番外編4 ヴァーン・ランデール1
文化祭が終わり、俺とアナベルが婚約者になってから二週間。
朝の図書室の自習スペースで、俺たちは教科書を広げていた。
テスト前になってから一気に勉強を教えるのではなく、普段から定期的に教えることにしたのだ。
朝の図書室は他に誰の姿もなくシンとしている。
一生懸命問題と向き合っているアナベルの横顔を眺めていると、ペンを置いたアナベルがこちらを向いて、パッと顔を輝かせた。
かんざしで一つに纏めた後ろの髪が動きに合わせて揺れている。
「先輩、できました!」
「おう、偉いな。答え合わせするから待ってろ」
「はい!」
アナベルは最近俺と二人でも勉強に集中できるようになった。『ご褒美作戦』の効果だ。
アナベルが三十分集中して勉強に取り組めたら、俺にやってほしいことを言い、俺はそれを叶える。
答え合わせを終えるとちょうど三十分が経過した。ペンを置いて教科書も閉じる。
「今日は何がいいんだ?」
尋ねれば、隣に座っているアナベルは俯いてじわじわ顔を赤くした。
前回は「放課後デートに行きたい」で、その前は「ハグしてほしい」。今日は何が来るか予想していたら、アナベルが意を決したように顔を上げた。
「その、ルーカスさんに『きっと面白いからヴァーンに聞いてみな』って言われたことがあって」
「ルーカスに?」
腐れ縁の名前に若干警戒する。耳まで赤くなって、アナベルはこう言った。
「先輩は、いつから私のことが好きだって気がついてましたか?」
いつから好きだったかは前に話したが、その自覚はいつからあったかということだ。
「あー……いつだ?」
自分の感情に疎いせいか即答できない。記憶を探りつつ、「ちゃんと答えてやらないとな」と頭の端で思った。
隣でアナベルがそわそわとこちらを見つめ、俺の言葉を待っているからだ。
俺は腕を組み、アナベルと初めて会った四月の記憶を引っ張り出した。
***
「平民のデッカい美人を見に行ってくる!」
二年生になってすぐの昼休み、騎士科A組の教室にて。
クラスメイトのディランはそう叫ぶが早いか、廊下を全力疾走してあっという間に姿を消した。
俺はディランが出て行った後の教室のドアを見ながらガシガシと頭を掻いた。
「おいルーカス」
近くにいた男に声をかける。騎士の正装である簡素な鎧を脱ぎつつ、ルーカスが俺に目をやった。
「令嬢科校舎に行ってくる。次の時間までに戻って来なかったらカーチェス先生に言っといてくれ。ディランもだ」
「別にいいけど、ほっといても平気じゃねぇの?」
「嫌な予感がすんだよ」
「ふうん。りょうかーい」
ルーカスが手をひらひら振り、俺はディランを追いかけるようにして騎士科校舎を出た。中庭を少し歩いて、令嬢科校舎に到着する。
ここに用があることなどまずないから初めて入ったが、構造は騎士科と同じのようだ。
『平民のデッカい美人』――昨日の入学式一日だけで、その美貌の噂が騎士科まで轟いたトゥロック商会の一人娘は、令嬢科の新入生のはずだ。
階段を三階まで上っていけば、思った通り、女子生徒に紛れてディランの後ろ姿を廊下で発見する。
「おいディラ――」
「うわ、すげ、デカ女」
俺が声をかけるとほぼ同時にディランが言った。ただし声量はディランの方が上だった。
直後、ディランの見つめる先で、一人の女子生徒がぴたっと足を止めた。
こちらに背を向けていて顔は見えない。ただ、背中の途中まで真っ直ぐ伸びている銀髪と、彼女の姿にぼーっと見惚れる周りの女子生徒たちの様子でわかった。
――彼女が例のトゥロック商会の長女だ。
ほんの少し足を止めた後、その女子生徒はディランを振り返ることなく、また歩き出した。
俺はその間つかつかと後ろからディランに歩み寄っていた。拳を握りしめ固く尖らせて、その頭頂部にゲンコツをお見舞いする。ゴチンと良い音がした。
呻いてしゃがみこんだディランの首根っこを引っ掴む。
「全く、騎士の風上にも置けないやつだな」
呆れて呟いたとき、視線を感じて顔を上げた。
例の女子生徒が振り返ってこちらを見ていて目が合った。「『噂に違わぬ』ってやつだな」と頭の端で考える。
肌は均一で白く、不思議そうにぱちぱちと瞬く瞼から覗く瞳は青色。人の美醜に興味がない俺でも、彼女が恐ろしく整った顔立ちをしていることは察せられる。
騎士科に届いていた噂は「人生で見たことがないレベルの美人」「女神か妖精かと疑うほど」という眉唾物だったが、間違っていなかったらしい。
