番外編1 アラン・トゥロック
研究がひと段落して余裕ができた六月のことだ。
俺――アラン・トゥロックは、両親と兄貴と共に、妹アナベルの学校行事を見にきていた。
「相変わらず俺たちの妹は目立つなぁ、アラン」
「そうだな」
兄貴が感心したように言い、俺が頷く。
今日は体育祭だそうで場所は屋外だ。この貴族学校とかいう学校は随分羽振りがよく、仮設の観客席には日差し除けがついている上、座り心地も良い。
真ん中の校庭がよく見えるよう、後ろに行くほど高くなっている。
その最後列に座る俺たち家族の視線の先には、他の一年生女子の混ざって校庭に入っていくアナベルの姿があった。
あいつは身長が周りより頭ひとつ分高い。その上我が妹ながら随分綺麗な顔に生まれてきた。
今もその目立つ容姿に周りの観客たちが注目してざわついている。
もっとも俺と兄貴にとっては、いつまでも何をしでかすかわからない泣き虫の妹だが。
俺の左隣で母親が、オペラグラスを目元に当てながら弾んだ声を出した。
「あの子運動はてんで苦手だけれど、ダンスはとても上手だものね。とっても楽しみ」
兄貴が相槌をうつ。俺は他の女子生徒たちと等間隔に距離を取るアナベルを眺めた。
今から始まるのは『舞踏』とかいう種目だ。要は集団社交ダンスらしい。
母の言う通り、アナベルはアホだが音楽や美術といった芸術方面には比較的才能がある。リズム感のおかげなのかダンスも得意だ。
妹がまだ十歳だったとき、商会の取引先との夕食会で披露したソプラノの歌声を思い出して目を瞑った。
「アランお前、アナベルの歌を思い出しているんだろう?」
母の奥に座っている父親が身を乗り出し気味に尋ねてくる。
「まあな」
「羨ましい限りだ。私もアランくらい記憶力が良かったらなぁ」
父が心底悔しそうに唸ったとき、校庭中に地響きのような足音が響いた。見れば、一年生男子たちが一斉に移動を始めたようだ。
今から男共がそれぞれくじ引きでペアになった女子生徒のもとに向かい、ダンスを申し込んで、音楽に合わせて同時に踊り始める。
ここ最近アナベルがこの種目をやけに心配していて、練習にも付き合わされたから知っている。
「アランお兄ちゃんは身長高いけどダンス下手めだから練習相手にちょうどいい」と言われ、イラッとしたのを思い出した。
「あ、あの子がアナベルのペアじゃないかしら!」
母が声を上げ、アナベルに視線を戻す。確かに今、アナベルに向かって一人の男子生徒が真っ直ぐに近づいていき――アナベルの正面で立ち止まった。
わくわくと眺めていた母が少しして首を傾げた。
周りは既に腰を折って挨拶を始めているのに、その男はなぜか突っ立ったままだ。
「なんだあいつ? 早く――」
呟いたその瞬間、俺たちは信じられないものを目にした。
アナベルのペアの男子生徒が突然回れ右をしたかと思えば、転がるようにその場から逃げ出したのである。
俺が周りと同じようにぽかんと口を開けてそれを見ていたのは、ほんの数瞬の間だけだった。
「兄貴ッ!」
叫ぶと隣の兄貴がハッと我に返る。弾かれたように座席を立って観客席から飛び降り、その後ろに俺も続いた。
アナベルがダンス相手に逃げられた僅か二、三秒後、俺たちは既に駆け出していた。
「なんだよあいつ、クソ野郎が!」
「言うなアラン!」
思わず悪態が口をついて出て、兄貴に嗜められる。口を閉じて頭を回し、少し前にちらりと目にしたこの校庭の見取り図を記憶から引っ張り出した。
「俺はあのクソ野郎を追いかける! 兄貴はここで曲がってアナベルのところに行け!」
「わかった!」
家族といえど、生徒でもないのに校庭の中に入れるかがわからない。
アナベルの元へは兄貴一人で行かせて、俺はクソ野郎を説得してダンスに復帰させられないか試すのが最善だ。そのために先程からずっとクソ野郎の位置を目で追っている。
兄貴が頷き、二手に別れようとしたそのときだった。
俺の肩を兄貴ががしりと掴んだ。前につんのめって危うく転びかける。
「なんだよ!?」
「見ろ」
「ああ!?」
兄貴は足を止め、校庭のどこか一点を見つめていた。
そんな場合じゃない、アナベルが泣き出す前に早く行ってやらないと――喉まででかかった言葉を飲み込んで、既に荒れている息を整えながら兄貴の視線の先を追う。そのくらいにはうちの次代商会長である兄を信頼している。
校庭ではほとんどのペアが既にダンスを始められる姿勢になり、音楽が鳴るのを今か今かと待っていた。
アナベルは相変わらず、一人でおろおろして――。
「あ」
視界に飛び込んできたのは一人の男子生徒だった。
直線距離で校庭のロープを超えて走ってきたらしく、矢のように真っ直ぐにアナベルの元へ向かっている。
「足はや」
そう呟かずにはいられないスピードで、彼は瞬く間にアナベルの元へ辿り着いた。
落ち着いてアナベルに向かい合って腰を折り、ダンスを申し込んでいるのが見える。
そして次の瞬間、俺は呻いた。
男子生徒を目にしたとき妹が浮かべた、喜びを凝縮したみたいな満面の笑みを、俺はきっと生涯忘れないのだろうと確信したからだ。また妹に関していらない記憶が増えてしまった。
「ついにアナベルにも恋人ができるのか……」
思わずという風に隣で兄貴がぼやく。たしかにあの様子では、あの男が恋人になるのも時間の問題だろう。
「つーか駆けつけるのめちゃくちゃ早かったな」
「本当にね」
無事音楽が始まって『舞踏』がスタートしたのを見届けてから、おれと兄貴は観客席に戻り始めた。
「単純に走るのが早いのもあるけど、なんかこう、迷いがなかったね」
歩きながら兄貴が笑って言う。
たしかに、衆人環視の中アナベルの元に向かうことに一切躊躇いがなさそうだった。『舞踏』に参加していなかったということは他学年だろうに。
――もしかしたら、それだけ、妹のことを。
「大切にしてくれんのかね」
脈絡なく呟いたが、兄貴には伝わったらしい。なぜか俺の頭をクシャクシャかき混ぜ、背中をばんと叩く。
「きっと大丈夫だよ、俺たちの大切な妹は」
「だといいけどよ」
今も校庭に目をやれば、世にも幸せそうに笑いながらダンスをするアナベルと、それを愛おしそうに見つめる男子生徒の姿が見える。
近々会って直接話せたらいいと考えながら、俺と兄貴は観客席までの道のりを歩いて行った。