番外編4 ヴァーン・ランデール3
男子選抜競技の参加者たちが校庭から退場する直前、俺は運動着のTシャツに返り血がついていることに気がついてそれを脱いだ。
直後、アナベルのいる待機スペースの方が若干ざわついたのだ。
すぐさま目を凝らせば騒ぎの中心はまさにアナベルのようだった。遠目にもわかる真っ白な肌に――赤が見える。血だ。
目に入った瞬間に駆け出した。驚く周りには目もくれず、校庭と待機スペースの間を区切るロープを飛び越えた。
アナベルが顔を両手で押さえていて、肘に向かって血がつたっているのが見える。
「お前どうした? さっきの競技でどっかぶつけたか?」
覗き込んで鼻血だとわかった。アナベルはさっき『狩り』に出場していたなと思い出す。一通り見ていたが、怪我はなかったはずだ。
鼻骨や顔の他の部分に外傷がないことを確認しながら、誰かが差し出してくれたティッシュを受け取ってアナベルに持たせる。
「小鼻の辺りを抑えろ。ぶつけたわけじゃないんだな?」
もう一度尋ねるがアナベルの反応が薄い。視線が定まらず、俺の斜め後ろだとか上やら下やらを不自然に見ている。
顔がいつもに増して赤いし、そっと掴んだ腕も熱い。熱中症の可能性が高いなと当たりをつける。
「アナベル、保健室行くぞ。腕回せ」
疑問符を浮かべながらも、アナベルがされるがままに俺の首に手を回し、俺は右手に自分のTシャツを握ったままアナベルを抱え上げた。
数瞬呆気に取られていたアナベル。だがすぐに陸に打ち上げられた魚よろしく暴れて降りようとする。
「無理です! 無理です!」
「いやできてるだろ」
抱えられてから「無理」と主張するアナベルがよくわからず、しかしそんなことよりも早く保健室に向かったほうがいい。
周りが自然と道を開けてくれて助かった。アナベルは途中で諦めたらしく脱力した。鼻が塞がっているから口で息をしていて、背中も膝の裏も全身が熱い。
まだこちらを見ずにどこか遠くを見つめている姿に心配が加速する。できる限り早足で本校舎の保健室に向かった。
保健室には養護教諭と男子学生が一人いるだけだった。俺たち騎士科の生徒は保健室の常連だから、アナベルの看病に必要なものをテキパキと集める。
水を飲ませたり体を冷やしたりしている間に鼻血は止まったようだ。養護教諭と男子生徒は途中で出て行った。
「先輩、ありがとうございます。ちょっと顔を洗ってきます」
「おう」
アナベルはしっかりした口調で足取りで廊下に向かった。重症ではなさそうだととりあえず安心する。
アナベルを待つ間、Tシャツについた血を洗った。
途中で戻ってきたアナベルはなぜかそれをじっと見ている。
俺がTシャツを絞って近くに置くと、愕然とした様子だ。さっきからどうも様子が変だ。
「き、着ないんですか!?」
「濡れるだろ」
衣服にこだわりはないが、ビショビショのTシャツを着るのは嫌だ。
怪訝な顔でアナベルを見遣る。
「何か着るものもってないんですか!?」
「今日全員家から運動着着てきたろ。何もねぇよ」
「あっそうだ! 私のTシャツ着てくださ――」
「馬鹿馬鹿馬鹿」
腕を交差して自分のTシャツの裾を掴んだアナベルは、俺が止めなかったらそのままTシャツを捲り上げていただろう。
唐突な危機に心臓がバクバクする。食い止める手が間に合ってよかった。
「何か探す、探すから。ソファに座ってろ。そこを動くな」
腕を引いて誘導すると、アナベルは渋々ソファに腰掛ける。やっぱりどこか変だ。もう少し休ませようと考えながら引き出しをいくつか開ける。
見つけた黒いTシャツに袖を通してガバリと着終えた。アナベルの隣に座る。
このまましばらく休んでアナベルがもう少し回復するのを待って、今日はそのまま馬車まで送ろうと考える。
しかし。
「先輩、迷惑かけちゃってすみません。ありがとうございました。戻りましょうか」
「は?」
やっとこちらを見たアナベルが俺に頭を下げてから立ち上がるから、手首を掴んで引き戻した。
さっきからどうも様子がおかしいアナベルを校庭に戻して、また日を浴びたら今度こそ体に障るかもしれない。熱中症は甘く見ないほうがいい。
それに俺はただここでアナベルの様子を見ただけで、迷惑なことなどない。
「また熱中症ぶり返したらどうすんだ。もっと休め。ここにいろ」
アナベルが立ち上がろうとしないのを確かめてから手を離した。
するとアナベルはぐっと言葉に詰まり、明らかに何かを悩み始めた。
眉を寄せて目を閉じ、口をへの文字に引き結び、何も喋っていないのに葛藤がありありと伝わってくる。
優に十秒はそんなアナベルを眺めていた。かなり面白くて見ていて飽きない。
「……先輩」
何だか知らないが腹を括ったらしい。手招きされ、既にソファの隣に座っているが、肩が触れる直前まで距離を詰めた。
両手で作った覆いを口元に当てたアナベルは、耳元でそっとこんな風に囁いた。
「私、熱中症じゃないんです。先輩がTシャツを脱いで鼻血が出ただけなので、気にしないでください」
言い終わると同時、アナベルの顔がかーっと赤くなっていく。
少しだけ俯いてもじもじするアナベルを眺めつつ、今の言葉の意味を考えた。が、わからない。
「俺のTシャツとお前の鼻血に何の関係があんだ」
「その、先輩がTシャツを脱いだから鼻血が出ただけなんです」
「だからなんでだよ」
アナベルが一生懸命言葉を探しているのはわかるし、できればわかってやりたいが、さっぱり理解できない。
みるみる顔を赤くしていたアナベルはついに限界を迎えたらしい。泣きべそをかく直前みたいにこう言った。
「だから! 先輩の上裸に興奮して鼻血が出ただけなんですってばっ!」
アナベルがわっと顔を手で覆い、俺は言葉を失う。羞恥に悶えているらしいアナベルは耳まで真っ赤だ。
「令嬢がそんなこと言って大丈夫か?」という心配と、「そんなことで鼻血出るって俺のこと好きすぎないか」という呆れと、あと何だかよくわからない、名前のつけられない感情も胸に広がった。
勝ったのは呆れだった。
「お前……」
「はい」
「本当に俺のこと好きだな……」
「だいすきです」
アナベルは当然のごとく頷いて、くぐもった声で肯定する。
「まあ熱中症じゃねぇなら良かった。鼻血出したのは事実なんだし、やっぱりもう少し休んでから行けよ」
わざわざ校長の話を聞きに戻る必要はない。俺とここにいればいい。
そう思って伝えると、アナベルは両手を下ろして顔を覗かせた。
視線をやると真っ赤な顔で目を逸らす。最近赤面するアナベルを見ていると楽しいというか、妙な心地になる。この感情にも名前がつけられない。
その後はしばらく保健室で過ごして、アナベルを馬車まで送り届けた。
そして夏休みに入る直前、転機が訪れた。