しかし女子生徒の美醜は今問題ではない。問題はその瞳がうっすらと涙に濡れていることだ。ディランの心無い言葉のせいで間違いないだろう。
「一年生か? こいつがごめんな。礼儀知らずで配慮に欠けてて、しかも頭が悪いんだ」
ディランがわざわざ噂を聞いて確かめに来たことを知らせるのもどうかと思い、咄嗟に女子生徒について何も知らないフリをした。
「ひでぇぞ」とかなんとか文句を言うディランは、俺が空いている方の拳を握り締めた途端ピタッと口を閉じた。これでも騎士科で上位の実力者だ。
そうする間にも、女子生徒からの返事はない。なんだか目を見開いて――俺を見ている。理由がわからず首を傾げた。
「おい?」
声をかけるとハッと我に返ったようだ。頬に赤みが差す。
「あっえっと、大丈夫です!」
あわあわと両手を振る様子には随分人間味がある――人間なんだから当たり前だが。
女子生徒は少しだけ困ったような顔をして、それでも口角を上げてそっと微笑んだ。
「本当の、ことですので」
その瞬間、心臓にちくりと針が刺さるような心地がした。
これまで何度も傷ついて、傷ついていないフリをするのが最善だと悟ったのだと、何となくわかる微笑みだった。
すぐさまディランの頭に二発目のゲンコツを入れる。こいつが与えた心の傷はゲンコツ一個分では足りない。
「イテッ! またかよ!」
「何か言うことあんだろ」
涙目で頭を押さえるディランを見下ろしつつ女子生徒を顎で指す。
ディランが口を尖らせて謝罪し、女子生徒の涙が引っ込んでいるのを確認した。
抜け抜けと再びナンパを試みるディランを追い返した後、俺も騎士科校舎に戻ることにした。
だが例の令嬢が俺を呼び止めた。
「き、騎士科の方ですよね」
こちらを見つめる彼女を振り返る。少し考えてから向き直って右手を差し出した。
「俺はランデール男爵家のヴァーン・ランデール。二年生だ。よろしく」
「アナベル・トゥロックです! トゥロック商会の長女です。アナベルって呼んでください」
俺の手をそっと握り返し、アナベルはふわっと笑顔になった。
こちらが男爵家の人間だと知っても態度が変わらない。
あのトゥロック商会の一人娘ということで、彼女が我儘だったり高飛車だったりする可能性も考えていたが、そんなことはなさそうだ。
噂では「孤高の美人」らしいが、周りが近づいてこないせいで友人ができないことに困っているのかもなと思い当たる。
俺を呼び止めて話しかけたのも知り合いを作りたかったからかもしれない。
「貴族ばっかりで嫌な目にも遭うだろうが、校内は階級を取り払ってただの学友同士って決まりだからな。あんまり気にすんなよ」
男爵家の俺は貴族ではあるがアナベルに立場が近い。思いつくままいくつか助言すれば、アナベルは一生懸命頷きながらフンフンと聞いていた。
そのまま少し話した後、予鈴が鳴ったタイミングで別れた。
飛ぶように走って騎士科校舎まで戻る。教室で鎧を脱ぎ終わって片付けたとき、ちょうど担任のカーチェス先生が入ってきて本鈴が鳴った。
前の席に座るルーカスが俺を振り返って小声で言う。
「ヴァーン、どうだった?」
「何が」
「決まってるだろ。『平民のデッカい美人』だよ」
「ああ」
促されてアナベルのことを思い返す。
ディランの言葉に傷つきながら無理に笑おうとしていた姿。俺の助言をなんとか覚えようと奮闘していたときの仕草。頬を染めてはにかむときの表情。
上手い言葉が見つからない。たっぷり数秒考えてから、なんとか言葉を捻り出した。
「……健気?」
自分でもわかる、妙な感想だ。
ルーカスはきっと思い切り眉を寄せて「はぁ?」と口にするだろうと思ったが、予想は外れた。
俺の言葉を聞いた瞬間、ルーカスは信じられないものを見たかのように目を見開き、続いてじわじわと口角を上げ始めたのだ。しかも何も言わない。
「なんだよ」
「いや、別に?」
ついに明確にニヤニヤ笑うと、勝手に話を終わらせて正面に向き直った。
***
「そうだ。最初はアナベルのこと、健気な奴だなって思ってた」
俺が瞑っていた目を開けて言うと、アナベルは「健気?」と呟いてこてんと首を傾げた。
頷きつつ、さらに今更気がついたことがあった。
「多分ルーカスはあのとき勘づいてたんだな。俺がアナベルに惚れるって」
納得しつつ言う。アナベルの白い肌が桃色に染まるのを眺めながら、春の出来事をもう少し思い出すことにした。
***
続きます。
誤字報告ありがとうございます、とても助かります!




