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全校生徒がダンスボールに集まっているから、扉が閉まると外の廊下は水を打ったように静かになる。
片耳を覆っていた手をやっと外して、すぐそばの先輩の顔を見上げる。
「こ、後夜祭サボるんですか?」
「嫌か?」
先輩がチラリと私に視線を落としたので、首を横に振った。彼はどこを目指しているのか、私を下ろさずにスタスタ歩いていく。
「先輩、その、いっいつから……」
いつから私のことを好きでいてくれたんだろう。
気恥ずかしくて最後まで言えなかったけれど先輩には伝わったらしい。
彼は少し考えるようにしてから、
「俺にもよくわかんねぇけど」
と前置きした。そして歩みを止めないまま私に――というより私の頭に目をやった。
「多分俺は好きでもない奴の頭は撫でねぇ気がする」
「え!?」
口元に手を当て、必死に記憶を探る。先輩に最初に頭を撫でられたのってかなり前じゃないだろうか。日記にちゃんと書いてあるはずだから家に帰ったら読み返そう。
そして思ったより前から好きでいてもらえていたことがわかり、心臓がバクバクうるさい。この心臓の鼓動はきっと先輩に伝わってしまっているだろう。
そのときはたと気づいたことがあって、私はがばっと顔を上げた。期待を込めておずおずと尋ねる。
「じゃ、じゃあ私たち、付き合うってことですか?」
「は? 違ぇよ」
彼は眉を片方上げて私を見遣った。そしてショックでかぱっと口を開ける私に、当たり前のようにこう言った。
「婚約すんだろ」
「婚約!?」
思ってもみなかった事態につい叫んでしまう。先輩の首に回した腕に思わず力が入った。
「は、早くないですか!?」
「いや普通だろ」
私の反応を不思議そうにしている彼を見て、やっと思い当たる。
貴族の間では平民と違って、「まず付き合ってそのあと婚約、結婚」という流れは一般的じゃないのだ。「初手婚約、そのあと結婚」が「普通」なのだ。
慌てて平民の「普通」を説明する。
「まずは付き合って、婚約は二年くらい経ってからするものなんです! 平民の間では!」
力説すると、案の定先輩は「何だそれ」と首を傾げた。いつのまにか本校舎を出て、誰もいない中庭をつっきって歩いている。
「なら聞くけど、婚約せず付き合ってる期間って何すんだよ」
「デ、デートとかキスとか……」
「そこまでするのに結婚するかはまた別って変だろ。俺はそういう中途半端は嫌なんだよ。お前が合わせろ」
「貴族の恋愛観だ……!」
思わぬカルチャーショックだ。初めて先輩を貴族だと実感したかもしれない。
「お前、俺以外と結婚する気あんのか」
「ないです!」
「なら尚更婚約でいいだろ」
「うーん……」
言われてみればその通りだけれど、『恋人期間』には『恋人期間』の良さがある気がする。もちろん婚約者期間にも新婚期間にもあるから、どれも余すことなく経験したいのが本音だ。
渋っていると、先輩が口を尖らせた。
「嫌なのかよ」
「そんなわけないですけどぉ!」
拗ねたように言う先輩の前に私はついに陥落し、折れることを決めてしまった。これからもこの顔をされたらなんでも許してしまう気がする。
了承の言葉を口に出す前に、先輩は立ち止まってグッと力を入れ、私をさらに抱き寄せた。
額が合わさるような距離で私をじっと見つめ、ダメ押しとばかりに言葉を重ねる。
「騎士団でちゃんと出世して良い暮らしさせてやる。絶対幸せにするから今俺を選べ」
「……」
「結婚したら毎日『好き』って言って、毎日お前のところに帰ればいいんだったな? 約束する」
「……」
「他にも何かあるなら聞くから言え」
私は真っ赤な顔で黙りこくって聞いていたけれど、蚊の鳴くような声で口を開いた。
「『好き』の方は、今日からでお願いします」
「わかった。婚約するならな」
「結婚して『愛妻弁当』作ったら、お仕事に持っていってくれますか?」
「もちろん。ありがとう」
「……キ」
「キス」と発音し終わるより前に唇が押し当てられた。
「他には?」
「もう大丈夫です……」
りんごより赤いかもしれない顔を隠すため、先輩の肩口に顔をぐりぐり押し付ける。先輩はそんな私の頬にもう一つキスを落としてからまた歩き始めた。
「よし、じゃあ書類取りに行くぞ」
機嫌が良さそうな先輩がやっと私を下ろして地面に立たせ、目線の高さが逆転した。火照った顔をぱたぱたと両手で仰ぎながら周りを見渡したら、私たちは馬車乗り場に着いていた。
息も絶え絶えで尋ねる。
「何の書類ですか?」
「婚約の申請」
先輩が自分の家の馬車を見つけ、御者に行き先を伝えている。
この国ではまず書類を取りに行き、そこに両家のサイン等必要事項を記入して提出することで婚約が成立する。
一向に火照りが収まらない顔を覆って項垂れた。先輩は私の気が変わらないうちにさっさと婚約を結ぼうとしているのだと気づいたからだ。
今までは私が大好き全開だったのに、急にグイグイ来られると心臓が爆発しそうになる。
「何してんだ? アナベル」
顔を上げれば先輩が当たり前のように私に手を差し出していて、馬車の入り口までのとても短い距離も手を引いてくれる。
先輩にそのまま手を借りて馬車に乗り込む直前、私は足を止めて彼に向き合った。
「ね、先輩」
「ん?」
先輩は165cmで、私は180cm。先輩と親友のおかげでいつのまにかコンプレックスじゃなくなっていた自分の身長。
私を見上げる大好きな人に、いつも通り、心からの満面の笑みを向けた。
「私、大きくて良かったです!」
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
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