番外編3 クリストファー・ピアース
心臓がバクバクと早鐘を打っている。僕――クリストファー・ピアースはタキシードの上から左胸を押さえた。
僕が今いるのは貴族学校本校舎のダンスホール。文化祭二日目の夜、全校生徒とその家族も参加可能な後夜祭が開かれていた。
視線の先にいるのは世にも美しい女性。令嬢科一年のアナベル・トゥロックさん。
ファッションショーの三着目だったウェディングドレスに身を包んだ彼女は、全男子生徒の憧れの的と言っても過言ではない存在だ。
そのアナベルさんに突然婚約を申し込んだ無礼な男は――レイトン・フォーサイスと言って、こちらも有名人だった。名門フォーサイス侯爵家の嫡男であり生徒会の一人だ。
僕だけでなく後夜祭に参加している人間は全員ステージ上の二人に注目している。
話の流れから察するに、フォーサイスはトゥロック商会を潰すと脅してアナベルさんを手に入れようとしているようなのだ。
すぐにヴァーン・ランデール先輩が助けに入ってくれると思っていたが、そうはならなかった。
きっと彼は今この会場にいないのだ。そうでもなければ、アナベルさんのことを誰よりも大切にしている彼がこの危機を放っておくはずない。
この騒動が始まってからというもの、僕は迷っていた。高位貴族でしかも跡取りだからこそ、一人で戦うアナベルさんのためにできるかもしれないこと。
心臓がバクバクと音を立てる。脂汗が滲んだ。
アナベルさんは今ステージの上で、レイトン・フォーサイスが差し出す手をじっと見つめている。あんなに静かな彼女は見たことがない。
そのとき脳裏に蘇ったのは、数ヶ月前の体育祭での出来事だ。
実は僕は確か入学の一ヶ月後、五月の頭くらいにはアナベルさんの存在を認識していた。
「人生で見たことがないレベルの美人」、「女神と見紛うほど」、「服飾研究部期待の新モデル」。
入学以来度々耳にする噂を確かめようという令息科の友人に付き合って、放課後の本校舎で彼女の出待ちをしたのだ。
そうして偶然を装ってすれ違ったアナベルさんに、僕は目を奪われた。
背中までの銀髪は艶やかで、彼女が歩くたびサラサラと揺れる。肌は真っ白で傷ひとつなく、積もりたての雪を思わせた。
歩きながら隣の赤毛の女子生徒に話しかけてはふわっと笑顔になる。
何よりその長身とスタイル。
幼い頃から母のステージを見てきた僕は、彼女の美しさに見惚れると同時に――心の底から恐怖した。
母のエレナ・ピアースは見た目と裏腹に『肝っ玉母ちゃん』だ。幼い頃から母に勝てた記憶は一つもなく、悪さをするとお尻を叩かれた。
母の知り合いのモデルたちも、美しさとそれ以上の強さを兼ね備えた女性ばかりだ。
アナベルさんも『服飾研究部』のモデル。
――きっと、とんでもなく気が強くて苛烈な性格に違いない!
友人はすっかり彼女にのぼせ上がっていたけど、僕は恐怖を抱くようになった。
そうして勝手にアナベルさんを怖がったまま時間は過ぎて、体育祭の季節。
僕は紅組になったがそれはどうでも良かった。一年男子競技の『射撃』は得意分野で活躍できそうだったけど、それもどうでも良かった。
唯一の関心は体育祭開幕の『舞踏』――若き貴族たちの品定めイベントだ。
僕の両脚にピアース家の名誉と未来がかかっている。僕がしくじれば先祖に加えて子孫も迷惑を被り、それどころか二つ年下の弟に次期伯爵の座がいくかもしれない。
来る日も来る日も練習に明け暮れて睡眠不足となり、眠ると『舞踏』でしくじる夢を見るせいでノイローゼ気味で、本番直前までステップの練習をして、ついに本番を迎えたそのとき。
ペアの女性がアナベル・トゥロック嬢だった絶望がわかるだろうか?
校庭の真ん中、他の生徒たちに囲まれて彼女と顔を合わせた途端、胃の中のものがせり上がってきた。
クラクラして視界が揺れる。口を手で覆う。
逃げたい。気持ち悪い。――怖い。
気がついたら僕は踵を返し、死に物狂いで走っていた。
校庭を囲むロープを潜り、観客をかき分け、ほんの一瞬だけアナベルさんを振り返った。でもまたすぐに走り出した。
校庭の端に設置されているトイレを目指して走る途中、前から二年の男子生徒が走ってきたことには気が付かなかった。
「これ借りる」
すれ違い様にそんな声が聞こえた気がする。気にする余裕もなく、そのままトイレに駆け込んで個室に入る。
崩れ落ちるみたいにしゃがみこみ、蹲って膝をかかえる。汗がこめかみから鼻を伝って床にシミを作った。
校庭に戻らないと。なんてことをしてしまったのだろう。アナベルさんは何も悪くないのに。とんでもない恥をかかせてしまった。
ぐるぐると考え込んで鼻を啜ったとき、校庭がざわざわと騒がしいことにやっと気がついた。
――アナベルさんに何かあったのかもしれない。
ふらふらと個室から出る。トイレには窓があって、そこから校庭の様子が見えた。少しだけ背伸びをして騒ぎの原因を探す。
「……あ」
みんなの見つめる先、アナベルさんは一人ではなかった。
既に音楽はスタートしていて、どのペアもステップを踏んでターンをする――のではなく、アナベルさんとその相手だけが、好きなタイミングでターンをして楽しそうに踊っている。もはや一組だけ違う踊りだ。
運動着の胸元をギュッと握りしめて、番号のバッジがないことにやっと気がついた。あの男子生徒が持って行ったのだ。
男子生徒はアナベルさんより背が低く、多分僕よりも小さい。そんな彼を見つめて踊るアナベルさんはとても幸せそうだ。
「良かった……」
力が抜けてしまい、その場にへなへなと蹲って泣いた。
さっき校庭から逃げだして、一瞬だけ振り返ったとき、アナベルさんは憤怒や屈辱の表情ではなかった。
ただ驚きをその顔に浮かべていた。
僕が不幸にした優しい女性に、幸せにしてくれる人がいてくれて本当に良かった。
「クリストファーッ!」
どこかから怒鳴り声が聞こえて、怒髪天をついた母が僕を探しているのだろうと容易に予想できた。
グッと力を入れて立ち上がる。手と顔を洗ったらトイレから出て、母の元へ向かおう。アナベルさんに謝り、あの男子生徒にお礼をする方法を考えなければならない。
そして、もしいつかアナベルさんに何らかの危機が迫ったときは。
僕はそのときこそ勇気を振り絞って、きっと彼女の助けになってみせよう。
そう胸に刻んだ、あの体育祭の日を思い出す。
グッとお腹に力を入れる。「自分はヴァーン・ランデールだ」と自分に言い聞かせた。アナベルさんを幸せな笑顔にできる、男前な騎士科の先輩。
「はいっ!」
出来るだけ高く手を突き上げた。震える足を叱咤して、集まる視線を受け止める。
「我がピアース伯爵家は、全面的にトゥロック商会を支援します!」
アナベルさんと、ランデール先輩。
あの日の贖罪と恩返しを、きっと今してみせる。