れる窓やら閉まるドアやら、イタズラはピタリと止んでいる。
返事を待ったが、家の中は変わらずしんとして誰かが来る様子はない。
ため息をつく。俺がアナベルを部屋まで連れていかなければいけないようだ。
俺にもたれかかって眠るアナベルはどこまでも無防備だ。少し思うところはあるが信頼の表れなんだろう。俺は絶対にアナベルを傷つけないから、その信頼は正しい。
だがそろそろ後戻りができなくなってきたなと感じる。俺とアナベルの感情云々ではなく、周りが外堀りを埋めようとしてくる。
そんなことを今考えても仕方がないので、思考を中断してアナベルに意識を戻した。
いきなり腕を引き抜いたら起きるかもしれない。少しの間何もせず寝顔を眺めた。
顔にかかっている髪の毛を左手でそっとつまんで耳にかけたり、肩から滑り落ちそうになった毛布をかけ直してやったりして待つ。
二十分ほど経つとアナベルの手が緩んだ。右腕をそっと引き抜く。腕を包み込んでいた体温が離れて、妙に寒々しく感じる。
アナベルの体を毛布で包み直して、肌には直接触らないようにしながら持ち上げた。そのまま少し様子を見る。幸いアナベルは深く眠っているようで、起きる気配はない。
ゆっくり静かに部屋を出て階段を登っていった。アナベルの部屋に入る前にもう一度ラミさんとジョンさんを呼んで少し待ったが、やはり出てくるつもりがないらしい。
諦めてそのまま部屋に入った。電気をつけなかったので月明かりだけで、薄暗い。
天蓋付きの大きなベッドにアナベルをそっと横たえる。すぐそばに巨大な絵画があって若干気まずい。
毛布をアナベルの下に敷く形になってしまったので、風邪を引かないように上にかける毛布を探した。
壁際、アナベルの奥にもう一枚薄手の掛け布団がある。
アナベルの体の横に手をつき、身を乗り出して掛け布団に手を伸ばしたときだった。
ギシッとベッドが小さくない音で軋む。俺はピタッと動きを止めてアナベルを見下ろした。
長い銀色のまつ毛に縁取られた瞼が震える。固唾を飲んで見ていると、瞼がそっと持ち上がった。
薄暗い中でもわかる青色の目が俺を捉え、アナベルはぱちぱち瞬いた。そして幸せそうな顔でふにゃ、と笑った。
「アナベ――」
口を開いた瞬間、伸びてきた両手が俺の首に回った。
ぐいっと引っ張られ、倒れ込んだ俺は慌てて両手をつき、片膝をベッドに乗せて自分の体を支えた。アナベルの上に倒れ込むのを危ういところで回避する。
「アナベル、ちょっと待――」
枕の上に広がる銀髪が目の前に見える。そのとき耳元で何かが聞こえた。
「すう、すう」
「……」
健やかなアナベルの寝息である。俺を抱きしめたまま、アナベルは再び眠っていた。
寝ぼけていたのだと理解して、そっと体を起こした。幸せそうに眠るアナベルを見下ろす。
心臓に悪い。思わず目頭を押さえて深いため息をついた。疲労である。
やっとのことで毛布を広げ、薄いそれをアナベルにかけると、アナベルは目を閉じたままままむにゃむにゃと呟いた。
「せんぱい」
「ん?」
反射的に返事をしたが、アナベルは変わらず眠っている。
寝言だと理解するまでに数秒を要した。またすうすうと寝息をたてるアナベルを見て思わず吹き出す。
「お前寝言でも俺を呼んでんのか」
丸いおでこに手を伸ばした。前髪をそっとよける。どんな夢を見て俺を呼んだのか、明日聞いたら覚えているだろうか。
「おやすみ、アナベル」
声を抑えてそう言えば、アナベルは眠ったまま少し微笑んだ気がした。
喜ぶなら何でもしてやりたくて、笑顔を向けられるとこっちまで笑えてきて、眠っているところもいつまでも見ていたい。
自分の客室に戻りながら考えた。
これは多分恋愛感情なんだろう。
しかしだからと言って俺は、アナベルに婚約を申し込んだりはしなかった。




